第2話 届かない青
雨上がりの芦屋川は、街灯の光を映して鈍く光っていた。
昼間の喧噪が嘘のように静まり返った川沿いの道を、宮本紗季は傘を閉じて歩いていた。
バッグの中には、今日クライアントから突き返された見積書。
「デザインは素敵だけど、もう少しコストを抑えてほしい」
その言葉が、ずっと頭の中で響いている。
自由を選んだはずだった。
会社を辞めて、自分の名前で仕事をする道を選んだ。
誰にも縛られない代わりに、責任も孤独も全部自分で引き受ける。
それが“自立”というものだと思っていた。
でも最近、ときどき思う。
――自立と孤独の境界線は、どこにあるんだろう。
そんな夜は、誰かの声が欲しくなる。
だから足は自然と、あの小さな看板の方へ向かっていた。
《Le Clos d’Ashiya(ル・クロ・ド・アシヤ)》。
扉を押すと、カランとベルの音。
外の雨の気配をそのまま閉じ込めたような、少し湿った空気。
そして流れていたのは、The Policeの “Every Breath You Take”。
マスターがカウンターの奥で顔を上げた。
「こんばんは、紗季さん。」
「こんばんは。……今日は雨、ひどかったですね。」
「ええ。お疲れさまでした。いつものジントニックで?」
「はい。お願いできますか。」
氷の音が、心地よく響く。
透明な液体が注がれ、ライムが沈む。
グラスの中で細かな泡が立ちのぼり、静かに弾ける。
「今日は遅かったですね。」
「ええ、現場が長引いてしまって。」
「そういう日もあります。人間の思い通りにいかないのが仕事です。」
「……ほんとですね。」
マスターの言葉に苦笑しながら、彼女はグラスを唇に運ぶ。
トニックの苦みが舌の奥に残る。
――この苦さが、今夜は心地いい。
ふと、隣の席に目をやる。
昨夜、偶然再会した高木の姿がそこにあったことを思い出す。
まさか、あんなに自然に笑えるとは思わなかった。
そして、彼の落ち着いた声。
「怒っても、図面が早く仕上がるわけじゃないですから。」
あの言葉が、妙に胸に残っている。
彼は変わっていなかった。
穏やかで、どこか優しくて。
でもその優しさが、少しだけ切なかった。
――奥さん、元気ですか?
そう聞いた自分の声が、今でも耳に残っている。
あの問いに、彼が少しだけ間を置いたことも。
「ええ……たぶん。」
その曖昧な言葉が、彼の抱えるものの大きさを物語っていた。
「今日は、お一人ですか?」
マスターの声に我に返る。
「ええ。仕事帰りに、少しだけ飲みたくて。」
「お仕事、順調ですか?」
「順調に……見えるといいんですけど。」
マスターは軽く頷きながら、レコードを取り替えた。
針が落ちる音がして、再び“Every Breath You Take”がゆっくりと流れ始める。
「この曲、好きなんです。」と彼女が言う。
「大学生のころ、よく聞いてました。
失恋した夜に、何度も。」
「誰を想っていたんですか?」
「秘密です。」
笑ってみせたが、その笑顔の奥で、胸の奥にある何かが少し疼いた。
それは十年前、誰にも言えなかった恋。
会社員時代、まだ二十代の頃。
憧れていた上司がいた。
彼は既婚者で、指一本触れたこともなかった。
けれど、会議で隣に座るだけで心が高鳴った。
――恋をしてはいけない相手ほど、記憶に残る。
「紗季さん。」
「はい?」
「今日は、少し顔が疲れていますね。」
「そう見えますか?」
「ええ。でも、そういう顔も悪くないですよ。」
マスターの言葉は、慰めではなく、観察のように静かだった。
彼女は少し笑ってグラスを持ち上げた。
「じゃあ、この顔のまま、乾杯しておきます。」
「何に、ですか?」
「……今日を終えられたことに。」
トニックの泡が、グラスの中で弾けた。
店の扉が再び開く音がした。
思わず振り向くと、そこには高木が立っていた。
スーツの肩には雨のしずくが光っている。
「あ、宮本さん。」
「……こんばんは。」
二人の間に少しの間ができた。
マスターが笑って声をかける。
「高木さんも、いつものメルローで?」
「はい。お願いします。」
高木は隣に座るかどうか、少し迷うように視線を向けてきた。
宮本は軽く頷いた。
「どうぞ。」
その一言で、彼は静かに腰を下ろした。
ワインの赤と、ジントニックの透明が並ぶ。
二人の間には、昨夜よりも少し柔らかい空気が流れた。
「雨、ひどかったですね。」
「ええ。傘、差してても濡れました。」
「……この辺、よく来られるんですか?」
「たまに。考えごとしたいときとか。」
「考えごと?」
「ええ。設計のこととか……人生とか。」
その「人生とか」という言葉が、少し胸に残る。
「宮本さんは、今も忙しいですか?」
「おかげさまで。でも、忙しいって便利な言葉ですよね。
本当は、ただ寂しいだけなのかもしれないのに。」
「……そういうとき、どうしてます?」
「植物に話しかけてます。」
彼が驚いたように笑った。
「本気ですか?」
「本気です。朝、ベランダに出て、『今日も頑張ろうね』って。」
「いいですね。」
「高木さんは?」
「俺は……誰にも話しかけませんね。
話しかけたら、何かが壊れそうで。」
一瞬、視線が交わる。
外の雨音が、ガラス越しに響く。
会話が途切れたその静けさが、逆に心地よい。
マスターが、そっとふたりのグラスを見ながら言った。
「青って、不思議な色なんですよ。」
「青?」と宮本。
「ええ。冷たそうに見えるけれど、本当は人を落ち着かせる色。
ただ、光の当たり方で、時に寂しさにも変わる。」
宮本は自分のジントニックを見つめた。
透明の中に沈むライムが、淡い青を映しているように見えた。
――届かない青。
自分の気持ちが、そこに重なった。
「マスター、詩人みたいですね。」
「お酒を作るのも、詩を作るのも似てますから。」
その言葉に、高木が少し笑った。
「確かに。分量を間違えると、苦くなりますしね。」
「そうそう。甘すぎても、飽きられます。」と宮本。
三人の笑い声が、バーの中に小さく響いた。
外の雨はいつのまにか止み、川のせせらぎだけが聞こえる。
時計の針が11時を回る頃、宮本はグラスの底を見つめた。
「そろそろ、帰ります。」
「もう少し飲んでも?」
「ううん。飲みすぎると、次に会ったときに照れますから。」
高木は少し戸惑ったように笑い、
「じゃあ、また……偶然、会えるといいですね。」
「ええ。偶然って、悪くないですよね。」
彼女はそう言って、コートの襟を直した。
扉を押すと、夜風が少し冷たくて、思わず肩をすくめる。
振り返ると、店内の灯りの中で高木がグラスを見つめていた。
その横顔を、彼女はしばらく見つめてから、静かに歩き出した。
マスターは、二人の背中を見送りながら小さく呟く。
「青は、遠くにあるから美しい。
でも、たまに近づいて見たくなる夜もあるんです。」
レコードの針がノイズを立て、曲が途切れる。
“Every Breath You Take”。
そのフレーズが、雨上がりの夜に溶けていった。
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