第一章

第一話 鎧を纏った日常

 気だるい水曜日の六時間目。


 高校、古典の時間。

 抑揚のない教師の声が、魂の抜けた読経のように『平家物語へいけものがたり』を読みあげている。


 ――ふっ、これじゃ、木曾義仲きそのよしなかも浮かばれまい。


 俺は頬杖をついて、窓の外をぼんやりと眺めた。


 体育祭を二週間後に控えた秋の空。

 窓の外からは、他のクラスの威勢のいい掛け声が響いてくる。


 青春、友情、そして、勝利……。

 俺の辞書には載っていない、眩しい単語のオンパレード。


 やがて、午後の空気に溶け込むような湿気たチャイムの音がした。


「……じゃあ、今日はここまで。日直さん、号令」


 教科担当の教師が教科書を閉じて出ていくと、教室は一気に弛緩する。

 帰りのSHRが終われば、晴れて自由の身だからだ。


「――くくく、ときは満ちたか」


 わざとらしく右眼を押さえ、俺は顔を歪めて呻いてみせる。


「ふっ、……今日もまた、我が右眼に宿りし契約の暗黒神が、封印の鎖を鳴らして暴れやがる」


 完璧な演技。

 中学の頃から幾度となく繰り返してきた、俺だけのロールプレイング。


 右眼に走る、気のせいレベルのわずかな疼き。

 それを暗黒神の胎動だと、俺はひたすら信じ込む。


 そんな、俺のくだらぬ演技に、クラスのやつらは毎日同じ反応をする。


「まーた、山田がやってるよ」

「あれ、わざと? マジで痛いんだけど」

「てか、もう、存在価値なくない?」


 カースト上位の女子グループが、俺に聞こえるように囁き合う。


「おい、山田っ! 体育祭、お前の暗黒神で勝たせてくれよ!」

「みっ、右眼が、右眼がァ――!」


 運動部の男どもが、あからさまに俺を指さして嘲笑う。


 そうだ、それでいい。

 それこそ、正しい反応だ。


 俺という異物を、認識し、分類し、「中二病の痛いヤツ」というラベルを貼って安心する。


 お前たちの矮小な日常を守るための道化役。

 それが、ここでの、俺の役割だ。


 だが、その嘲笑の輪の中に――。

 決して、俺の役割を肯定しようとしない視線が一つだけあった。


 ――望月もちづきみゆき。


 女子グループの中心で、さっきまで楽しそうに笑っていた彼女は、その輪から一歩引いた場所に立って、痛みを堪えるように俺を見ていた。


 軽蔑でもない。

 哀れみでもない。


 俺を見つめるその瞳には、他のクラスメイトたちのような、分かりやすい感情の色はどこにもなかった。


 くそ――。


 どうして、そんな顔をする?

 どうして、そんな目で俺を見る?


 笑え。

 そして、軽蔑しろ。


 頼むから、そんな目で、俺を見つめないでくれ――。


 俺は、我慢できずに身を翻した。


 颯爽と――。

 虚勢を張った孤独な戦士デスナイトのように。



          *



 帰りのSHRが終わった。


「じゃあねー」

「また、明日ー」


 どうでもいい挨拶が飛び交う中、俺は誰に声を掛けるでもなく、そして、誰に声を掛けられるでもなく、一人、鞄を肩にかけて教室を出た。


 部活にも入っていない俺には、寄り道をする理由もない。


「あ、そう言えば、そろそろだったな」


 借りていた本の期限を思い出し、俺はくるりと踵を返した。


 図書室に向かって歩いていると、前方から聞き慣れた声がした。


「ええー、今度の月九げつく、絶対、面白いってば」


 ――みゆきだった。


 みゆきは数人の女友だちに囲まれ、屈託なく笑っていた。


 彼女の世界は、そんなふうに、いつも明るい光で満ちている。


 だが、俺の存在に気づいたのだろう。


 みゆきがぴたりと立ち止まった。


 くそ、またかよ――。


 俺は歩くスピードをあげて、みゆきの横をすり抜けようとした。


 しかし、すれ違う瞬間、意を決したように、みゆきが口を開いた。


「あ、かおるくん……」


 一緒に歩いていた女生徒たちの好奇心が、視線となって、俺とみゆきに集中する。


 おい、こら――。


 他のクラスメイトの目の前で、俺なんかに声を掛けんじゃねえよ。

 友だち、減ってもいいのかよ。


 ったく、仕方ねえったら、ありゃしねえ。


 俺はみゆきの真横で足を止めると、中二病の鎧を纏った。


「――ふっ、我が歩むは修羅の道。定命じょうみょうの者よ、馴れ馴れしく我が名を呼ぶことは許さん」


 隣にいた女生徒の一人が、ぷっと吹き出すのが見えた。


 くそ、受けんな。

 こちとら、お前の笑いをとるために、やってんじゃねえんだ。


 俺のぞんざいな言葉に、みゆきは一瞬、胸を押さえた。


 そして、何かを言おうとして――。

 視線を床に落として、口をつぐんだ。


 もしかして、痛んだか?

