第1話 春の終わり、遥か彼方
【01】
白い壁は、春なのにやけに冷たかった。
窓の外では淡色の桜が咲いているのに、ここだけ、季節が閉じ込められているようだ。檻。牢獄。そんな言葉が浮かぶ。
俺は診察室の椅子に腰をかけ、肘をついたまま、医師の唇の動きをただ見ていた。
「——検査の結果ですが」
聴診器を肌に触れた時の冷たさが、まだ皮膚の奥に残っている。あの感覚が苦手だ。そもそも、診療所が嫌いだ。
暁と雅の強い説得がなければ、来たりしなかったろう。
息を吸うと、肺の内側にざらりと砂がこすれる感覚。
咳がこみあげそうになるが、こらえた。
暁と雅は名医だといったが、うだつの上がらないただのジジイに見える。
俺の睨みで、相手はすっかり恐怖に震えている。
「結論だけ言え」
医師は弱々しく目を伏せ、机の上のカルテを軽く叩いた。
息を詰めて、意を決して、という風に言った。
「焔さん、残念ですが……長くは、ないです。季節がひとつ、越えられるかどうか」
俺の目を見て言えたのは、褒めてやるだけの価値がある。俺は、目つきの悪い、嫌な客だろ?なあ?
「季節って、便利な言い方だな」
「おい焔」
雅の牽制もなんのその、俺は笑って、足を組みかえた。《季節が一つ、超えられるかどうか》。つまり、夏までもたないってことだ。こんなとこ来なくても、本当は自分でもわかってた。この命が長くないこと。この肺を切り裂くような痛み、熱、それはもう限界だ、と告げていた。ああ、ながくねぇな、そう思っていた。
白衣の袖がわずかに動いた気がした。
変な沈黙。時計の針の音だけがカチカチと、妙に大きく響いていた。
隣で腕を組んでいた雅が、難しい顔して、肘で俺の脇をつついた。
「笑うな」
「ダリィ。お前がそんな顔してるから、バランス取って笑ってやってんだよ。感謝しろや。」
「ふざけんな」
今にも殴りかかりそうな勢いで、雅は俺に噛みついた。けれど、そこにはどこか虚しい空洞があった。悔しい?悲しい?……違うな。虚しい、とも違う伽藍堂。その目は、事実を受け入れられない、そんな目だった。
バカだな、わかってたろ。俺が日に日に弱ってたのも、血を吐く回数がふえたことも。
それを、今更、死ぬ時期がわかったからって、何か変わるわけじゃない。
多分、全員がわかってたことだ。俺がもうすぐ死ぬって。
医師は何も言わず、カルテを閉じた。
それはまるで告別の合図のようで、は!大袈裟な。と、また笑いそうになったら、雅が睨んできたから、仕方なく俺は立ち上がった。
「薬は?」
雅の低い良い声が診療所の四角の中で響く。あゝ、いい声だな。酒でも呑みたくなる。
「痛みを抑えるだけのものです」
老医師の声は、それに比べて華がねぇ。だから俺は興を削がれて、
「治らねぇなら、いらねぇ」
と、そっけなく返した。
と。
雅が睨む。
「貰っとけ」
「欲しいならお前が飲めばいい」
「俺は健康体だバカ」
「バカは健康なもんだバカ」
医師の視線が二人を往復する。困り顔。でも、余命宣告を受けた患者に出ていけともそうは言えないもんだ。
安心してくれ。医者なんかにゃ最初からなんの期待もしていない。
俺は、古びたその扉を、腕で押した。
ぎぃ、と、立て付けの悪い扉は一声鳴いた。
外の風は、どうだ。病室よりずっと生きてるじゃねぇか。舞い散る桜、降りかかる木漏れ日。柔らかい影。なかなか風流だ。
診療所の向かいに流れる川沿いは桜並木になっている。
花が風でざわめいていた。春を謳歌していた。蝶も舞って。その青い揚羽が俺の周りを舞って、俺は捕まえてやろう、なんて気持ちになって、腕を伸ばす。
と、その腕を雅が掴んだ。抵抗しようにも、雅はバカ力だ。なんでこいつって、バカが多いんだろ。バカ力、バカ正直、バカ真面目。
で、なんで俺は、こんなバカがバカみたいに好きなんだろう?
