前章 良いじかんがありますように 9

 あくる日、私は銀行を訪れた。

 ゴーグルと青い帽子を身につけた男性職員が入り口でちらりとケンを見た。彼らはもとより斜視な偏見家だ。気にせず出金装置の前に立つと、画面に、ようこそという文字が柔らかい字体で出る。生年月日を打ち込み、カメラを覗き込む。

「またか」

 赤く丸っこい文字で、エラーと出る。

 もう一度カメラに、今度は表情を固くさせて向かい合った。やはりエラーが出る。ボタンを押し、店員を呼ぶ。足が車輪の人形がすうっと人混みを縫ってやってきた。

「顔認証が失敗する。どうしたらいい」

「サングラス、マスク等はお外しになりましたか」

 私は人形の方に顔を突き出した。

「外してる。汗もかいてない。どうしたらいい」

「表情筋に、無理な力を入れていませんか」

「してない」

 人形はモーターをうならせてしばらく考えたあと、顔面疲労を抑えるストレッチをお勧めします、と言った。

 的外れだと怒鳴ると、人形は文字通り顔を赤くした。額の二つのランプを点灯させ、けたたましい警告音を発したのだ。

 青い帽子の男がジャケットを脱いで走り寄ってきた。シャツの胸元には警察官の勲章が見えた。男は私の腕を恐ろしい握力で掴み、装置から引っ剥がそうとする。

 その時、私のポケットが震えた。自由がきく方の手でなんとかそれを掴み出すと、携帯端末には、不正引き下ろしの警報が届いていた。警報に表示された支店名を見た男は、手を離した。

「失礼しました。しかし、おかしいですね。ご本人様でいらっしゃる。けれど機械は、そうじゃないと言っている」

 男は支店長を呼んできて、機械の異常を示唆した。支店長は怪訝な顔で装置と私の顔を交互に見る。

「顔は変わらないはずなのに」

 男と支店長は、私を面談室の一つへ連れ込み、そこで待つように言った。その間に装置を再設定してくると言う。

 男が残り、支店長は出て行った。男の視線はいまだに鋭い。

「念のため、本人確認をお願いします」

 そう言って彼は胸元から警察官専用の端末を取り出した。誤認だったにも関わらず、まだ求めるとは。

「なぜそんなことをする必要があるんだ」

 私が語気を強めて言うと、彼は表情を変えずに、

「必要はありませんが、対応されませんと、最大で三日間、出金を停止させていただく場合がございます」

 私は気を鎮めて、端末を受け取った。端末は擬似筆記式で、専用のペンが端末の側面に収まっており、引き抜いて画面に擦り付け、文字を書いていく。

 名前と住所、連絡先、職業、犯罪歴など十に及ぶ欄を埋める必要があった。

 なぜ住所なんぞ書かねばならないのか、と湧き上がる不服を腹の底にしまいこみ、私は出来るだけ雑な字で書き上げる。

 書き終わるが早いか、私の手元から掠めとるように奪った男は、端末を一瞥しすると、それからしばらくの間、私に圧のある視線を向け続けていた。

 支店長が戻ってきて、私を部屋から連れ出した。警察官とは真逆のような、おもねりと繕いに満ちた態度だった。

 無事出金が叶うと、私は礼を言わずにさっさと銀行を出た。

 一刻も早くあの胸糞悪い警察官から遠ざかりたかった。

 あれが私と同じ公務員だということを認めたくなかった。

 顔を拭いたハンカチが脂っぽく滲んでいる。

 急に気持ちが悪くなって公衆便所に入り、顔を洗った。

 疲れているんだろう。



 だいぶ街のネオンから離れたところまで来た頃だ。

 ストールを巻いた女が一人、ふらふらと歩いてくる。はじめは左右に顔を向けながら行先に惑っているようだったが、大型バス二台分ぐらいの距離まで近づくと、女は明らかに私の方に向かって歩いてくるのだ。

 無視して通り過ぎようと思ったが、その表情は、笑顔の仮面を貼り付けたみたいに硬直していて、私は驚いてまじまじと見た。

 すると女がかすかな声で囁いた。

「検診を受けた方がいいでしょう」

 なんだって、と強めに言うと、女は静かに、

「ですから、検診を受けた方がいいでしょう」

 見たところ、回復センターの勤務というわけでもなかった。女は私を蛇のように執拗に追い回した。

「お兄さん、検診を。早め早めの検診です」

 私は女の顔が次第に何か化け物に変わっていくような気がして、恐ろしくなって走った。何年かぶりに走るということをした。だいぶ距離をとり、胸に痛みを感じて立ち止まる。

 遠くでまだ叫ぶ声が聞こえている。私は胸を押さえながら、息を切らさない程度に足早に去るしかなかった。

「検診を受けた方がいい。あなたは絶対に、検診を受けた方がいい!」

 私はタクシーを捕まえ、急いで乗り込んだ。


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