 でも、それでいい。


 ……ほんと、ごめんな。


 だけど、お前はそこにいなきゃだめなんだ。


 あの日、お前は泣きながら、俺から離れた。

 いや、離れていってくれたじゃないか。


 今さら、俺のような普通じゃねえ中二病野郎と交わるべきじゃない。


 みゆきは、そっと顔を上げると、消え入るような声で呟いた。


「……そっか。……気をつけて、帰ってね」


 そして、「早く帰ろう」という友だちの言葉に促されるまま、俺に背を向けた。


 じゃあな、俺の片割れ。


 お前にお似合いは、ピカピカの青春。

 そのために、髪を染めて、化粧だって覚えたじゃねえか。


 そんなお前の隣に、俺のような中二病のダサ男はいちゃいけない。



          *



 予定通り、図書室でオタク本を借りなおすと、俺は玄関へ急いだ。

 今日はこの本をデータ化しなくちゃならない。


 こう見えて、オタクは結構忙しいのだ。


 昇降口でローファーに足を突っ込んでいると、背後から陽気な声が飛んできた。


「――よっ、山田! 我が右眼の暗黒神様はもうお鎮まりになられたか?」


 振り返ると、神崎かんざきがニヤニヤしながら立っていた。


 ったく、みゆきといい、神崎といい――。

 気安く、俺に声を掛けんじゃねえよ。


 ……今日は厄日か?


 隣のクラスの神崎晃司こうじ


 高校に入ってから知り合った、いわゆるオタクだ。


 だが、俺と違って、こいつは中二病患者のくせに妙にコミュ力が高い。

 でもって、学校で浮いている存在でもない。


 おまけに、かなりの……いや、相当なイケメンときてる。


 ほっといてくれればいいのに、この俺のキャラがいたく気に入ってるらしく、何かにつけて絡んでくる面倒な男だった。


「うるせーわ。それから、俺を苗字で呼ぶな」


 俺は自分の苗字が嫌いだ。

 我が存在を貶める――そう、凡庸を絵に描いたような苗字コードネームだからだ。


 全国の山田さんを敵に回してもいい。

 俺は山田という苗字が嫌いだ。


「相変わらず、面倒なヤツだな。じゃあ、カオル」


 ……ったく、しつこいな。


 だが、真の名トゥルーネームを呼ばれれば、返事をするのが宇宙のルール。

 この掟ばかりは、西洋の悪魔でさえも順守している。


「――何だ? 我が、真名まなを呼ぶ者よ」


「駅前の本屋、寄ってかねえか? 『パルナッソスの戦乙女いくさおとめ』の最新刊、今日発売日だろ。特装版の付録小冊子がヤバいらしいぜ」


「なっ……! パッ、パルおつの最新刊だと!」


 ――しまった!


 この俺としたことが、俺のヨメのハレの日をチェックし忘れていたとは!


『パルナッソスの戦乙女』――その、バカみたいに展開の遅い長編小説ライトノベルは、俺が今、リアルタイムで追いかけている唯一のシリーズものだった。


 その魅力を、言葉で表せば――。

 小一時間でも語れるが、一言で言うなら、設定が神なのだ。


 神崎のいう付録の小冊子というのは、間違いなく、蒲公英たんぽぽかおるというが紡いだこだわりの設定集に違いない。


 神崎は「お、食いついた」とでも言いたげな顔で、にやりと笑う。


「そうそう。――なんでも、本編じゃまだ語られていないヒロイン柚葉ゆずはのファースト・パーソナルエクスペリエンスが載ってるとか」


 な、なんだ……と?


「しかも、再販なしの限定品だぜ? 下手すりゃ、転売ヤーに狩られる対象になる。――今のうちに確保しとくのが、竹馬ちくばの賢者ってもんだろ!」


 それを言うなら、竹林ちくりんだ、痴れ者。

 それに、残りの六人は誰なんだよ?


 だが、この神崎という男、なかなかどうして、油断がならない。


 時々、こうやって、俺の「好み」を刺激して、こちらの領域に踏み込んでくるなのだ。


 くそっ、それにしても、気になりすぎる。

 柚葉のファースト……お、俺のヨメの初体験とか。


「わ、わかった。俺も――」


 喉まで出かかった「行く」という言葉を、俺はすんでのところで飲み込んだ。


 神崎と本屋に寄り、普通のオタク高校生のようにラノベの新刊について語り合う。

 それは、きっと楽しい時間なのだろう。


 だけど、俺は、そっち側に行っちゃいけない。


 俺はゆっくりと顔を上げ、神崎の目を見据えた。


「ふん、くだらんな。――ただの設定マニアが紡いだ偽りの物語など興味はない。俺が求めるのは、この世の真理、ただ一つだ」


「……お、おう。そっか。相変わらずブレねえな、お前は」


 神崎は笑いながら、頭を掻いた。


「まあ、気が変わったらラインくれ。俺は先に狩りに行ってくる」


 そう言うと、神崎はひらひらと手を振り、俺よりも一足先に昇降口を出て行った。


 ぼっちになった空間に、沈黙が落ちる。


 西日の差し込む校門を抜け、俺は一人、家路についた。


 神崎の誘いを断ったことに、後悔はない。

 いや、「ない」と自分に言い聞かせる。


 俺は一人で戦うと決めたのだ。

 馴れ合いは、覚悟を鈍らせる毒でしかない。


 ――くそ。


 俺は、いつから、こんなふうになってしまったのか。

 こんなにも、頑なに、あいつらの優しさを拒むようになったのか。


 そう、きっかけは、今から六年ほど前。


 じいちゃんが死んだ、あの日の夜に始まった――。



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【あとがき】

お読みいただきありがとうございます。

かおるが纏う「鎧」と、みゆきとの「片割れ」としての関係。

歪ですけど、これがかおるの選んだ日常でした。


次からの二話は、全ての始まりとなった「じいちゃんの死」を描く、最も重要な回想です。彼が中二病の「鎧」を纏うしかなかった過去を、どうか見届けてあげてください。


第二話「尊い魔法」

第三話「そして、俺は中二病になった」


そして、第四話――物語は、あの絶望の瞬間に戻ります。

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