第002話 出会いの森と赤い薬

謎の声の余韻を振り切るように、残骸へと近づく。


仄かな温かさを感じるのに加え、一層焦げ臭さが鼻をつく。


「ひどいな……」


横倒しになった馬車の木製フレームは所々折れている。

素人目ではあるが、折れてから燃えたようにも見えた。


死体も馬車も原型を留めていない。


向きはバラバラなのに、

何かから逃れるように、森の方に向かって倒れているように見えた。


……何か残っていないか探そう。


馬だったものを尻目に、荷台の後方へと回る。


樽の残骸、煤けた袋、炭化した食べ物らしきもの――

どれも使い物になりそうにない。


仮に何か見つかったとしても、薬もないのに火傷すれば最悪だ。


……荷台の中は諦めよう。森のそばになら何かあるかもしれない。


そう考えて移動しようとした時だった。


「……う、うぅ……」


かすかだったが間違いない、人の声だ。

森の方から聞こえた気がしたが――おそらく近い。


「……! 誰かいますか……!?」


反射的に呼びかける。

いや、浅はかだったかもしれない。


今の俺は丸腰で、真横には凄惨な現場。

声の主が犯人でなかったとしても、惨状の元凶が近くにいるかもしれない。


「……う……あ……」


身構える俺の耳に、再びうめき声が届く。


「……くそっ」


警戒を緩めず、声の方へ森へ進む。


――すぐ見つかった。


一〇メートルもない先、藪の死角に倒れている人影があった。

声のイメージ通り、かなり小柄な女――少女のようだ。


暗い赤とも紫ともつかない豊かな髪は、汚れてくすんでいる。

耳の先端がわずかに尖っていて、人間のそれとは少し違って見えた。


質素な服……いや、粗末な物なのか、あちこちボロボロで擦り切れている。


駆け寄って声を掛けてみる。


「大丈夫ですか? 聞こえますか!?」

「だ……誰……です、か? うっ……けほっ……けほっ」


寝そべったまま、首だけ動かしてこちらを見る。


痣と擦り傷だらけで、仰向けに倒れたまま咳き込むばかりだ。

どういうことか、俺を見て大きく目を見開いた。


何か俺の顔に付いてるんだろうか。


もしかして、顔はそのままなのか……?


違う、今は考えてる場合じゃない。


全身が土汚れだらけだ。馬車から放り出されたのかもしれない。

少なくとも、返事ができないほど悪い状態ではなさそうだ。


――素人判断は危険か。


「怪我はありますか? 痛みは?」

「体が……痛い、です……。あ、ぐっ……」


手を伸ばそうとして、引っ込める。

大怪我の場合、下手に動かすと悪化する可能性があることぐらい知っている。


だが、手元には何もない。

馬車の周囲にも、有用そうなものは何も見当たらなかった。


とはいえ、応急処置の知識すらない俺がここにいても何も出来ない。

せめて薬だと判断できそうなものでもあれば……


「すみません、手元に薬はありません。何かないか探してきますので、待ってて下さい」


そう告げて、馬車の所まで戻ろうとして立ち上がり――振り返った。


「……忘れ物」

「――!?」


俺は息を呑んだ。音もなく、そこに“いた”。

咄嗟に身構える。


目の前に現れたのは、また別の少女だった。


……誰だ?

足音は聞こえなかった。忍び寄ってきた?

