第17話 バーボンの香りと嘘
《Le Clos d’Ashiya(ル・クロ・ド・アシヤ)》の扉が、深夜零時を少し過ぎた頃に開いた。
湿った空気が店内に流れ込み、カウンターの上のグラスが小さく揺れた。
「こんばんは。まだ開いてましたか。」
そう言って入ってきたのは、美容室オーナーの大山智也だった。
白いシャツの袖を軽くまくり、少し疲れたような笑みを浮かべている。
「いらっしゃいませ。どうぞ。」
マスター柏木は静かにグラスを磨く手を止めた。
「今夜は静かですね。」
「ええ。こういう夜は嫌いじゃありません。」
「わかります。」
大山はため息をつくように言い、
カウンターの端の席に腰を下ろした。
「今夜は、何をお作りしましょうか。」
「……バーボンをお願いします。メーカーズマークをロックで。」
「かしこまりました。」
氷がグラスに落ちる音。
その響きに合わせるように、BGMが流れ始めた。
George Benson「Nothing’s Gonna Change My Love for You」。
ギターの柔らかい音が、夜の静けさを包み込む。
「懐かしい曲ですね。」
「そうですね。」とマスターが微笑む。
「学生時代、よく聴いてました。」
大山はグラスを見つめながら言った。
「当時付き合っていた子が、カセットに録音してくれて。
“この曲みたいな関係でいようね”なんて、青臭いことを言ってたのを思い出します。」
マスターは穏やかに笑った。
「いい思い出ですね。」
「いや、むしろ苦いです。
あの頃の僕は、嘘ばかりついていました。
お金もないのに高い店に連れて行って、
大きな夢ばかり語って。
本当の自分を見せるのが怖かったんです。」
マスターはグラスを磨く手を止め、
「でも、その夢は叶えたじゃないですか。」と言った。
「ええ、形だけは。」
大山は笑みを浮かべたが、
その笑いは、どこか痛々しかった。
「最近は……経営が思うようにいかないんです。」
「そうでしたか。」
「どの店舗も売上が落ちていて、スタッフも辞めていく。
新しいことをやらないとと思っても、リスクが怖い。
結局、何もできずにSNSで“順調です”なんて書いてる自分が滑稽で。」
マスターは静かに頷いた。
「経営って、孤独ですね。」
「ええ。
スタッフの前では“社長”でいないといけないし、
客の前では“余裕ある男”を演じる。
でも家に帰ると、何もない部屋でただ黙ってテレビを見てる自分がいるんです。」
マスターはボトルを傾け、少しだけバーボンを注ぎ足した。
「虚勢を張るのは、悪いことではありませんよ。」
「そうでしょうか。」
「誰だって、そうやって自分を守っているものです。」
大山はしばらく黙っていた。
氷がグラスの中で溶けて、やがて小さく音を立てた。
「……真理さん、今日は来てないんですね。」
「はい。最近は少し忙しいみたいです。」
「そうですか。」
大山は少し遠くを見るように言った。
「この前、偶然病院の前で会いました。
昔と変わらず、穏やかでした。
でも、もう僕のことなんか、特別な目で見ていないようでした。」
「それが、少し寂しかった?」とマスターが尋ねる。
「ええ。
あの人の優しさって、ちゃんと自分と向き合ってる人のものなんです。
僕みたいに逃げてばかりの人間には、まぶしすぎる。」
「逃げることも、生きる力のひとつですよ。」
マスターの言葉に、大山は少し笑った。
「マスターは、逃げたことないんでしょう?」
「ありますよ。」
「本当ですか。」
「たぶん、あなたよりずっとたくさん。」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
店内にはギターのアルペジオが優しく流れ、
氷の音と混ざり合って、ひとつの静かなリズムになった。
「……マスター。」
「はい。」
「僕は、もう少し“正直に”生きてみようと思います。」
「それができたら、きっと髪を切るよりずっと難しいですよ。」
「たしかに。」
大山は苦笑いしながら立ち上がった。
「今夜はこれでおいくらですか。」
「今夜はサービスにしておきます。」
「そんなこと言われたら、また来たくなるじゃないですか。」
「それなら、それで。」
マスターは柔らかく笑った。
大山は伝票を受け取りながら、
ふとカウンターの上に目を落とした。
「マスター、店って、結局“人”ですよね。」
「そう思います。」
「僕の店も、そうなればいいな。」
扉のベルが小さくカランと鳴った。
外の空気は冷たく、
大山の背中が夜の街に溶けていく。
マスターはその背を見送り、
残されたグラスを静かに磨いた。
バーボンの香りがまだ残っている。
George Benson の歌声が、最後のフレーズを迎える。
マスターは小さくつぶやいた。
「誰だって、少しぐらい嘘をついて生きている。」
その声は、
琥珀色のグラスの底に沈んでいった。
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