雅は俺の作った式神だ。人ですらない作り物。俺への気持ちだって、主従故の――いや、それは違うな。バカはバカなりに、俺を本気で愛してる。鬱陶しいが、悪くはない。絶世の美貌と直情的なのに妙に冷静。そんなとこ、結構気に入ってる。どころか、本気で惚れていた。式神に。バカは俺のほうだ。
「……細いな。それに白い」
「……なにが」
「儚い腕だ。か細い腕だ。余りにも」
俺は「ハッ」と短く笑った。
「もうすぐ死ぬ人間の体なんて、こんなもんだ」
言って、俺は懐から煙管を取り出した。雅がそれをすかさず奪う。
「吸うのやめたんじゃなかったか?」
「オマエらが吸わせねぇんだろう。火も取り上げやがって。しかたねぇから吸わねぇが、持ってると落ち着く」
「やめる気ねぇのか」
「煙管くらい吸わねぇで、誰がこの俺の憂さ晴らすんだ」
「俺が幾らでも晴らしてやるぜ?ただし閨の中だけだがな」
またこいつはすぐこういう事を言う。
――ところも気に入っている。
ああ、俺って本当バカだ。
桜の舞う土手の上に上がる。
水面は陽を四方八方に反射して、辺りが光り輝いていた。綺麗なものは好きだ。綺麗なだけで価値がある。
花びらが風に乗って、流れて、水面を埋めている。
俺は、雅の髪についた桜をひとつ、摘んで、眺めた。
「なぁ雅」
ふと、声がでていた。
「ん」
「俺、桜、嫌いだったんだよ」
「なんで」
「散るから」
「……らしくねぇな」
「らしいだろ。嫌いなもんは嫌いなんだ」
「こんなに綺麗なのにか?」
「そこが嫌いきれねぇ所以でな」
「なんだそれ」
言って吹き出す雅。
「じゃあ好きなもん言えよ」
「煙管と、オマエ」
「順番逆にしろ」
雅が俺の肩を軽く叩いた。
照れてやがんな。頬が赤い。可愛い。
桜の花びらが、二人の間に落ちていく。ちらちら、ひらひら、儚く、淡く。
ああ、なんだよ、鬱陶しいな。
散るなよ。
なんとも言えねぇ気分になるじゃねぇか。散り際こそが美しいなんて、寂しいじゃねぇか。哀しいじゃねぇか。憐れじゃねぇか。凛と立ってろ。憐憫なんてさそうんじゃねぇ。
誰も知らないうちに、一瞬で散れよ。
たまんねぇよ、こんなの。
川の向こうでは、子どもが花びらを追いかけて走っていた。
子供ってのはいつの時代も無邪気で残酷なもんだ。
そのはしゃいだ笑い声が遠くに響く。
俺はその光景を見て、少しだけ目を細めた。
雅が川に向かって小石を投げた。
跳ねた波紋が、花びらを散らした。
「まだ春、終わってねぇな」
ふと、言ってみた。
「終わらなきゃ良いのにな」
雅が真剣な顔で言う。
「ハハ、無茶言うな」
俺は笑って歩き出した。
雅がその隣を歩く。
肩が触れそうな距離で。
それだけで俺の胸は焦れる。
触れたい。口付けたい。抱き合いたい。
もう、時間があまり残っていないなら、尚更。
桜が散って、帰り道を彩る。
春は、まだ終わっていなかった。
美しく、未練がましい桜が、たださらさらと、舞っていた。
【02】
屋敷の戸を引くと、湿った木の匂いと、煎った茶葉の甘い香りが一度に鼻をくすぐった。
「おかえり!」
暁が土間から顔を上げる。手には湯呑み、額には薄く汗。
「どうだったの?」
大きな瞳をくるりと向けて、暁が問う。
「生きて帰った」
俺が言うと、呆れた様に返してくる。
「それは見ればわかるわよ」
暁は湯気ごしに俺の顔色を確かめ、ふっと真顔になった。
「……で、お医者様は?」
「それが……」
「夏は迎えられないとさ」
そっけなく俺が言うと、暁は俺を見て、それから雅をみた。