何もできないと知りつつも、俺は警戒心を最大まで高める。


枯れ草の色のハネたショートカットに、無表情。

ピンと立った獣の耳と、

ショートパンツの横からはくるんと丸まったふさふさの尻尾。


少し低い位置から向けられる、大きなえんじ色の目は――

瞳孔が縦に割れていた。


冷めた瞳で背嚢のような鞄を突き出して固まっている。

その姿は、俺の警戒心を解くには不十分だった。


「……誰ですか?」

「ボク? ボクはボク」

「は……?」

「ボク、ご主人のこと、守るのが役目」


いきなり意味がわからない。

守る? 俺を? まるで誰かに言わされているみたいだ。


忘れ物と言ったような気がするが、こんな森に何かを持ち込んだ覚えはない。


「……どうしたの?」

「何の用ですか」

「ご主人が忘れ物したから、持ってきた」

「ご主人……? こちらの少女のことですか?」


視線は犬耳の少女から外さず、手で指し示す。


「ううん、ちがう。ご主人はご主人」


鞄を持った拳の人差し指だけを立てて指し示しているのは、俺だ。


……ちょっと待ってくれ。

色々起きすぎて、もう脳がパンクしそうだ。


嘘を言ってるようにも見えない。

ただ事実を述べている、そんな調子。


「あの、人違いだと思うんですが」

「……? ご主人はご主人だよ」


……埒が明かない。

とはいえ、悪意は感じないんだよな。


俺が主人であるということにしなければ、話が進まなさそうだ。


重傷の少女を見捨てる――そんな選択肢、俺には取れない。


「……あなたのお名前は?」

「名前、ない」

「ない? あだ名とかは?」

「…………ご主人に、つけてもらいなさいって」

「……誰に?」


犬耳少女は口を開きかけ、すぐに口をつぐんでしまう。


いや、もうこの際一旦おいておこう。


「鞄を渡してもらえますか?」

「うん、どうぞ」


お互いに近づいて、革製っぽい鞄を受け取る。

色々入っているみたいだが、持ってみても不思議とあまり重さを感じない。

ただの勘に過ぎないのに、何故か――薬が入ってる気がした。


「……色々あるな」


しゃがみ込み、垂れた横髪を耳の後ろにかき上げる。

革鞄を挟んだ向かい側に、犬耳少女も同じようにしゃがみこんだ。


中身は――まず目についたのが、豪華な装飾の鞘付きの短剣。

縁が丸い盾型の、光沢のある白い板。


女性服、ジャラジャラと鳴る小袋。

他にも色々あるが、今は――これか?


綺麗にカットされたガラスの小瓶。

黄金色のものと、鮮血のような赤色の二種類。どちらも淡く発光している。


ふと、瓶の表面に自分の指が映り込んでいるのに気づく。

その奥に、ほんの一瞬――赤い瞳のようなものが揺らいだ。


……いや、今はそれどころじゃない。


見るからにファンタジーの薬だが、飲み薬か塗り薬かの判断がつかない。

見た目には飲み薬っぽいんだが。


「毒、じゃないよな」

「絶対ちがう」

「なぜ、そう言い切れるんですか?」

「…………言えない」


その言葉の奥に、何かを守ろうとするような気配があった。

わずかに眉間に皺を寄せて――どこか、申し訳なさそうな雰囲気を漂わせる。


問い詰める気は起きなかった。


「試してみるしかないか。すみません、お待たせしました」


倒れ伏す少女へ向き直る。

首は動かせるようで、こちらを向いていた。


少女にも見える位置に、二種類の薬を置いた。


「薬……だと思うのですが、私の知識ではこれが正しい薬かどうか――」

「……! 赤……色……?」


薬を視界に収めた少女が目を見開き、ほんの一瞬息を呑んだ。


「ど、どうしたんですか」

「赤、色……」

「こっち、ですか? この薬をご存知とか……」


少女がゆっくりと頷く。

赤い薬――触れてもいないのに、脈打っているかのような揺らぎがあった。


「こっちですか?」


再度、頷く。


「わかりました。では……ほんの少しだけ、頭を起こしますね」


少しでも嚥下しやすいように、慎重に後頭部に左手を差し入れる。

首に触れた時、少女が顔を歪ませた。


ガラス栓を歯で引き抜き、口に近づけてゆっくりと瓶を傾けて――


効果は劇的だった。


「うっ……げほっ! げほっ!」

「えっ……?」


半分ほど飲み下したところで、少女の体が淡い赤色の光に包まれる。


次の瞬間、頬の傷が――瞬く間に消えた。

まるで、時間そのものが巻き戻ったみたいに。


こんな薬、俺の知識に存在しない。


獣の耳を持つ少女。

光る薬。


今更、ありえない現象を目にして確信した。


俺の世界にはない、不思議な現象。


本当に――異世界に来てしまったらしい。


だけど、ここで立ち止まってたらだめだ。

もう戻れないかも知れないという不安を、胸の奥に無理やり押し込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る