Le Clos d’Ashiya – ひとりの夜に、灯る庭 –
Simon Grant
第1話 グラスの中の赤い記憶
夜の芦屋川は、秋の風に揺れる街灯の光を映して、静かに流れていた。
会社帰りの高木悠介は、革のブリーフケースを片手に歩きながら、吐く息が白いことに気づいた。
今年ももう、冬の入り口だ。
五十歳。設計会社の部長職。
名刺を渡せば誰もが頭を下げ、若い社員たちからは「穏やかな上司」と評される。
だが、家ではそうはいかない。
妻とは口を開けば、子どもの受験や光熱費の話ばかり。高校生の息子は夜遅くまで塾に通い、中学生の娘はスマホばかり見ている。
家の明かりがついていても、そこに自分の居場所はない。
「……まぁ、今日くらいは寄っていくか。」
誰に言うでもなく呟き、彼は足を芦屋川沿いの細い路地へと向けた。
その奥に、小さな看板がひっそりと光っている。
《Le Clos d’Ashiya(ル・クロ・ド・アシヤ)》。
5年近く通い続ける行きつけのバーだ。
扉を開けると、鈍いベルの音が鳴り、暖かな空気とともにジャズが流れてきた。
Grover Washington Jr.の“Just the Two of Us”。
サックスの柔らかい音色が、夜の静けさに溶け込む。
「こんばんは、マスター。」
「いらっしゃいませ。今日もお疲れさまです。」
カウンターの向こうでグラスを磨いていたマスター――柏木誠が、穏やかに笑った。
黒いシャツにエプロン姿。
どんな客にも一定の距離を保つが、不思議と安心できる人だ。
「メルローをお願いします。」
「かしこまりました。温度はいつも通りでよろしいですか?」
「ええ、それで。」
ワインボトルの栓が抜かれ、赤い液体がグラスに静かに注がれる。
淡い照明の下で、その赤はまるで溶けかけたルビーのようだった。
ひと口含むと、果実の甘みの奥にわずかな渋み。
今日一日の疲れが、ゆっくりとほどけていく。
それでも、胸の奥の重さまでは消えない。
「おっ、ユースケじゃないか。」
振り向くと、ドアの向こうに小泉修二郎の顔があった。
中学の同級生。
家業の不動産を継ぎ、今では家賃収入だけで悠々自適の生活をしている。
「よぉ、しゅうちゃん。」
「久しぶりだな。仕事帰りか?」
「うん、ちょっと息抜きに。」
「偉いなあ。俺なんかもう毎日息抜きしかないぞ。」
そう言って笑うが、どこか疲れた目をしている。
数年前から体調が優れないと聞いていたが、彼は冗談めかして話を逸らす。
「まぁ、酒が飲めるうちは大丈夫だ。」
「飲みすぎるなよ。」
「説教すんな、部長さん。」
笑い合いながら、二人は昔話をした。
中学の文化祭でバンドを組んだこと。
初めて彼女ができた日のこと。
ワインとハイボールが進むうち、時間の流れがゆるやかになる。
やがて、小泉が時計を見て立ち上がった。
「お先に帰るわ。明日、検査なんだよ。」
「検査?」
「たいしたことない。血圧、血糖、エトセトラ!」
軽く手を振り、ドアを押す。
外の冷たい風が一瞬店内に流れ込み、ベルの音が揺れた。
高木はしばらくその余韻を聞いていた。
ふとマスターが静かに口を開く。
「……小泉さん、最近あまり飲まれませんね。」
「ええ。何か、隠してるんでしょうか。」
「そうかもしれません。でも、隠すことにも意味があるんですよ。」
「隠すことに、意味。」
「はい。人は、隠すことで自分を守るんです。話せるようになるまでは、ね。」
マスターの言葉に、高木はワインを見つめた。
琥珀色の灯りの中で、グラスの赤がゆらゆらと揺れている。
そのとき、再び扉のベルがカランと鳴った。
風と一緒に、微かな香水の香りが流れ込んでくる。
ドアの向こうに立っていたのは――宮本紗季だった。
「……高木さん?」
驚いたように、そして少し照れくさそうに笑う。
「宮本さん……久しぶりですね。」
三年前、彼女と一緒に大阪の商業施設のプロジェクトで仕事をした。
当時、彼女はまだ会社勤めで、センスの良さと明るさでチームを引っ張っていた。
その後独立したと聞いてはいたが、こうして再会するとは思わなかった。
「ここ、よく来られるんですか?」
「ええ、もう長いですよ。静かで、落ち着くんです。」
