後章 赤い十字と白の塔 8

 〈価値のない表現者〉の出現で、都市の電子図書館に存在した多くの情報が検閲され、取捨選択された。

 選別に携わった賢人たちの多くは〈人格主義者〉だった。

 あらゆる性差を否定した〈中性主義〉の流れを汲む彼らは、人間の本質を外見ではなく内面に捉え、外見は内的行いを抑圧する悪性な情報だと考えた。その結果、歴史的偉業を成した人間の外見的特徴をしるす記録が、すべて消去された。

 歴史は〈肖像なき偉人たち〉で溢れかえり、我々は過去と対面することなく、過去からの支配を逃れ、真の自由を手に入れた。



 白い塔は太古の建造物だ。村長が先代から『ずっと昔からあった』と聞いているため、少なくとも百年以上昔の建造物となる。

 外観はくすんだ白一色に包まれていて、現代のどの世代の建築にも当たらない。

 赤い十字が何を意味しているのか。何のために建てられたのか、想像するよしもなかった。

 しかし高さだけは相当あるので、その麓を地図なしにも目指すことはできた。

 朝の食料の配給を待って、私たちは出発した。

 ホームへ来るときに見た鉄のレールは、南向きにも続いていた。それが敷かれた道の左右には、初めは牧草地が広がっていて、数頭の牛や馬が敷き詰められた草のベッドに首を下ろしていた。

 牛飼いの男が牛舎の中に備わった小部屋から出てきて、私たちを不審そうに見ている。

 ディックはホーム唯一の健常者だから目立つし、なにより二人とも明らかに外行きの背嚢(はいのう)を背負っていた。

 私は視線を合わせないように必死だったが、あろうことかディックは手を高らかに揚げ、ちょっと散策に行ってきます! と叫んだ。

 それを聞いた男は、にっこり笑って行ってらっしゃいと言う。

 ディックの行いは、もともとゴミしかないゴミ捨て場で喜びの種を探すような、意味不明で不気味なものだ。都市から追いやられた人間がギリギリで生きていける最後の居場所になったホームの、さらに外側に興味を向けるというのは狂気でしかない。

 けれど私が見る限り、ディックは彼らとじかんを分かち合っていた。

 認められているのだ。

 文明を支えるのは知識で、知識の親は好奇心だ。じかんは崇拝の対象として取って代わったが、かつては今よりずっと――好奇心という感情が優遇されていたはずだ。

 およそ千年、時代が後退したように見えるホームにおいては、ディックが重宝されるのもうなずける。

 しかし私には、ホームの人間たちが考え悩むことを、ディック一人に押し付けているようにも見えた。

 ディックはずっと不思議だったそうだ。あの白い塔が、どういう理由で存在するのか。赤い十字の意味が何なのか。しかし彼と同じような興味を持つ人間はこれまで、現れなかった。

「いたとしても、生活でいっぱいいっぱいだったから」

 背嚢のベルトに手を引っ掛け、猫背になって歩くディックが自嘲気味に笑った。

「君のように、全てを投げ出す覚悟がないと」

 覚悟、とはひどく買い被った言われようだ。

 私にそんなものがないことは、私が一番わかっている。

 牛の鳴き声が聞こえなくなるとレールはいつの間にか途絶え、細い道に入った。木々に囲まれた湿った道のきわには納屋があって、敷地を覆う柵には木製の手押し車が繋がれていた。

 骨組みに木の板を打ち付けたような抜け目だらけの納屋は、扉は閉まっていても中が容易に知れた。大きな直方体の形に固められた、茶褐色の草だった。固めゴミに似ているが、密度は高くなく、ふわふわしているみたいだった。

 ぼくらの象徴だ、とディックが草を指差して言った。乾燥したアルファルファは、牧草の走りだったんだ。と、目を輝かせて言う。

「でも自家受粉できるように改良されているから、もうミツバチは必要ないんだよ」

 世代章に刻まれていながらも、一度も見たことがなかった。

 人を刺し殺す、どう猛な虫らしいが。

「お前はどうなんだ。仕事は」

「健康診断が終わったから、次のローイングが来るまで暇をもらってるよ。それに入居者たちは、健康診断の話なんてほとんど、聞いていないから」

 そう言ってディックは俯いた。

「結局信用していないんだ。科学そのものを」

 我々は皆カシオに向かって手を合わせ、大いなるじかんの中で呼吸することを感じていた。じかんはどこまでも続いていて、その恩恵をいつでも受けることができると信じていた。

 しかしもうこの世界に〈じかん〉は存在しない。

 漠然と息をする〈時間〉が横たわるだけだ。

「僕もその一人さ」

 木々が濃くなってきて、影の支配する領域が増したからだろうか。一気に暗くなったディックの様子を見て、どういう意味かと訊ねずにはいられない。

「僕がここにいるのはね、ケン。追い出されたからなんだ」

 ディックは相変わらず親指をベルトに引っ掛けている。ぶら下がった両手が脇と胸の間でぶらぶらと揺れている。

「どうしてだ」到底信じられない話だった。「奇ビョウには見えない」

「僕の生まれは三〇四七年八月二日。ちょうどひと月前に四分の二の日を迎えたんだ。だから見ての通り、発症はしていないけど――」

「待ってくれ。今なんて?」

 耳を疑った。彼が何か大切なことを話そうとしているのはもちろん察しがついたが、その話題に触れなければという私の配慮を凍結させるほどに、驚嘆すべき事実を彼は今吐いた。