「あんたは、平気?」
「平気なわけ、ないだろ」
暁は一拍置いて、盛大にため息をついた。
「あんたが支えなくてどうするの」
「俺は支えなんていらねぇ」
すると暁は、ため息混じりに言った。
「——だったら、せめて食べて寝なさい。反論は受け付けません」
卓の上、焼き目の甘い粟餅が並ぶ。俺は二つ目で箸を止めた。
「うまい」
「そう言うときは三つ食べて」
「命令は嫌いだ」
「お願い。三つ」
結局三つ目に手を伸ばす俺を、それでも心配そうに暁が見る。
だから箸で粟餅を器用に取ると、わざと大きな口を空けて、食べた。
心配なんてされたくない。
哀れみも憐憫もごめんだ。
そんな俺を知ってか知らずか、暁は食べる姿をじっと見ていた。
何かいいたそうで、でもなにも言えない。そんな雰囲気だった。
居心地の悪くなった俺は、箸を置いて、部屋に向かった。その背中に、痛いほど暁の視線を感じていた。
雨が上がった。庭の苔が濃く色を増し、縁側の板は薄く光っている。
食後すぐ、部屋に上がってきた雅は、身支度をした。草履、外套、手ぬぐい、それから薄い手袋。
「おい、何処行く気だ」
「寺の庫裏。古い本を借りる。戻りに市の露店も見てくる」
「ハッ?なんで急に」
俺が言うと、ちらとこちらに視線を向けた雅は、すぐに目を逸らした。
「急じゃない。ずっと探してたのを、今日から本気出すだけ」
「なにをだ?」
「生きる道」
暁は口を開けて、何か言いかけて、閉じた。
「……なんだよ、それ。勝手に動くな。真逆、俺のためか?」
「違う。自分のため」
思い詰めた様に言って、振り返らないで出ていった。
◇
庫裏は湿った紙と墨の匂いに満ちていた。
僧は白髪の小柄な人で、俺が目的を言うと、目尻に細いしわを寄せた。
「桃の伝え、か」
「西へ、桃の道を行け、という文言を探しています」
「桃は死者の果物と古い書にはある。甘いが、骨に冷えるやつだ」
「死者の果物」
「そう書くと怖いがね、意味は『境目に実る』ということさ。生と死のあいだに」
僧は梁の高い書庫から、糸で綴じた方志や地誌の類を四、五冊引き出した。
「貸し出しは二晩。雨に当てるな。指を舐めてめくるな。めくるなら息を使え」
「心得ました」
俺は頭を下げ、包みを抱えた。
市は雨上がりで、人出が多かった。露店の帳場に、古紙を積み上げた老婆がいる。
「坊、紙か? 紙ならまだ濡れとる。締まってから、明日のほうが安いよ」
「安いより、今ほしい。西へ向かう巡礼の地取りや、桃の祠の話があれば」
「桃なら、まだ西では咲いとる」
「花じゃない。道」
老婆は鼻で笑い、束の底から濃い墨色の小冊子を引っ張り出した。
「昔の語り。誰が書いたか知らん。値は半分、雨のぶん」
俺は数枚の銭を置き、小冊子を外套の内へしまった。
ページをめくると、確かに「桃の道を三度踏め」「三たび西風」といった、似た語がゆらゆらと現れては消える。統一はない。だが、同じ方向を指している。
暮れ方、屋敷に戻ると、暁は針箱を開いたまま縁側に座っていた。
「裾、破けてたから縫っといた」
「助かる」
「焔は?」
「寝た。また、多分寝たふりだがな。あいつは寝たふりがうまい」
「……あー、うん。あいつ、そういうとこある」
俺は荷を下ろし、静かに襖を閉めて焔の部屋へ入った。部屋は、別にあるのだが、俺はもっぱら、焔の部屋に入り浸っていた。
◇
寝台の上、俺は寝たふりをしていた。
呼吸は浅い。喉の奥で絡む音。油皿の小さな火が壁に揺れを投げている。
