第9話 香りの記憶

三宮の店を閉めると、川上祥子は鏡の前に立った。


「今日も、よく頑張ったわね。」


自分にそう言いながら、口紅を塗り直す。

香水のボトルを手に取り、手首に一滴落とす。


“Fleur de Rocaille”。


ローズとスズラン、そしてほのかなムスク。

若いころからずっとこの香りだけは変えなかった。

この香りをまとっている限り、自分はまだ「誰かに見られる存在」でいられる気がした。


外に出ると、神戸の夜風がビルの谷間を抜けていく。

華やかな通りを抜け、タクシーに乗る。

行き先を告げる。


「芦屋、ル・クロ・ド・アシヤまで。」


54歳。

三宮のブティック「Éclat de Shoko(エクラ・ド・ショウコ)」のオーナー。


若い頃は雑誌にも載り、“神戸マダムの象徴”と呼ばれた。

けれど今は、鏡の中の輪郭が少しずつ曖昧になっていく。

スタッフの会話に出てくる「インフルエンサー」という言葉の意味が、

正直、まだしっくりこない。


タクシーが停まる。

静かな路地に、小さな灯り。


《Le Clos d’Ashiya(ル・クロ・ド・アシヤ)》。


扉を押すと、カランとベルが鳴った。


「こんばんは、祥子姉さん。」

マスターが、いつもの穏やかな声で迎えた。


「こんばんは、マスター。今日もいい香りね。」

「今日はコーヒー豆を焙煎していたんです。木の匂いも少し混ざってます。」

「それが、落ち着くのよ。」


彼女はカウンターに腰を下ろした。


「今夜はね、軽いシャンパンを。甘くないほうがいいわ。」

「では、ジャクソンのキュヴェ745を。」


ボトルのコルクが、控えめな音を立てて抜ける。

細やかな泡が立ちのぼり、グラスの中で星のように弾けた。


「いい香り……」

「派手さはありませんが、芯の強い一本ですよ。」

「私に、似合ってる?」

「ええ。時間を重ねた華やかさ、という意味で。」


祥子は静かに笑い、グラスを唇に運んだ。


「マスター、最近ね……鏡を見るのが怖いの。」

「どうしてです?」

「“変わらないね”って言われるたびに、

 鏡の中の私は確実に変わってる。

 どこか、裏切られた気分になるのよ。」


マスターはグラスを磨きながら言った。


「鏡は正直ですからね。

 でも、正直なものが必ずしも美しいとは限りません。」

「じゃあ、今の私はどう見える?」

「華やかで、少し寂しそうに。」

「……やっぱり隠せないのね。」


彼女は泡が消えていく音に耳を澄ませた。

昼間は明るく振る舞い、夜は静けさの中で自分の年齢と向き合う。


東京で働く息子はもう数ヶ月帰っていない。


「孫が生まれたんですって?」と客に聞かれても、

「ええ」と笑うだけ。

本当は、まだ一度も抱いたことがない。


「マスター、女ってね、香りで自分を保つ生き物なの。」

「ええ、わかります。」

「この香りをつけるとね、あの頃の私に戻れるの。

 誰かを待っていた、あの頃に。」

「誰か、とは?」


祥子は少し笑って視線を落とした。


「サイモン。イギリス人の彼よ。あなたも知ってるでしょう?」

「もちろん。最近はお疲れのようでしたね。」

「真面目な人だから。……少し、心配なの。」


そのとき、扉が開いた。

風とともに、ベルガモットと紅茶の香りが漂う。


「Good evening.」


スーツ姿のサイモン・グラントが立っていた。

シャツの襟を整えながら、少し照れたように笑う。


「Shoko-san、まだお仕事? Very hardworking lady, yes?」

「あなたこそ。……来ると思ってたわ。」

「運命? Fate... maybe small fate tonight, yes?」

「そうね。たまには運命も悪くないわ。」


マスターが微笑んだ。

「サイモンさん、今夜は?」

「Same as always... ah、日本語ね。ええと……スコッチ、ストレートでお願いします。」

「承知しました。」


カウンターに二つのグラス。

ジャクソンのシャンパンと、スコッチ。

泡と琥珀が交わるように、二人の時間が重なっていく。


「Shoko-san、same perfume... what name?」

「Fleur de Rocaille。」

「ああ、フルール・ド・ロカイユ。いつも same smell。あなた smell とても gentle、ね。」

「それ、褒め言葉として受け取っておくわ。」

「Yes, compliment. You are same Shoko... maybe little softer, but same eyes。」


祥子は笑ってグラスを傾けた。

「そんなこと言うから、女は香りを変えられないのよ。」

「Then please never change it. 時間が passing しても、香りは same memory。」


マスターが、二人の会話を聞きながら小さく呟いた。

「香りは、時間を閉じ込める魔法ですから。」


里奈のガーベラとは違って、

祥子の時間は香りで色づいている。

マスターは二人のグラスに、もう一度酒を注いだ。


「人生も同じですよ。」

「え?」と祥子が聞く。

「泡は消えても、香りは残る。」


祥子は静かに頷き、視線をサイモンに向けた。

「私たちも、まだ残り香くらいはあるかしら?」

「Of course. Still... beautiful scent, Shoko-san。」


外では春の雨が降り始めていた。

店の中には、ジャクソンの泡と、

そしてフルール・ド・ロカイユの甘く清らかな残り香。


Madonnaの“Celebration” が静かに流れる。

華やかさの裏で、時間は静かに進んでいった。


「ねぇ、マスター。」

「はい。」

「私、まだ終わってないわよね?」

「もちろんです。泡が弾ける音がするうちは。」


祥子はゆっくりと笑い、グラスを掲げた。

シャンパンの泡が、彼女の瞳の奥で小さく光った。

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