第9話 見抜かれるという恐怖

エミルの癒しが砕け散った夜から数日。屋上のティータイムは、奇妙な均衡の上で続けられていた。エミルは以前よりも口数が少なくなり、シノンを遠巻きに、しかしより強い関心を込めて観察するようになった。まるで、未知の生物の生態を学ぶかのように。そして、その膠着した空気の中心で、機会を窺っていた者がいた。黒羽ルカだ。


彼女は、最高の玩具を見つけていた。

聖女様の癒しを完璧に無効化する、氷の人形。これほどそそる獲物はなかった。エミルのように真正面から光を注ぐのは、愚の骨頂だ。あの城壁を崩すには、正面からの攻撃は意味をなさない。ならば、城壁そのものが内側から崩れるように、その礎を揺るがすしかない。


その夜、ルカは勝負に出ることを決めた。

いつもと同じように紅茶が配られ、三者がそれぞれの定位置につく。夜風が、いつもより少しだけ生暖かく、湿り気を帯びていた。


「ねえ、シノン」

ルカは、挑発的な光を宿した瞳で、まっすぐにシノンを見つめた。

「貴女、いつもそうやって他人を分析して、自分は安全な場所にいるつもりなんでしょうけど」

「事実を観測し、記録しているだけです」

「その『事実』って、本当に真実かしら?」


ルカは、カップをクロスの上に置くと、黒い手袋に包まれた指先で、自らのこめかみを軽く叩いた。

「貴女のその理性が、一番見たくないものから目を逸らすための、ただの『鎧』だとしたら?」


それは、強力な精神干渉の開始を告げる合図だった。

ルカの意識が、鋭利な針となってシノンの精神領域へと侵入を試みる。対象は、シノンの論理思考そのものではない。その思考を駆動させている、より深層にある動機。彼女が「理性」と呼ぶものの正体を暴き出すための、一点集中攻撃。


エミルは、息を呑んでその様子を見守っていた。ルカから放たれる、黒く、ねじれた感情の波動。それは、人の心の最も柔らかい場所を抉り出す、毒を含んだ刃だった。


だが、シノンの表情は変わらない。彼女はただ、静かにルカを見つめ返している。

「私の動機は、真理の探求です。それ以上でも、それ以下でもありません」

「嘘」


ルカは、吐き捨てるように言った。そして、畳み掛ける。

「貴女、感情が怖いんでしょう? 昔、何かあったのね。誰かの、あるいは貴女自身の感情が暴走して、取り返しのつかないことになった。だから、感情のすべてをデータという名の檻に閉じ込めて、二度とそれが自分に牙を剥かないように、必死で飼いならそうとしている。違う?」


ルカの言葉は、ただの推測ではなかった。彼女の能力は、相手の僅かな無意識の反応から、隠された真実を再構成することができる。シノンの完璧な無表情の裏に潜む、微細なエネルギーの揺らぎ。それを手繰り寄せ、ルカは核心に迫っていた。


エミルは、シノンの横顔から目が離せなかった。ルカの言葉が、まるで呪いのように、屋上の空気に満ちていく。

シノンは、どう反応するのか。怒るのか、動揺するのか。


だが、シノンの反応は、再び、二人の予測を裏切った。


「…その仮説が、正しいとしましょう」

シノンは、少しの間を置いてから、静かに言った。その声は、相変わらず平坦で、温度がなかった。

「そして、私の理性が、貴女の言う通り『鎧』なのだとしたら。その挑発は、その鎧を脱がせたいという、貴女の願望の現れですね」


「なっ…!」

今度は、ルカが言葉に詰まる番だった。


「なぜ、私の鎧を脱がせたいのですか」

シノンの声は、尋問ではなく、あくまで分析だった。ガラス玉のような瞳が、ルカの内面の奥深くを、レントゲンのように透過していく。

「それは、貴女が誰にも触れさせたくない、自分自身の弱さを隠すための鎧を、私に重ねて見ているからではないですか? 貴女は私を暴くことで、自分自身が暴かれることから、目を逸らしている」


それは、完璧なカウンターだった。

ルカの攻撃は、そのまま鏡のように反射され、何倍にもなって彼女自身に突き刺さった。

自由を標榜し、他者を支配することで自らの優位性を保ってきたルカ。その行動原理の根幹にあるのは、他者に理解され、支配されることへの、極度の恐怖。誰よりも脆く、誰よりも孤独な、本当の自分。シノンは、それをいとも容易く、正確に見抜いてみせたのだ。


「…黙れ」

ルカの唇から、か細い声が漏れた。

「その挑発は、貴女が誰にも触れさせたくない弱さを隠すための鎧ですね」

シノンは、ルカが先程自分に向けた言葉を、一言一句違わずに、そのまま返した。


ルカは、生まれて初めて、他者の前で言葉を失った。

見抜かれる、という恐怖。それは、物理的に切り刻まれるよりも、ずっと根源的な恐怖だった。自分の魂の裸を、この人形に、このガラスの目に、完全に見透かされてしまった。

優越感と余裕が、潮が引くように消え去っていく。代わりに、背筋を冷たい汗が伝った。

怖い。この女が、怖い。


「…怖いですか?」

まるで心を読むかのように、シノンが問いかけた。

「何が」と、ルカは虚勢を張って答えるのが精一杯だった。


「見抜かれること。そして、」

シノンは、そこで一瞬だけ、言葉を切った。

「理解されてしまうこと」


その最後の一言が、ルカの心の最後の防壁を、粉々に打ち砕いた。

ルカは、息をすることも忘れ、ただシノンを凝視した。その瞳に浮かんでいたのは、もはや挑発の色ではない。動揺と、恐怖と、そして…自分の最も深い場所を正確に言い当てた存在に対する、抗いがたいほどの、強い興味だった。


エミルは、その一部始終を、震えながら見つめていた。

癒しは、拒絶された。

だが、挑発は、見抜かれ、そして跳ね返された。

この観測者は、一体何者なのだ。光も、闇も、この人の前では意味をなさない。

ただ、絶対的な「理性」という名の鏡があるだけ。そして、その鏡は、覗き込んだ者の真実の姿を、容赦なく映し出す。


その夜、三者の力関係は、再び、そして決定的に変化した。

シノンは、もはや単なる観測者ではない。

彼女は、二人の魂の在り方を定義する、絶対的な基準点となったのだ。

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