「そうなんですね。私も最近、この辺で打ち合わせが多くて。たまに寄らせてもらってるんです。」
マスターが彼女の方へ微笑みかけた。
「紗季さん、いらっしゃいませ。いつものジントニックでよろしいですか?」
「お願いします。」
氷の音が響く。
グラスに透明な液体が注がれ、トニックの泡が細かく立ちのぼる。
彼女は一口飲んで、「あぁ、この味」と呟いた。
「独立して、二年でしたっけ?」
「そうですね。最初は怖かったですけど、どうにかやってます。」
「さすがです。あの頃からセンスありましたから。」
「ありがとうございます。でも、独立すると全部自己責任ですからね。誰も守ってくれない。」
彼女の表情に、少しだけ影が差した。
グラスの縁を指でなぞりながら、続ける。
「それでも、依頼があるうちは幸せなんですけど。仕事が終わって部屋に戻ると、シーンとしてて。」
「……その気持ち、わかります。」
高木の言葉に、彼女は静かに頷いた。
「高木さんこそ、奥さまお元気ですか?」
「ええ……たぶん。」
「たぶん?」
「最近は会話も少なくて。娘も息子もそれぞれ忙しいですしね。」
「奥さま、たしか同じ会社でしたよね?」
「そうなんです。宮本さんも知ってましたね。」
「ええ。明るくて、芯のある方でした。」
彼は苦笑した。
「変わらず、しっかりしてますよ。俺よりもずっと。」
「……いい奥さんですね。」
「ええ。」
二人の間に、少しだけ沈黙が流れた。
外では風が木々を揺らし、遠くで阪急電車の音が聞こえる。
その音が消える頃、彼女が小さく口を開いた。
「高木さん、いつも穏やかですよね。」
「そう見えるだけですよ。」
「昔から。現場でトラブルがあっても、声を荒げたところを見たことがない。」
「怒っても、図面が早く仕上がるわけじゃないですから。」
「ふふ。そういうところ、好きでした。」
思わずワインを少しこぼしそうになる。
彼女はすぐに、「あ、そういう意味じゃなくて」と慌てて笑った。
「仕事仲間として、ですよ。」
「もちろん。」
その照れ隠しのような笑顔に、三年前の記憶が重なる。
会議室の窓から差し込む午後の光、彼女が髪を耳にかける仕草。
何も起きなかったけれど、確かにあの頃、心が少しだけ動いた。
「マスター、この曲、いいですね。」
「“Just the Two of Us”。1981年、Grover Washington Jr.です。」
「懐かしいです。大学のときによく聞いてました。」
「お二人には似合いますね。」
「いやいや、そんな。」
高木が笑うと、宮本も少し肩をすくめた。
「……でも不思議ですね。音楽って、昔の気持ちを連れてくる。」
「ええ。香りも、音も、記憶に一番残りますから。」
彼女の言葉に頷きながら、高木はグラスの赤を見つめた。
もう30年も経つのに、今夜の赤は、どこか懐かしく見えた。
マスターが静かに近づいて、二人に声をかける。
「赤は情熱の色。でもね、温度で味が変わる。冷えすぎると渋くなるし、ぬるいと甘くなりすぎる。」
「……人間も、同じかもしれませんね。」と宮本。
「ほどよい温度を保つのが、一番難しいです。」と高木が答える。
マスターは微笑んで、静かに離れていった。
二人の前には、それぞれのグラスが静かに揺れていた。
時計の針は、もうすぐ日付を越える。
「そろそろ帰らないと。」
「そうですね。私も明日、朝から打ち合わせで。」
「またお会いするかもしれませんね。」
「偶然が、重なるかもしれません。」
彼女はそう言って、軽く頭を下げた。
ドアのベルが鳴り、夜風がふわりと店内に入る。
高木はその背中を見送りながら、ワインを飲み干した。
マスターが静かに言う。
「人はね、高木さん。失くしたものばかり数えるけど、本当はまだ手の中にあるものの方が多いんですよ。」
「……そうかもしれません。」
レコードの針が、再び音を立てた。
“Just the Two of Us”のメロディが静かに戻ってくる。
その夜、グラスの中の赤は、どこか温かく、少し切なかった。
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