「三〇四七年八月二日だって?」

 ディックは当惑しながら首を縦に振った。

 私は不用心とわかりながら立ち止まって、ジャケットの右ポケットから懐中時計を取り出し、蓋を開いた。

 蓋の裏には、ケン・サトウ year3047.8.2とある。

「同じ日だ」

「そう、だね」

「なんで言わなかったんだ」

「言ったよね? この場所ではもう、生年月日なんて関係ないって」

「時間は。何時だ」

「あ、朝だよ」

「朝の何時だ!」

「八時、五十八分、だったと思うけど」

 世界には、運命によって結ばれた人間がいる。それは同じ日に生まれた人間だ。二十万の新生児が、二十ある区にそれぞれ十備わる出産所で生まれる。つまり同地区における一日当たりの出生数は二・七人。しかしその運命さえ、匿名性の保持のために断絶される。

 同じ日に生まれた人間は、その世代の中で、五五〇人弱。広大な世界に広がった彼らを、そうだと知って出会う確率は、限りなくゼロに近い。

 しかしこの男は、今、八時と言った。あまつさえ五十七分と。それは私を担当した助産官が母にそっと告げた時刻と同じだった。

 母はその日時を聞くとすぐに、オーダーメイドで、常滑焼の皿の底に刻ませたそうだ。常滑焼は我が家で大切に保管していた。私よりも、その日時の方が大事そうだった。

 三〇四八年八月二日という日付は、母にとって私が母より未来に死ぬという確証に他ならなかった。私は生まれた日付を恨んでいた。それは、人間関係を築くことから安心を奪った。私は諦めた。

 それでも私は、私と同じ時間を生きる人間との出会いを、どこかでずっと求めていた。

 この男と私は、地続きの大地の上で、一分以内の誤差で生まれていた。

 運命は実在した。奇跡はすでに起こっていた。

 私は呆然と歩いた。ディックは察してしばらく沈黙を保った。

 そのうちに木々の勢力が強まって、道は完全に閉ざされた。私たちは背嚢から稲刈り用の鎌を出し、互いの位置に気を配りながら鎌を振りかざして歩いた。そうしなければ、すぐにでも蔦が絡みついて身動きが取れなくなった。

 太い枝を避け、細くて継ぎ目になっている部分に刃を当て搔き切るのは、馴れの要る煩雑な作業だった。しかしその避けがたい共同作業は、奇しくも私の精神を安定させるのに役立った。

 雨水が地面に吸われていくように、奇跡は私の体の中に染み込んでいって、体内に溶け広がって記憶となった。母の無念が晴れたわけではないが、できることならば彼女に今伝えてあげたい。

 奇跡的な出会いがすぐそばを歩いていると考えることは、ただの事実であるにせよ、私の調子を狂わせた。

 心の片隅に期待が芽生え、自らそれを必死に摘む。

「大丈夫かい? そんなに考え込んで」

 ディックが上半身を折り曲げ、私の顔を心配そうに覗き込みながら言った。

 私は二、三度うなずくと、

「追い出されたと言ったな」ディックの黒目が左右にちらつく。「それについて聞きたい」と、畳み掛けるように言った。

「ケンはさ……」

 沈黙があった。足だけは機械のように動かし、うつむいたまましばらく小枝を踏み砕く音だけを聞く。

 しばらくしてディックが言った。

「時計を信仰する理由を、知っているかい?」

「時計というのは、カシオのことか」

 ディックはうなずくと、

「時計は、じかんを切り取って数字に変えてしまうだろう? それってすごいことだよ。だって世界の根底に流れている得体の知れないものを、目に見える形で引っ張り出して来たんだから」

 じかんを数えることができるのは、全ての生物の中で人間だけ。

 じかんは、人間だけに許された世界の捉え方だ。

 でも、それが生命の仕組みの中に備わっていたとしたら?

 ディックは静かに語った。

 考えてもみて欲しい。なぜ僕たちは八十年で死ぬのか。

 他の生命は、例えばペットや家畜なんかは、屠殺されたりビョウ死してしまうから『寿命』を迎えることはない。

 例えばホームのいたるところに生えている木だって、水辺に繁茂している藻だって、全部生命だ。

 僕らと何が違う?

