第10話 雨の午後、ひとりのサイモン

雨の音が、低く、静かに続いていた。

神戸港を見下ろす事務所の窓に、無数の雨粒が打ちつける。

サイモン・グラントは、デスクに広げた契約書を見つめながら、

その一文を何度も読み返していた。


「In case of unforeseen circumstances――」


予期せぬ事態。

彼の人生は、いつもその言葉に囲まれていた。


25年前、ロンドンから日本へ来た。

最初の仕事は神戸港の貿易業務。

右も左もわからず、片言の日本語で毎日交渉をした。

それが今では、自分の会社を持ち、

数人の日本人スタッフを雇うまでになった。


仕事はうまくいっている。

だが、書類の山の中に「帰る場所」はない。


「Lunch, boss?」

若い社員が顔を出す。


「No, thank you. Later.」


軽く笑って立ち上がり、傘を手に取った。

行き先は、決まっている。


《Le Clos d’Ashiya(ル・クロ・ド・アシヤ)》。

昨夜、祥子と別れたあの店へ。


午後三時。

まだ開店前のバーの前に立つと、雨音だけが聞こえた。

シャッターの隙間から、わずかに灯りが漏れている。

ノックすると、すぐにマスターの声がした。


「どうぞ、サイモンさん。」

「You knew I come, yes?」

「なんとなく。」

「Then pour me something honest. No ice, please。」

「ラガヴーリン16年で、いかがですか?」

「Perfect. That one always tells truth.」


琥珀色の液体がグラスに注がれる。

燻したようなピート香が立ちのぼり、

雨に濡れた木の匂いと混ざり合う。


「今日静かですね。」

「雨の日は、みんな家にこもるんです。」

「Ah… in London same. Rain make people quiet, but heart noisy.」


サイモンはグラスを唇に運び、一口飲む。

スモーキーな熱が喉を通り抜け、

どこか懐かしい痛みを残す。


――昨夜の祥子の言葉が浮かぶ。

『泡が弾ける音がするうちは、まだ終わってないわよね?』

あの声が、まるで香水のように心に残っていた。


「マスター、昨日の彼女……always so beautiful?」

「ええ。昔から。でも今の方が、柔らかいですよ。」

「In London, women hide age. Japan women… show it, but more beautiful.」

「いい国ですね。」

「Yes. But… not my country.」


彼は窓の外を見た。

雨の舗道。にじんだ看板。

どれも馴染んだはずの景色なのに、どこか自分のものではない。


「サイモンさん、日本は好きですか?」

「Love… and little hate, both。」

「どちらが多いです?」

「Depends day. Today maybe… love more。」


マスターが笑った。

「異国で暮らすのは、孤独でしょう?」

「Lonely yes. But… isolation, no good。」

「違うんですか?」

「Lonely is... thinking someone. Isolation is... thinking nothing.」


マスターは静かにうなずいた。

「なるほど。日本人は“思い出す”ことが得意です。」

「思い出 too much, maybe.」

「ええ、たぶん。」


サイモンは小さく頷く。

「Shoko... she remember everything. Even smell.」

「彼女は香りで時間を閉じ込めてますから。」

「She said... I smell like rain.」

「ええ、そんな気がします。」


サイモンは笑い、再びラガヴーリンを口に含む。

その深いスモーキーさが、心の空白に染み込んでいく。


「マスター、『Clair de Lune』知ってますか?」

「もちろん。」

「Please play. For me.」


マスターは微笑み、古いレコードを取り出す。

針が落ち、ドビュッシーの旋律が静かに流れた。

雨音とピアノが重なり、店の空気が少し柔らかくなる。


「When I was young... father say me,

‘Find place smell like your soul.’」

「見つかりましたか?」

「Not yet.」


サイモンはグラスを見つめて微笑んだ。

「Maybe here. Maybe not.」

「どちらでもいいのかもしれません。

 “居場所”は、探すより、滲むものですから。」


サイモンはうなずき、最後の一口を飲み干した。

「マスター、you talk like... how to say... philosopher?」

「酒が哲学を喋らせるんですよ。」


ふたりの間に、穏やかな沈黙が流れる。

“Clair de Lune”が中盤を過ぎ、雨が少し弱まった。


サイモンは立ち上がり、ジャケットを羽織った。

「How much?」

「今日はいいですよ。雨の日はサービスです。」

「Then I leave tip... for your wisdom, yes?」


彼は千円札を二枚、静かにカウンターに置く。

マスターが軽く頭を下げる。


「また来てくださいね。」

「Yes. I come... when rain come again.」


扉を開けると、湿った空気が頬を撫でた。

傘を広げると、雨粒がやさしく弾けた。


――この国の雨は、やさしい。

ロンドンの雨より、少しだけ温かい。


サイモンは深く息を吸い、静かな通りを歩き出した。

遠くで“Clair de Lune”が、まだ流れている。

その旋律が、彼の心の奥に、静かに滲んでいった。

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