第9話 風葬の丘


【01】


 湖を離れて二日。

 道はなだらかに上っていた。

 空気は薄く、風の色が少し違う。

 草も花も、どこか灰をまぜたような淡い色をしている。


 丘の頂に近づくと、小さな鈴の音がいくつも重なって聞こえてきた。

 風に吊された骨の鈴が、ひとつ鳴るたびに、祈りのような音をたてる。


「ここが……風葬の丘か」


 焔の声は風に溶けた。

 雅は頷く。


「死んだ者の骨を埋めない土地だ。風にあてて、少しずつ空に帰す。——“残した声は、風になる”って言われてる」


 焔は足を止め、丘の斜面を見下ろした。

 草の間に、白い骨のかけらが散らばっていた。

 陽の光に透けて、まるで小さな灯のようだった。

 それを見て、胸の奥が静かに疼く。


「風になれなかった声は、どこへ行く?」


 焔の問いに、雅は一瞬だけ言葉を探してから答えた。


「……残る。ここみたいに」



 その瞬間、丘の風が変わった。

 どこからか、誰かの囁くような声が混じる。

 ——“まだ、ここにいる”


 焔は瞼を閉じた。

 胸の奥で、古い記憶が微かに軋む。

 もう名前も覚えていない、

 かつて自分の灯を喰われた者たちの声。


 風が、喉を撫でるように吹いた。

 まるで、「聞け」と言われているみたいに。


 焔はゆっくり息を吸い込んだ。

 風が肺を通り抜け、胸の奥の空洞に触れる。

 そこに、まだ生き残っていた痛みが、わずかに光った。


「……やっぱり、来るべきだったな」


 雅が静かに隣に立つ。


「おまえの中に残ってる声も、風にしてやれ」


焔は小さく笑った。


「そんな簡単に消えねぇよ」


 風が二人の髪を揺らす。

 丘の鈴が一斉に鳴った。

 それは泣き声にも、歌にも聞こえた。






【02】


 夕暮れ、風が変わった。

 昼のやわらかな流れが途切れ、

 代わりに鋭い気配が丘を駆け抜ける。

 骨の鈴が鳴り、風の色が暗くなっていく。


 焔は静かに目を閉じた。

 風の中に、聞き覚えのある声が混じっている。

 遠く、近く、途切れながら。

 それはかつて祓った者たちの声だった。


「痛かった」

「寒い」

「なぜ置いていった」


 風が頬を打つたびに、声が重なる。

 丘がうなり、空が低くなる。

 焔の指先が震えた。

 灯が胸の奥でざわめく。


「……きたか」


 呟く声に、雅が顔を向ける。


「見えるのか」

「見えねぇ。でも、感じる。みんな、まだ俺の中にいる」


 風が強くなり、草が一斉に倒れた。

 白い花びらが宙を舞い、

 そのひとつひとつが、声のかけらに変わる。


「おまえは、生きてるのか」


 焔は膝をついた。

 胸の奥に熱が走る。

 苦しい。けれど、それは恐怖ではなかった。

 風と声とが混ざり合って、

 まるで自分が世界の呼吸に溶けていくようだった。


「……生きてる。おまえたちを喰って、生きてる。けど、喰ったまま、ずっと抱えてる。おまえたちの灯が、俺の中でまだ息をしてるんだ」


 その言葉に、風が鳴った。

 鈴が一斉に揺れて、

 夜空に無数の小さな光が散った。

 泣き声が、ゆっくりと歌に変わっていく。


「ありがとう」


 風が止み、丘が静まる。

 焔の身体から光が抜けていく。

 膝が崩れ、雅が抱きとめた。


「焔!」


 胸に耳を当てる。

 鼓動が、かすかに——でも確かに、鳴っている。

 焔が微かに笑った。


「……聞いたか」

「なにを」

「風が、笑ってた」


 雅はその額に触れた。


「おまえも、だ」


 夜の風がふたたび吹き、

 鈴の音が遠くまで響いた。

 それは悲しみではなく、

 静かな赦しの音だった。






【03】


 夜が明けた。

 丘の上の空気は澄みきっていて、風がひとつ吹くたびに、鈴の音が遠くまでのびていった。

 夜の間に散った光は消えていたが、草の先に残った露が、それを覚えているようにきらめいている。


 焔は、まだ地面に片手をついたまま、静かに息をしていた。

 身体の奥に、かすかな温もりがあった。

 痛みは残っている。

 でもそれは、もう悲鳴ではなかった。

 あたらしい脈のように、ゆっくりと刻んでいる。


 雅が膝を折って、焔の横顔を見下ろした。


「……どんな気分だ」


 焔は目を閉じたまま答えた。


「軽い。けど、空っぽじゃない」

「空っぽになりそうで、怖かったか」

「怖くはない。風が、みんなの声を運んでいった気がする。俺の中に、静かな場所ができた」


 雅は少し笑って、焔の髪を撫でた。


「静かな場所か。やっと、眠れるところを見つけたんだな」


 焔はゆっくり目を開ける。

 陽の光が眩しい。

 世界がやわらかく滲んで見えた。


「……眠れたら、次に夢を見る番だ」

「どんな夢を」

「生きる夢」


 風が丘を駆け抜ける。

 鈴が鳴る。

 それは誰の声でもなく、

 ただ、生きている者たちの音だった。


 焔は立ち上がり、風の方向を見た。

 丘の向こうに、新しい空がひろがっている。

 花守の谷で咲いた灯も、鏡の湖の光も、

 すべてが風に運ばれて、ひとつの道を作っている。


 雅がその横に立つ。


「行こうか」


 焔は頷いた。


「風の向く方へ」


 ふたりが歩き出すと、風が背中を押した。

 丘の鈴が、やさしく、何度も鳴った。






【04】


 午後の光が傾いていた。

 風はもう冷たくない。

 丘を撫でるたびに、草がさざめき、鈴がやさしく応えた。


 焔は立ち止まり、目を細めた。

 空の青は深く、そこに白い雲がゆっくり流れている。

 どこか遠くで鳥の声がした。

 音のすべてが、痛みのない呼吸のようだった。


「なぁ、雅」

「ん」

「俺さ、あのとき風にした声たち……いまも胸のどこかで鳴ってる気がする」


 雅は頷く。


「風は消えない。形を変えて、また戻ってくる」

「だったら俺も、いつか誰かの風になれたらいい」

「もう、なってるさ」


 ふたりの間を風が抜けた。

 衣の裾が揺れ、髪が光を弾いた。

 焔はそのまま風に顔を向ける。

 頬を撫でた空気が、温かい。


 丘の下では、小さな花が群れて咲いていた。

 白い花弁が風に乗り、空へと舞い上がる。

 それは祈りでも、赦しでもない。

 ただ、生きている証のように見えた。


「生きるって、案外静かなんだな」

「静かだから、聞こえるんだよ」

「なにが?」

「おまえの中の風の音」


 焔は笑った。

 風の音が、その笑いを運んでいった。

 丘の鈴がまた鳴る。

 その音はもう、誰の悲しみでもない。


 太陽が西の山に沈みはじめた。

 光がふたりの影を長く伸ばし、

 風の中に溶かしていく。


「行こう、雅」

「どこへ」

「まだ、風の続きがある」


 ふたりは並んで歩き出す。

 風が背中を押す。

 丘の上で、鈴の音が最後にひとつ鳴った。


 ——風は止まらない。

 それが、生きているということだった。

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