一久呂恵は我武者羅な手を伸ばす

「はぁ? 嫌ですけど」




 20分もかけて辿り着いた、本校舎3階の国語科職員室。……1年生の教室は軒並み1階だから、こんな高い所までは昇ってこない。だから現代文とか、古文とか、漢文の先生たちがこんな場所に詰め込まれているなんて、知る由もなかった。



 所狭しと堆く、積み上げられた無数の本たち。教科書、辞書、単行本に文庫本……授業の資料、だろうか。セピア色の裸電球に照らされた書物の巣窟の、その最奥部――――目の前に壁しかない窓際に設置された、ぼろぼろの机。




 ぎしぃ、って回転椅子を鳴らして……でも、わたしたちの方なんて振り返りもしないで。



 新任の国語の先生、櫛野灰里先生は、苛立たしげに吐き捨てた。




「えっ……あ、あのっ、も、もう他の先生には断られちゃって……櫛野先生しか、もう残っていないのです――」



「聞こえてなかったんですか? 話、終わってますけど」


 邪魔なんで、とっとと帰ってくれません?




 ――――身を乗り出した甘茶ちゃんの声も、カタカタカタカタ、キーボードを叩く音ばかり響かせながら弾き返す。拒絶する。




 ……八十島先生も、漉磯先生も、望月先生も、もう他の部活の顧問に就いちゃってた。



 だから、この白髪はくはつで気怠げで、酷い猫背な先生だけが、頼みの綱、なのに……。




「……お願い、しますです」




 深く、深く深く。



 甘茶ちゃんは腰を折り曲げて、頭を下げた。……見てすらいない人に向けて、小さくて可愛くて、でも凄く、凄く頼りになるこの先輩は、必死に敬意を示してみせた。




「甘茶は……黄羅星先輩から、部を託されたのです。……部長を務めるどころか、甘茶の代でお取り潰しなんて、そんなの、あの人に顔向けできないのです……! っ、し、真剣に、演劇に取り組みたいって子もいるのです! だから――」








「チッ……あーもううるっさいですねぇ。面っ倒臭い……高校生にもなって、帰れって日本語すら通じないんですか? はぁ……とんだ底辺校に左遷されたもんだなぁ……チッ」








「――――面倒って、どういう意味よ。櫛野センセー」




 舌打ち。罵声。皮肉。愚痴。……それを、ようやく振り返った櫛野先生は、眼鏡越しに睨みながら並べてきて。



 甘茶ちゃんがたじろぐ。でもそれが半歩で済んだのは、代わりに前に出た子がいたから。



 後ろからじゃ見えないけど、でも。



 ハーフツインの赤毛が暴れるほどに勢いよく、踏み出した紅実ちゃんはきっと……凄く凄く、怒っている……!




「まだ成人式すら遥か遠いお子様がさぁ、勇気出して必死に頭下げてんのよ? うちらが青春捧げて頑張れる部活を続けさせようって、柄にもなく根性出してんのっ! それを見もしないで、言うに事欠いて『面倒』だぁ!? あんた、それでも教師なのっ!?」



「……キンッキンとまぁ、耳に響きやがる声ですね。嫌がらせの才能でしたら一級品でしょうよ、あなた。――――教師ですよ、私。見て分からないんですか?」



「っ、だったら――」



「勝手な理想を押しつけないでほしいものですね。こちとら、。生徒の希望を全自動で叶えてくれる、便利なランプの魔人ではありません」



「っ~~~~、に、人間だって言うんなら、うちらの、ううん、甘茶の事情を聴いてっ、少しは心動かされたりしない訳っ!? 応援してあげたいとか思わないの――」



「思いません。? 私になんの義理が? 得が?」




 カタカタ、カタカタカタタ。


 左手だけでキーボードを弄る櫛野先生は、少しだけ首を傾けて、椅子に身体を預けた行儀悪さで画面を覗いていた。……おおよそ、人の話を聴く体勢ではないけれど。



 でも、仕方ない。しょうがない。



 




「黄羅星先輩……百瀬黄羅星のことですね。どうやら世間様で持て囃されているらしい女優様の。へぇ、去年までこの学校に在籍…………ふぅん、殊勝なことですね。どこぞの犬っころを思い出します。古巣を守りたいというのは実に躾の行き届いた忠犬ですが……生憎、日本は民主主義国家でしてね。実質的には多数決が罷り通るディストピアです。退部届を提出した多数意見に、おとなしく従えばいいんじゃないですか?」



「っ……そ、それ、が、嫌、だから、甘茶、は――」



「大体、そんな有名人様が在籍していた時ですら、演劇大会は地区予選敗退。やる気も気合も頑張る気もない、烏合の衆しかいなかったような部でしょう? 同情を誘う程度にはプライドを捨てられるのはご立派ですが……さっきの問いに戻ります。?」



