第10話 甘やかな治療室
シノンという絶対的な鏡の前に、自らの無力さと本質を突きつけられた夜から数日が過ぎた。屋上での秘密の対話は続けられていたが、エミルとルカの内面には、無視できない地殻変動が起きていた。特にエミルは、自らの存在意義である「癒し」がシノンに通じなかったことで、そのアイデンティティの根幹を揺さぶられていた。そんな彼女の迷いを見透かすかのように、白羽家からの要請は届いた。
白羽診療室は、彼女が最も彼女らしくいられる場所だったはずだ。乳白色の柔らかな光、心を落ち着かせる柑橘系の香り、そして規則正しく脈打つ心拍計の電子音。そのすべてが、他者を救済するという彼女の神聖な使命を肯定し、祝福しているかのようだった。
だが、今日の彼女が向き合っている相手は、これまでとは次元が違った。
重度の感情乖離を引き起こした、元学院の研究員。彼は、自らの研究に没頭するあまり、自己と世界の境界線を見失い、その精神は無数の刃となって内側から彼自身を切り刻み続けていた。彼の瞳は、もはや光を映さず、ただ虚空にある見えない敵を睨みつけている。
「エミルさん、お願いできますね」
傍らに立つ医療主任の声は、いつものように穏やかだったが、その奥には命令にも似た響きがあった。「これは貴女にしかできないこと。白羽家が掲げる『精神医療による救済』の理想を、体現するのです」
エミルは、静かに頷いた。胸の内に渦巻く迷いを振り払うかのように。そうだ、自分はこれしかできないのだから。シノンに拒絶されたとしても、自分の価値はここにある。この苦しんでいる人を、救わなければ。
彼女は、男性の前に座ると、そっと手を差し伸べた。男性は最初、獣のように唸り声を上げてそれを拒絶した。だが、エミルの纏う柔らかな光のオーラに触れ、少しずつ警戒を解いていく。やがて、震える指先が、おそるおそるエミルの手に重ねられた。
その瞬間、濁流が流れ込んできた。
これまでに経験したことのない、濃密で、どす黒い負の感情。それは単なる悲しみや怒りではない。論理が破綻し、意味が崩壊した、純粋な狂気そのものだった。無数の声が耳元で叫び、矛盾したイメージが脳裏で明滅する。エミルという器に、到底収まりきらないほどの情報量が、彼女の精神を侵食し、汚染していく。
「…っ!」
思わず呻き声が漏れる。心拍計の電子音が、警告のように甲高いリズムを刻み始めた。だが、エミルは手を離さなかった。ここで退けば、この人は狂気の中に永久に閉じ込められてしまう。そして自分は、自らの存在価値を再び見失うことになる。
彼女は、自らの精神のすべてを、光のエネルギーへと変換した。器の許容量を超えて溢れ出しそうになる狂気を、その光で無理やり中和し、浄化していく。それは、もはや癒しではなかった。自らの魂を燃料として燃やし、相手の闇を焼き尽くす、壮絶な闘いだった。
どれほどの時間が経ったのか。
やがて、男性の身体から力が抜け、その表情から苦悶が消え去った。彼の瞳に、久しぶりに正気の光が戻る。心拍計の電子音も、穏やかなリズムを取り戻していた。
「…あ…れ…? 私は…」
男性は、夢から覚めたように呟いた。
「…よかった…」
エミルは、安堵の息を漏らした。そして、その安堵が、張り詰めていた意識の糸を切った。
視界が、急速に白んでいく。柑橘系の香りが遠のき、耳元で鳴っていた心拍計の音が、水の中に沈んでいくように聞こえなくなる。身体から、力が抜ける。彼女は、椅子から崩れ落ちるように、その場に倒れ込んだ。
意識が遠のく中、医療主任の声が聞こえた。
「素晴らしい…見事です、エミルさん。彼の精神は完全に安定した。これこそが、我々の求める奇跡…!」
その声には、歓喜だけがあった。倒れたエミルを心配する響きは、どこにもなかった。
エミルは、薄れゆく意識の中で、必死に助けを求めた。
「…少し…休ませて…ください…」
そのか細い懇願に、医療主任は、慈愛に満ちた表情で屈み込み、エミルの髪を優しく撫でた。そして、悪魔の囁きのように、こう言ったのだ。
「何を言うのですか。貴女の価値は、他者を救うことにあるのですよ。この程度の疲労は、貴女にとって名誉なこと。さあ、立ちなさい。まだ、貴女を待っている人が大勢いるのですから」
その言葉が、エミルの心に、冷たい楔となって打ち込まれた。
価値。名誉。
自分は、この人たちにとって、ただの便利な道具でしかないのか。自分の痛みも、疲労も、すべては「救済」という理想のための、当然のコストでしかないのか。
これまでは、その言葉を疑いもしなかった。むしろ、その言葉に支えられて生きてきた。
だが、シノンと出会い、ルカと対話し、そして今、自らの限界を超えて消耗しきった彼女の心には、初めて、一つの毒のような疑問が芽生えていた。
私の価値は、本当に、それだけなのだろうか。
柔らかな光に満ちた治療室で、エミルは一人、冷たい床の上に横たわっていた。柑橘系の甘やかな香りが、今はただ、彼女を閉じ込める檻の匂いのように感じられた。
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