目を閉じていてもわかった.雅の気配。いま、何をしてるのか。
雅は靴を脱ぎ、寝台の端に腰を落とした。
「帰った」
「おかえり」
俺は目を開けずに言い、薄く笑った。
「どうだった」
「寺は当たり。市もまあまあ。口碑の断片がいくつか拾えた。『桃の道』『三度』『西』」
「そんな曖昧なんで、どうすんだよ?」
「身も蓋もねぇな」
「俺は、構わねぇ」
「何が?」
「夏が、こなくても」
と、ガッと胸ぐらを掴まれた。
「バカ。オマエは良くても、俺はごめんだ。」
「夏は暑い。体もつれぇ。死んでも別に……」
突然口付けられた。
深く、深く。
全てを奪うようでもあり、必死な想いが滲んでいるようでもあった。
長い口付けの後、雅は言った。
「二度と言うな」
泣きそうな顔で、それがあまりに真剣で、俺は笑い飛ばすことができなかった。
夜が降りてくる。
雨粒が軒を伝い、庭の甕に落ちる音が絶え間なく続いた。
俺は体をわずかに起こす。背を支えると、咳が波のように押し寄せ、過ぎていく。
雅が水を飲ませてくれて、俺の衣の襟元を緩める。その仕草に欲がないのが、寂しかった。
「寒いか」
「お前の手が冷てぇ」
「さっきまで外にいた」
「だったら、あっためてやろうか?」
雅は黙って胸に顔を寄せた。雅の息が鎖骨に触れ、少し咳が落ち着いた。
「……どうだ」
「ああ、悪くねぇ……なあ、抱いてくれよ」
「だめだ、今は」
「なんで」
「オマエの身体に負担をかけたくない」
雅がシケた面でいいやがる。
わかってねぇな。
もう永くないんだから。だからこそ。
愛する男に、メチャクチャに抱かれたいんだ。『身体に負担をかけたくない』。そんなの、優しさでもなんでもねぇ。
「なあ、」
「だめだ」
「オマエは欲しくねぇのかよ?好きだろ、俺の体」
「好きなのは体じゃなくてオマエだ」
ずりぃ、そんな言い方。
雅のバカ。頑固者。堅物。嫌いだ。嫌いだ。雅なんて。
俺は欲と熱を持て余し、素足を擦り合わせた。そしてそのまま、眠りに落ちて行った。
◇
やがて焔は眠った。眠り方をやっと思い出した子どものように、かすかに眉を緩めて。寝ていると妙に幼い。歳は22のはずだが、普段の妖艶さを潜め、今は歳より若く見える。
あゝ、綺麗だ。
光に照らされ、その神がかった美貌が浮かび上がる。本人は全くわかっていないが、透ける様な艶かしい肌、柔らかそうな頬、薄い唇は酷薄そうでいて、笑うと可愛い。長い睫毛。高い鼻梁、異国のもののような容姿、瞳を開ければ、赤い。畏れを抱くほどに、美しかった。
こんな男に「抱いてくれ」と言われて、抱かないでいられる自制心の持ち主が、俺以外にいるなら、見てみたい。
焔の色香は、それこそ暴力的だった。
俺は欲を振り払う様に、首を振った。
灯りに、油を足し、灯芯の先を短く切って火を小さくした。
膝に書物を広げ、指先だけで紙をたぐる。僧の言うとおり、息でめくる。
文字の墨は、ところどころ海の塩のように薄れている。
“遥か彼方”“西”“桃の祠”“三度踏め”“振り返るな”
ばらばらの点が、夜の底で線になろうとしていた。
翌日。
焔はまだ眠っていた。
少し汗ばんだ額にかかる髪をはらう。
熱が、高かった。
いつまでも隣にいたかったが、小さな接吻を落として、俺は外に出た。
まだ早い。
全てが眠っているようだ。
だが、確かに朝は、そこにきていた。
朝を祝福する鳥の声が、祈りの様に響いている。
俺は、寺への返却のついでに、僧に聞いてみた。
「三度、という数には意味が」