 僕は小児回復の研究の過程で、細胞の内部にある小さな器官を調べていた。小児回復は、組織学と脳神経学が主流で、細胞を最低単位として扱っている。それよりミクロでの考察は、ほとんど行われていない。ほとんどの子供には必要ないことだからね。

 でもごく稀に、ミトコンドリアという細胞小器官がうまく機能せずに、認知や発達に障害を及ぼす子供が生まれてくる。彼らの平均寿命は十七歳。

 現状、彼らを生かすための最良の手段は、対処療法を重ねなんとかして二十歳まで生かして、回復を受けさせることだった――。


 ディックの視線は、ずっと足元だった。

 子供は死ぬ。子供は脆さの象徴だ。人間として始まってさえいない。親は誰しも時間に手を合わせ、子の安寧な成長を祈る。

 私は外周部の貧しい十五年生学校の出だったから、高額な小児回復治療を受けられずに、『転校』していく子供たちを幾人か見た。

 私も気分が落ちて、視線を下へと向ける。すると靴の裏が何か硬いものを踏む。その感覚は、以降ずっと続いた。

 土の下に何かが埋め込まれている。

 時折、木の根の成長とぶつかり合って、いびつな形になっていた。

 そして次第に破損した石の塀も見え始め、頑なに道を閉ざす木々の隙間から、わずかな光が差し、それほど遠くない位置に白い塔の根元と思しき部分が見えた。

 私たちは、到着を意識した。

 込み入った話ができるのは、あの根元へ着くまでだと思った。

 ねじ曲がった木々も凹凸の地面も、皆大人しく静かだった。大きな木に留まって水を飲んだあとディックは、続きを話し始めた。


 僕は彼らを見捨てたくはなかった。

 そんな時に、記述にない細胞小器官を見つけたんだ。

 それは十二の房があるオレンジの断面のような見た目をしていて、ミトコンドリアと同じように二重の生体膜と独自のDNAを持っていた。十二の房を持つ外見は針こそ持たないけど、時計のようだったから僕は〈時計粒体〉と名付けた。

 時計粒体は人間のある遺伝子を抑制するタンパク質を生成していることがわかったが、それ以外に目立った活動は見られなかった。

 しかし観察を続けていくうちに、驚くべき機能を有していることがわかった。

 時計粒体は『脱皮』を繰り返す。

 内膜と外膜が入れ替わり、外膜が排泄されるんだ。

 細胞小器官である時計粒体が脱皮するメリットなんて、何一つないんだよ。側から見れば完全に無駄な機能だ。

 でも、これこそが驚くべき機能だったんだ。

 脱皮には正確な周期があった。

 全く正確に七十三秒ごとだったんだ。研究所に備わったクォーツ時計で確かめたから、間違いない。

 どこかで聞いたことはないかい、七十三という数字。

 カシオに備わった七十三秒を刻む生物は、人体にいたんだ。細胞の中に棲んでいた。

 そしてその生物は決まった回数の脱皮を行うと、死ぬ造りになっていたんだ。

 七十三秒が二の十一乗、三の三乗、五の四乗回――つまり三十四億五千六百万回の脱皮だよ。

 そんなに膨大な時間待っていて、何が起こるのか。三十億とちょっとの脱皮を繰り返した果てにあるのは、自死だ。不死にも思えるその生き物は、宿主の細胞ごと死を選ぶ。しかもその死に方が独特で、全身の細胞同士の組織的繋がりを絶つことで、細胞そのものを死に至らしめるんだ。

 人間を形作っている細胞が、瞬時に切り離される。体がバラバラになったりはしないけど、組織的な動きの一切が遮断される。

 それが今日で言う、『死』だ。

 ヒトの死は、時計粒体によって『引き起こされていた』んだ。


「時間は、人類が作り出したものではなかった。僕たちの体の中に、すでに。あったんだ」

 ディックは過呼吸のようになり胸に手を当てて息を正すと、咳払いをして続けた。

「かつて、人を創造したという神を人自身が作り出したように……時間を体内に宿した人間が、時間を発明した。いわばこれは原点回帰なんだ」

 政時官は、時間を神と言い間違えるという初歩的な失態を決して犯さない。神は旧世界の遺物だ。しかし大抵の檀家は、時間も神も同じようなものだと考えている。

 人は神を捨てたのだ。なぜかはわからない。時代の潮流と言えばそれまでだ。あるいは大いなる存在の呼び方が変わっただけか。――いや、呼び方を変えることにこそ意味があった。

 私たちは知らぬまに『時間を体内に宿すこと』を受け入れていた。

「実際に体の中に備わる時計と連動するような人生時計をつくり、信仰と生活をひとまとめにした、というわけか」

 ディックはうなずいた。

「都市はずっと前から知っていたんだ」

 その一方で、彼がその事実を『発見する』ことは許さなかった。

 ディックは普段の彼が使わないような、悲しみと怒りを潜ませた静かな声色で言った。

 けれど、何の目的があって隠す?

 時間を刻む細胞小器官が人体に備わっている、という透明な事実を人々が知ることが、なぜ不都合なのか。

「ある日僕が警察省に出勤すると、研究室は閉鎖されていて、ガイドライン法違反で指名手配されていたんだ。そこからは問答無用だったよ」

 そしてこの通りさ、と両腕を広げて無理に明るく笑った。

 でも、とディックは最後に付け加える。

「科学は信じられなくなったさ。少なくとも僕たちの知る科学は……〈肖像なき偉人たち〉が電球を作った頃とは全く別の意味になってしまった」

 ディックにはもはや、悲しみもなく、怒りもなく、ただ一定の諦めがそこにあるだけだった。

 そしてついに視界が開く。

 そそり立つ塔の根元が姿を表す。

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