初恋の幻影:義姉と姪たちへ捧ぐ、運命の愛の連鎖
舞夢宜人
プロローグ:夏蝉の骸
じりじりとアスファルトを焼く八月の太陽が、ようやく西の稜線に傾き始めた頃だった。俺、桜庭賢太は、数年ぶりに実家の玄関の前に立っていた。蝉の声が、まるで命の燃え滓を振り絞るかのように、周囲の木々から降り注いでいる。夏休みを利用した短い帰省。その目的は、老いた両親に顔を見せるという建前とは別に、俺の心の奥深くに澱のように溜まった、十八年前の夏の残像を確かめるためであった。
重い玄関のドアを開けると、ひやりとした空気と共に、懐かしい家の匂いが俺の体を包んだ。リビングへと続く廊下の奥から、ぱたぱたと軽い足音が二つ、近づいてくる。
「おかえりなさい、賢太おじさん」
先に顔を出したのは、姉の叶だった。高校三年生になる姪は、白いワンピースに身を包み、その姿は驚くほど大人びて見えた。そして、その背後からひょこりと顔を覗かせた妹の望が、人懐っこい笑顔を向ける。
「おかえりー」
その瞬間、俺は息を呑んだ。時間が、ぐにゃりと歪む。玄関から差し込む強い西日が、二人の少女の輪郭を金色に縁取り、その姿を白昼夢の中の幻影のように浮かび上がらせる。艶やかな黒髪、切れ長の涼しげな目元、そして、少しだけ勝ち気そうに結ばれた唇。それは、俺が記憶の底に封印していた、十八年前の美月の姿そのものだった。寸分違わぬ、生き写し。俺の初恋の相手であり、人生最大の成功と喪失を同時に与えた女性。そして今、兄、幸太の妻としてこの家にいる、桜庭美月のかつての姿が、そこにあった。
これは、単なる偶然などではない。俺の心臓が、警鐘のように激しく脈打つ。途絶したはずの愛の物語を、もう一度やり直せと、運命が俺に囁いている。雷に打たれたような衝撃の中、俺はただ呆然と、目の前の幻影を見つめることしかできなかった。
「おじさん?どうしたの、疲れてる?」
叶が、不思議そうに首を傾げる。俺の視線が、あまりにも異常な熱を帯びていたのだろう。彼女の白い頬が、微かに赤らんでいる。その表情は、戸惑いと、そして自分だけが特別な存在として見られているという、少女特有の高揚感がない混ぜになった、複雑な色をしていた。
「賢太おじさん、荷物重いでしょ。望が持ってあげる」
一方、妹の望は、そんな姉の様子にも、俺の異様さにも気づかぬように、無邪気な笑顔で俺のボストンバッグに手を伸ばす。父からは決して向けられることのないであろう、優しく、そして自分だけに注がれるような強い眼差し。その視線が、彼女の心に巣食う愛情への渇望を、心地よく満たしているようだった。
その夜の食卓は、奇妙な静けさに包まれていた。兄の幸太は、案の定、仕事の付き合いで席にいない。ぽっかりと空いた主人の席が、この家庭に存在する埋めがたい「欠落」を雄弁に物語っていた。兄嫁の美月は、その不在が当たり前であるかのように、寂しさを隠すための薄い笑顔を浮かべている。彼女の手料理は、昔と変わらず手の込んだものだったが、幸太の不在がそうさせるのか、どこか味気なく感じられた。リビングに漂う、彼女が好んで焚く白檀の上品な香の匂い。それに、俺が都会から持ち込んだ汗と埃の匂いが混じり合い、この家の淀んだ空気に不協和音を奏でている。
俺は、目の前で繰り広げられる愛のない家庭の風景こそが、自分が介入すべき隙間であり、彼女たちを救済するための大義名分なのだと確信した。俺は意図的に、姪たちに話しかける。学校のこと、友人のこと、将来の夢のこと。父とは違う、自分の話に真剣に耳を傾け、時には一人の女性として扱うかのような俺の態度に、叶の知的な瞳が好奇心の色を宿していく。彼女は時折、寂しそうに微笑む母の横顔を盗み見ては、この状況を自分が変えられるのかもしれない、という、どこか傲慢な考えを巡らせているようだった。
望は、もっと単純だった。俺からの優しい質問の一つ一つが、彼女の満たされなかった愛情の空白を、温かい水で満たすように浸透していく。彼女は食事の途中から、無邪気に俺の隣に椅子を寄せ、ぴったりと体をすり寄せてきた。父から与えられなかった温もりを、貪欲に求めている。
美月が食器を片付けるために席を外した、そのわずかな隙を俺は見逃さなかった。まず、リビングのソファで本を読んでいた叶に近づく。そして、周囲には聞こえぬよう、秘密を打ち明ける共犯者のように、その耳元で囁いた。
「君のお母さん、美月さんは、俺の初恋の人だったんだ」
叶の肩が、小さく震えた。叔父からの突然の告白。母と賢太の過去、そして母にそっくりな自分。点と点が線で繋がり、彼女の中で一つの物語が形を成していく。この異常な状況は、自分が主役の「特別な物語」なのだと、彼女の聡明な頭脳が結論づけるまで、そう時間はかからなかっただろう。
次に、俺はキッチンから戻ってきた望の元へ向かった。彼女が差し出したグラスを受け取りながら、その柔らかな髪を、大きな手で優しく撫でる。
「大きくなったな。元気で嬉しいよ」
ただそれだけの、ありふれた言葉。しかし、父からそのような温もりを与えられたことのない望にとって、その感触は彼女のすべてを肯定する絶対的な福音だった。頭を撫でられた心地よい感触が、彼女の全身に広がっていく。この優しさをくれる賢太のためなら、何でもしたい。彼女の純粋な瞳が、献身的な愛情の色に染まっていくのを、俺は見逃さなかった。叶には「運命の物語」を、望には「無垢な愛情」を。それぞれが最も渇望しているものを与えることで、俺は二人の心の鍵を、いとも容易く開けてみせたのだ。
その夜、俺はかつて自分が使っていた二階の部屋で、一人、窓の外の闇を見つめていた。庭の木々からは、夏の夜の虫の声が、まるで交響曲のように鳴り響いている。その音は、俺の中で燃え上がり始めた黒い情熱を、さらに激しく煽るようだった。
今日一日の出来事を反芻する。姪たちの姿に見た、十八年前の幻影。愛の欠片もない、冷え切った食卓。美月の孤独、叶の自負心、そして望の飢餓感。すべて、俺が満たしてやる。兄への罪悪感など、これから成し遂げようとしている「運命」という大義の前では、些細な感傷に過ぎなかった。
部屋の隅には、学生時代の俺の写真が、色褪せたまま飾られている。俺はその写真に静かに別れを告げた。過去との決別、そして、新しい物語の始まり。この手で、失われた愛の連鎖を完成させるのだ。俺は、夜の闇に向かって、静かに、しかし固く、そう誓った。
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