「昔、道を確かめるには、同じ季節を三度歩け、と教えたものだ。」
「その意味は?」
「わからんよ。けれど、信じれば道は開けるもの。」
「……神様は信じない」
「信じないものほど愛するのが神だ」
「神とは悪趣味なものだな」
「いいや、慈愛が余って持て余しているんだろう」
僧は笑い、背を向けた。
その帰りに立ち寄った祠は、苔むした石に“桃”の刻印がうっすら残っているだけだった。
誰がいつ建てたのか、誰も覚えていない。
ただ、花期でもないのに、根元に小さな花弁がひとひら、落ちていた。
桃の花。
その光景が妙に心を揺さぶった。
帰ったのは深夜過ぎだった。
焔は縁側で、ただ桜を見ていた。嫌いだ、と言った桜を。俺を待ってくれていたのだろうが、なんだか焔が桜に奪われそうで、俺は隣に座って手を掴んだ。
「ただいま」
「おかえり」
「春とはいえ、ここは冷える。中にはいろう」
「ただいまの接吻は?」
「ん。ただいま」
ちゅ、と音をたてて、唇にそれを落とした。焔の唇は熱を持って熱く、俺の不安はふくらんだ。
焔は食事もせずに、俺を待っていてくれたらしく、暁がため息をつく。
「あー!全く焔は、雅がいないとだめなんだから」
そういいつつも、暁は焔のために、温い粥に生姜を落としてくれた。
「食べたら、ちゃんと寝て」
「お前が寝ろ」
「相変わらず態度がよろしいことで」
暁の言葉に、焔が笑い、匙を口に運ぶ。
温かい粥は、ひととき咳を忘れさせるようだ。焔の喉から、ひゅー、という苦しそうな呼吸が消えた。
俺は書物を机に積み、ふと気づいて暁を見る。
「暁、針箱、出しっぱなしだぞ」
「あ、うん。……明日しまう」
「裾、ありがとうな」
ほつれた裾を、暁が縫ってくれていた。袴がふたつ、きちんと畳んで置いてある。
「礼には及ばないわ」
暁はそれだけ言うと、逃げるみたいに廊下の向こうへ消えた。
夜更け。
屋敷は別の生き物になる。畳が冷え、柱が小さく軋み、油の匂いが濃くなる。
焔は寝台で目を閉じたまま、眠れずにいた。咳が来る前に息を止め、やり過ごしているようだった。
俺ははまだ本を読んでいた。紙をめくる音が、雨の余韻みたいに静かに続く。
「おい」
「……ん」
「まだ読んでんのか」
「読む。間に合わせる」
「今日も抱かないのか」
「抱きたいよ。でも、体が治ってからだ」
返す言葉がなくて、焔は手を伸ばした。空を掴むように。届くところに、俺はいるのに。
届かなくなる未来を、彼は考えている様で。酷くせつなげに、指を伸ばす。
紙を捲る手が、そこで止まった。
静寂が落ちる。油皿の火が一度だけ弱まり、また戻る。
俺は、焔の腕を取った。
そして、寝台に滑り込む。
「抱く気になったか?」
「添い寝だけだ」
「いやだ、そんなの」
「じゃあ接吻」
淡く抱きしめて、唇を奪う。やはり唇は熱い。
何度も角度を変えて口付けてやると、焔の瞳がとろん、と蕩けてくる。
こうなると厄介だ。
おれの理性も効かなくなる。
「雅、きて」
甘える様な声に、もう、何も考えられなかった。男を狂わせる男。
それが、焔だった。
【03】
結局、焔に陥落させられた俺は、その愛しい体を抱いた。無理をさせた自覚はある。だが、閨の中、思い切り乱れる焔は、いつもより甘えてきて、いつもより素直で、とにかく可愛いのだから、仕方ない。あれは仕方なかった。
と、思い込むしかあるまい。
相手の身体にいつくもの華を咲かせる己の独占欲には、自分でも呆れるほど。