「――――――――」



「っ、甘茶ちゃんっ!」




 ぷるぷるぷるぷる、さっきからずっと震えていた脚に、いよいよ限界が来て。



 甘茶ちゃんは、膝から崩れ落ちてしまった。咄嗟に支えたから、脚を床へ打ちつけるには至らなかったけど……静かに、でも早く激しく、呼吸が急いていて。



 ……あぁ、スカートからハンカチを取り出すのにさえ、もたもたして。



 自分の鈍臭さが、改めて何度でも、嫌になる。嫌気が差す。



 ――――わたし以外のみんな、が、……櫛野先生を、睨むのと同じように。




「っ……得ってあんた、あたしたちは――」



「部活の最低人数ギリギリの5人……しかも身長差があり過ぎます。こんな凸凹メンバーじゃ、まともな劇なんてできないでしょう? つまり真っ当な実績なんて残せない……余計な仕事は増えるくせに、査定にはなんのプラスもない。給料に色すらつかない、完全なるタダ働きじゃないですか。言いましたよね? 私は、櫛野灰里は、教師であり、それ以前に人間です。。……子供という特権を濫用した自己満足のお遊びに、浪費してやるだけの余分はないんですよ。――――分かったら、『可哀想なお子様』の演技なんかしてないで、さっさと帰ってもらえます? 私、さっさと帰りたいんで」




「っ、……ぁ、ぁ――」



「櫛野ぉっ!! あんた、黙って聞いてりゃ言いたい放題――」



「――――叫ぶな、四ノ宮紅実。……甲高い声が不快だという事実にだけは同意する」




 ぽろ、ぽろ、ぼろぼろぼろぼろ。



 後ろから不器用に持ち上げられる格好になっている甘茶ちゃんは、口元に当てられたハンカチへ次々、熱い雫を染み込ませていく。大きく膨らんだ胸が盛んに上下して、息が速過ぎることがすぐに分かる。



 もう、甘茶ちゃんに、櫛野先生の言葉へ反論できる余力は、ない。



 3人の先生に断られるのだって、辛かったはずだ。最後の希望だって縋った先で、ここまで言われてしまったら…………折れちゃうのも、泣いちゃうのも、分かる。分かるよ。



 わたしですら分かるんだから――――ずっと、甘茶ちゃんと一緒だった紫苑さんは。



 分かり過ぎるくらい分かっちゃってて、きっと凄く、怖い顔をしているんだと思う。




「……次から次へと……で? あなたはなんです? どうすれば帰ってくれますか?」



「貴様が首を縦に振れば今すぐにでも、なんだがな。櫛野女史。……成程、貴様には演劇部の顧問を引き受けるに際して役得がないと――――概ね事実に基づいてはいる。が、日本には『空気を読む』という文化がある。たとえ事実でも、真実でも、口にするべきでない言葉があるというのは、人生経験で心当たりがあるだろう?」




 まるで、嘲笑うようにそう言って。



 紫苑さんは、胸元からするりと、スマートフォンを取り出してみせた。




「便利な時代だね、今は。こんな薄っぺらい金属板1枚で、簡単に言質が取れる。……四ノ宮紅実の言う通りだ。生徒からの要望を『面倒』のひと言で却下し、罵詈雑言を並べ連ねる貴様の言動は、教師としての職業倫理からは逸脱している。……この録音データを、例えば校長や教頭へと提出すれば、貴様はどうなるかな――」




「――――




 その、鼻にかけるような短い嘲笑は。



 いつも紫苑さんが得意気に見せるものにそっくりで――――でもそれより、ずっとずっと、邪悪で悪辣で。




 酷く――――――――聞き、慣れた、背筋の凍る、音。




「ネットニュースでしか世間を知らないガキは、これだから困りますね。……あなたのやろうとしていることはとどのつまり、上司から部下への『パワハラの強要』です。理解できていますか? あなたの取っている手段は、使



「っ、…………」



「このご時世に、『若い』『女』であるこの私を、禿げ散らかったおっさんが密室に閉じ込めて口汚く罵る――――実態がどうであろうと、事実としてそこだけが抽出されれば、あの禿げ爺共の人生は終わります。今日日、発信方法には困らないですしねぇ。……それを理解している狸爺共は、危ない橋なんざ渡りません。奴らも私と同じ、教師である以前に、人間、ですからねぇ」



「っ……、っ、しかし――」




「櫛野先生。ぼくたちはなにも、他の部活動同様の扱いを求めようとは思いません」




 幾度も言葉を噛み殺してもなお、堪え切れず感情論で戦おうとする紫苑さんを。



 遮って、蒼汰君が冷静な声を上げた。……今や櫛野先生の前には、『おおきなかぶ』みたいに行列ができている。最後尾のわたしは、ねずみの立ち位置に相応しい小心者、だけど。




「っ……ぁ、ぁ……っ、っ……っ、ぁぁ……っ!」



「……甘茶、ちゃん……」




 猫のように賢くも立ち回れない、犬のように辛抱強く粘る強さもない。



 不器用な思春期の女の子でしかない甘茶ちゃんの、熱過ぎるくらいの体温が……震える背筋を、引いていく血の気を、少しだけ、焼いたのかもしれない。




「っ、蒼汰……? あんた、なにを――」



「櫛野先生。あなたの言う通り、ぼくたちでは真っ当な劇を演じるのは困難です。なので……大会等の催しには、一切参加しません。ただ放課後、集まる場所としての部室の管理だけをお願いしたいと――」



