第16話 沈黙のグラス

《Le Clos d’Ashiya(ル・クロ・ド・アシヤ)》の灯は、今夜も控えめだった。

雨こそ降っていないが、湿った夜気がガラス窓を曇らせる。

店の奥では、グラスを磨く音だけが響いていた。


マスター柏木誠は、ふと目を上げた。

カウンターの端の席。

そこに、いつのまにか岩本信吾が腰を下ろしていた。


「先生、いつ来られたんですか。」

「今さっきだよ。静かだったから、邪魔しても悪いかなと思ってな。」

「とんでもない。静かな夜ほど、先生より似合う人はいません。」


岩本は笑って帽子を脱ぐ。

「お世辞でも悪くない響きだな。」


高校時代の恩師であり、《Le Clos d’Ashiya》のオープン当初からの常連客。

その声には、いつも穏やかな風があった。


「いつもの、でよろしいですか。」

「頼む。」


マスターは棚の奥から一本のボトルを取り出した。


GlenDronach 18 Years Allardice(グレンドロナック18年)。


深いルビー色の液体が、ランプの灯を受けて鈍く光る。


「今夜は少し温かい甘みをどうぞ。

 この季節の湿った空気には、よく馴染みます。」


岩本はグラスを受け取り、

鼻先で香りを確かめてから小さく頷いた。

「いい香りだ。……まるで秋の夜の記憶みたいだな。」


「Eva Cassidyの《Autumn Leaves》を流しています。」

「麻耶さんの十八番だったな。」


その名を聞いた瞬間、

マスターの手がほんのわずかに止まった。


ピアノの前奏が流れる。

Eva Cassidyの歌声が、

空気の中をゆっくりと染めていく。


「《Le Clos d’Ashiya》という店名は、麻耶が決めたんです。」

マスターは静かに言った。

「“囲まれた庭”という意味らしいです。

 “あなたの演奏が、誰かの心を包む場所になりますように”って。」


「いい名だ。」

岩本は頷きながらグラスを傾ける。

「麻耶さんらしい。

 優しくて、少し寂しい響きがする。」


マスターは微笑む。

「ええ。あの人は、そういう人でした。

 どこか遠くを見ながら歌う人だった。」


「最後の夜、お前はピアノを弾いていたんだろう。」

「……ええ。」

「辛かったろう。」

「ええ。でも、あの夜の音を失くしたら、

 彼女まで消えてしまう気がして。」


岩本は黙って聞いていた。

グラスの中の琥珀が、静かに揺れる。


マスターは、記憶をなぞるように言葉を続けた。

「最後の曲は、《Fly Me to the Moon》でした。

 “今日はこの曲で終わろう”って、彼女が笑って。

 その声が、まだ耳の奥に残っているんです。」


「それでいいじゃないか。

 悲しみを閉じ込めるより、奏で続けた方がずっといい。」


「でも時々、怖くなるんです。

 この店の灯を消したら、

 彼女の声まで消えてしまうんじゃないかって。」


「消えんよ。」

岩本の声は、穏やかで揺るぎなかった。

「お前のピアノの中に、まだ息づいとる。」


マスターはゆっくりと頷き、

ピアノの上に指を置いた。


「先生、少しだけ弾いてもいいですか。」

「もちろん。」


鍵盤が沈み、

静かな音が店内に広がった。

演奏したのは、《Autumn Leaves》。

Eva Cassidyの声と、麻耶の声、そして柏木の音が、

ひとつに溶け合っていくようだった。


岩本は目を閉じ、

ゆっくりと口元に笑みを浮かべた。

「……あの夜より、優しい音だ。」


マスターは弾く手を止めずに、小さく答えた。

「もう、あの頃の痛みを少しだけ手放せたのかもしれません。」


曲が終わり、針のノイズだけが残った。

店の空気は、まるで時間が止まったかのように静かだった。


岩本が小さくつぶやく。

「また秋が来たら、この曲を流してやれ。」

「ええ。彼女の季節ですから。」

「そうだ。……麻耶さんも、きっとこの店で聴いているさ。」


マスターは小さく笑って言った。

「そのときは、ピアノじゃなくて、彼女の横で拍手します。」


「それが一番いい。」


岩本は帽子を被り直し、ゆっくりと立ち上がった。

「じゃあな、誠。また来る。」

「ええ、先生。またお待ちしています。」


扉のベルが鳴り、

外の風が一筋、秋の香りを運んだ。


マスターは静かにカウンターに戻り、

グラスを磨きながら、

麻耶が最後に歌った《Fly Me to the Moon》の一節を、

小さく口ずさんだ。


Fill my heart with song, and let me sing forever more…


その声は、もう音楽ではなく、

ただひとりの男が静かに誰かを想う、

深夜の祈りのようだった。

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