第10話 アロクシロへの道
田舎の小さな村。
二人にとっては最悪の記憶の場所だったが、ニッチにとっては――最高の場所だった。
ラジオもない。
魔道具すら乏しい。
そして昼間から魔物が出る、大王国地図にも載らぬような辺境。
だがニッチにとってそれは理想だった。
王国の目を逃れ、息を潜め、憎悪を冷ますにはこれほど静かな場所はない。
彼にとってこの村は、絶望の終わりであり、再起の始まりでもあった。
三人は無言で村の門まで歩く。
早朝の霧が立ちこめ、木々の葉が水滴をはじいていた。
ニッチはふと、道の脇にある小さな酒場の看板を見上げる。
懐かしげに目を細め、彼はふらりと店に入った。
◇ ◇ ◇
朝の準備の時間。
まだ客のいない店内には、静かにグラスを洗う音だけが響く。
酒の匂いと磨かれた木の香りが、どこか神聖な空気を作り出していた。
「マスター、こっち来てくれ。」
低い声。
グラスを拭いていた男が顔を上げた。
その声だけで、彼は誰かを理解したようだった。
「ニーさん……! 久しぶりだな。」
「ビール、まだ冷えてないだろ。構わねぇ。」
ニッチ――いや、“ニーさん”と呼ばれた彼はカウンターの席に座らず、無言で袋を置いた。
カチャリ。
金属の音。
袋の中を覗くと、金貨がぎっしり詰まっていた。
「な……これ、」
「今までのツケだ。釣り銭は要らねぇ。」
マスターは一瞬、言葉を失い、それから破顔した。
「こりゃあ明日は槍でも降るんじゃないか?」
ニッチも微かに笑った。
「ただの旅立ちの挨拶だよ。少し、長い旅になりそうだ。」
「そうか……気をつけろよ、ニーさん。」
彼は酒を飲まず、カウンターを指で軽く叩き、静かに去った。
扉が閉まる音がやけに遠く響いた。
マスターはその背を見送りながら、ひとり呟いた。
「……やっぱり、あの人は元Sランクだ。」
◇ ◇ ◇
外ではジェネリとクァイヤが待っていた。
霧の向こうから射す光の中で、ニッチは軽く頷いた。
「行くぞ。」
マスターが店の外に出て手を振る。
「いってらっしゃ〜い! 頑張れよ!」
その声に、ジェネリが振り返って笑った。
その笑みはほんの一瞬、普通の少女に戻ったように見えた。
村を出る三人の背中は、確かに何かを背負っていた。
それは復讐か、贖罪か、あるいは――運命そのものだったのかもしれない。
◇ ◇ ◇
道を歩きながら、ジェネリが不満げに言う。
「ねぇ、地図とかないの? この先どうすんのよ?」
ニッチは振り返りもせずに言った。
「案内するのはお前らだ。神が、お前らを媒体に道を示す。」
「へぇ、神様が道案内ね。信じるしかないってわけ?」
クァイヤが険しい顔でつぶやく。
「……にしても、なんでこんな“崖”を歩くんだよ。これ、道って呼べるか?」
足元はガレ場。
岩肌が続き、魔力の吹き溜まりがそこら中に点在している。
神は“最短のルート”を与えるが、それが“最適”とは限らない。
ニッチは黙ってその事実を受け入れるように歩き続けた。
◇ ◇ ◇
同時刻。王都・中央宮殿。
「クァイヤとジェネリ、まだ戻らんのか?」
厳かな声が響く。
金色の鎧を纏った騎士が、机に地図を広げていた。
「はい、通信にも応答がありません。魔導器の故障かと。」
「君の部下だろう。ちゃんと管理しろ。」
若い参謀が眉をひそめる。
「ですが、心配です。救援部隊を――」
「よし、救護を送ってやれ。悪魔討伐のついででもいい。」
その言葉が発せられた瞬間、王都の運命もまた、静かに動き始めた。
◇ ◇ ◇
――ブルーリム! ファイヤゴルド! ディストラーン!
轟音。
森の奥で閃光が炸裂する。
煙と血の匂い。木々が倒れ、地面が焦げる。
「はぁっ……はぁっ……ここの森、やばいな……!」
クァイヤが息を切らし、背後を確認する。
「Aランク級が当たり前……Sランク級も混じってやがる!」
「さすがにきついわね……!」
ジェネリが魔法陣を描きながら叫ぶ。
「ねぇ! ニッチ! あんたも手伝いなさいよ!」
だがニッチは杖を背負ったまま、動じない。
「案内の途中の厄介はお前らの仕事だ。」
「なによそれ!? 私たちはSランクよ! 普通なら一人で対処できるの!」
ニッチは鼻で笑う。
「本当に“アコロの一番弟子”か? 弱すぎるな。」
その言葉に、ジェネリの顔が真っ赤に染まった。
「はぁあ!? あんた、あの人のことなんにも知らないくせに!」
クァイヤが間に入るように言う。
「俺たちは“アコロ様”の孫弟子だ。本弟子の一人、“バラプラ先生”の弟子にあたる。」
ニッチは小さく眉を上げた。
――ああ、どうりで。
そして、同時に思った。
――本弟子が生きてるのは、面倒だな。
◇ ◇ ◇
戦闘を終え、三人は山の中腹にテントを張った。
焚き火の上で魚を焼き、魔法で温度を調整する。
夜の空気は凍てつくように冷たい。
だが、火の明かりと魚の匂いが、どこか心を温めた。
ジェネリは焼けた魚を頬張りながら言う。
「ねぇ……こうしてると、なんか旅っぽくていいね。」
「お前は呑気すぎる。」
クァイヤがため息をつく。
「俺はもう少し文明的な飯が恋しい。」
ニッチは火を見つめたまま黙っていた。
炎の中に、かつて燃えた聖剣の青い炎が見えた気がした。
――悪魔の烙印を押された日。
すべてを失った日。
彼の胸に刻まれた復讐の火は、まだ消えていなかった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
山を降りる道は険しかった。
それでも景色は見事だった。
赤と黄の花々、巨大な茸の群生、岩肌に光る魔力石。
遠くでは双頭鳥が鳴き、雪の欠片が風に舞う。
王都では決して見られない、野生の世界。
ジェネリは足を止め、崖の向こうを見た。
「……すごい、きれい。」
クァイヤも無言で頷く。
疲れと恐怖の中で、束の間の安らぎがそこにあった。
そして夕日が沈む頃、ようやく彼らは山を下りきった。
赤い光の中、崖の向こうに広がる街が見える。
「……あれが、“アロクシロ”か。」
ニッチが呟く。
その声にはわずかな安堵と、次なる決意が混じっていた。
クァイヤ「やっと……だな。」
ジェネリ「街よ! 宿! お風呂! まともなご飯!」
その無邪気な声を背に、ニッチは静かに歩き出した。
――続く。
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