「っ、ざっけんじゃないわよ蒼汰ぁっ!! あんた、それでもあたしの弟な訳っ!?」



「っ、と、ぉ――」




 立ち塞がっていた紫苑さんを押し退けて、紅実ちゃんが蒼汰くんの肩を掴む。……想定していたのか、蒼汰くんは振り返りすらしない。ふたりの温度差は、後ろから見える髪色以上に瞭然だった。




 でも……よろけた紫苑さんが、こっちへ来てくれたのは。




 思いがけない、僥倖――




「あたしが俳優目指してんの、蒼汰は誰より知ってるでしょ!? 百瀬黄羅星はこの学校のこの部活で輝きを残した! あたしはそれを更に! もっと! 超えてみせなきゃいけないじゃないのっ!! そうでなきゃ――――っ、なのにあんたぁっ!!」



「お姉ちゃん。少し落ち着いて――」



「逆にあんたはなんでそんな落ち着いてんのよいつもいつもぉっ!! 部がなくなるかどうかって瀬戸際に……あぁもう腹立つなぁっ!!」



「はぁ……うるっさいですね。鬱陶しいんで、早く出ていってくれませんか? 全員」



「っ、元はと言えばあんたが――」







「紫苑さん。甘茶ちゃん、お願い、します」






 ――――あぁ、やっぱり。この数日で、学んだ通りだ。




 わたしが少し、声を大きくすると。




 いつもはうるさがられるのに、この人たちは、黙ってくれる。注目してくれる。……わたしが、なにを言いたいのかに、意識を向けてくれる。




 。優しい人たちなんだろう。こんな人たち、初めてだ。




 ……だから、わたしも、頑張らなきゃ。なにかしなきゃ。




 ここにいるだけじゃ、ダメなんだ。この人たちと一緒にいたいなら、わたしだって、頑張らないと。




「……一久呂恵……?」




「櫛野、先生」




 紫苑さんへ甘茶ちゃんの矮躯を預けて、ゆっくり、立ち眩みが起きないように立って。




 1歩、2歩、3歩――――半分。それだけで。




 紅実ちゃんと蒼汰くんの間を割って、わたしは、櫛野先生の真ん前に立った。




「っ……、な、なんですか今度は。……脅迫の次は暴力でも?」




「……………………」




 櫛野先生。櫛野灰里先生。



 わたしは、。むしろ櫛野先生は、正しいことしか言ってない。この上なく、真っ当なだ。



 学校の先生なんて、授業をしてテストをするのが、仕事。



 それ以外なんて、全部おまけ。怠くて面倒でサボりたくなる、ついでの些事。



 目の前で、人格も人間性も陵辱されている被害者を、。……分かり切ったことだ。身をもって学んできたことだ。




 だから最初から、良心になんて期待していない。




 暴力なんてとんでもない……それよりもっと、性質が悪い、よ。




「さっき、の……紫苑さんの、提案。先生……一点だけ、否定できない弱み、ありました、よね?」




 喉に力を込める。震えないように、どもらないように。



 わたしを知らない、この先生に。



 無駄に高い背丈のハッタリが、機能し続けるように。




「弱み……? あなた、なにを言って――」



「『教師としての職業倫理からは逸脱している』……紫苑さんの、評価は、事実、でしょう? ……確かに、直接に校長先生とかに、渡してしまえば……握り、潰されるでしょう。けど……例えば、?」



「っ……!」



「新任教師の不祥事を、失言を、校内にばら撒かれれ、ば……先生の授業、は、誰にも、響かなくなり、ます。……成績という数字に、分かりやすく、現れれば……上の人たち、には、櫛野先生への、指導をする、という、義務が、発生します、ね」




 櫛野先生の言う通りだ。校長先生も教頭先生も学年主任もその他も全員、教師なんて所詮は人間だ。損は嫌がる、得は欲しがる。



 櫛野先生の授業がロクに聴かれず、成績や進学実績が下がってしまったら――――それは、校長先生の査定にもマイナスに働く。それを取り消すためなら、パワハラなんて気にせずに、堂々と櫛野先生を攻撃できる……そうなればどれだけ、人は、残酷になれるだろう。




 多分、この人は、わたしと同じ。




 嫌と言うくらいに、その恐ろしさを、知っている……!




「面倒を買って、ゼロを得るか……断って、マイナスを買うか――――どう、しますか? 櫛野、先生」



「っ…………チッ……おとなしそうな顔しといて、不良共の頭脳派な裏ボスみたいな手練手管を……――――――――、……はっ。いいですよ、演劇部の顧問、引き受けてあげようじゃないですか」



「っ! ほ、本当――」




「ただし」




 強く、抑えつけるように言って、櫛野先生は。



 目を逸らした先にあったパソコンの、煌々と点る明る過ぎる画面を指しながら言った。






「条件があります。なぁに、例年通りの恒例行事を、つつがなくやりおおせってだけですよ」

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