白い躰に紅い華が咲き乱れる様を、美しい幻の様に眺めた。
行為が終わってしばらくして、俺はまた本に向かった。
焔は寝台の上で片腕を枕にしてねそべっていた。その気だるげな仕草も艶っぽくて、本当にいい加減にしてほしい。
「……おい」
焔は眺めるのに飽きたのか、声をかけてくる。
「ん」
「寝ろ。明日もあるだろ」
「オマエが寝ればいい。俺はまだ調べる」
「お前、いつ寝る気だよ」
「目的地見つけてから」
「ふん、そんなん見つかるかよ。見つける前に俺が死ぬわ」
「死ぬな」
「命令すんな」
「じゃあ、お願い。死ぬな」
その言い方が気に入ったのか、焔は笑って起き上がる。
薄布を肩にかけて、俺の方を見た。
油皿の光に照らされた横顔は、昼よりずっと幼い。
眉間にしわを寄せながらも、瞳は真っすぐ。
「お前な、どんだけ頑固なんだよ?もう寝ろっての」
「頑固はお互い様だろ」
「俺は理屈っぽいだけだ」
「屁理屈だろ」
「似たようなもんだ」
小さな口喧嘩が、夜の中で静かに弾けて消える。
俺は焔が可愛くて、思わず、ふ、と笑った.だが、次の瞬間には真顔に戻った。
そして、呟くように言った。
「……見つけた」
焔が瞬きをする。
「何を?」
俺は顔を上げた。灯の炎がその頬を淡く撫でる。
「焔、一緒に桃源郷に行く気はないか?」
焔は一拍置いて、鼻で笑った。
「はあ? 桃源郷? あるわけねーだろ、そんなもん」
「遥か彼方、西の地にあるらしい。桃の道を行けってさ」
「それがどこか、わからねーじゃねーか」
「見つけたんだよ、地図を」
俺は膝の上に置いていた古い和綴じの本を、焔の前に差し出した。
墨が滲み、頁の端が黄ばんでいる。
見開きに、細い筆で描かれた地図。
都から西へ。川沿いに続く細い道。
途中に「桃の祠」の印。さらに「渡し」「峠」「谷」。
その先の線は、白く途切れていた。
焔が眉をひそめる。
「これ、信憑性あんのか?」
「正直、確証はない」
「じゃあただの落書きだろ」
「けど——」
俺の声は、低くやわらかく。
「《生きる道》になるかもしれない」
焔は笑いかけて、やめた。
俺の眼差しが真剣すぎて、冗談にできなかったのだろう。
「……お前、そういう言い方ずりぃんだよ」
「どうして?」
「だって、なあ?」
「オマエには生きててもらわなきゃ困る。もっと、もっとだ。まだ愛したりない」
「……馬鹿か」
「お互い様」
灯の火が、ふっと揺れた。
油が切れかけている。
俺が立ち上がって油を足そうとした瞬間、焔がその手首を掴んだ。
「いい。座れ」
「火が——」
「消えてもいい」
焔の声がかすれる。
「お前がいるなら、暗くてもいい」
俺は目を細め、ゆっくり焔の隣に腰を下ろした。
灯の炎が、ふたりの顔のあいだに線を引く。
そして、焔の指がその線を破るように、雅の頬を撫でた。
「煙管が吸えなくなったら、俺は何で憂さを晴らしたらいい?」
「キスで我慢しろ」
「……言うじゃねぇか」
「言うさ。煙管より、俺のキスの方がずっといい」
「生意気」
「惚れただろ」
「最初から」
そっと、唇が触れた。
小さなリップ音。
焔の指先が、俺の後頭を軽く押さえた。
長くも、短くもない。
息を分け合うほどの距離で、ふたりは黙った。
灯の炎が、ぱち、と音を立てて消えた。
闇の中、ふたりの呼吸だけが残る。
「行くか」
「決断、早いな」
「どうせお前、俺が『行かねぇ』って言ったら、担いででも連れてくだろ」
「もちろん」
「丁度退屈してたとこだ。いこうぜ――遥か、彼方まで」
外の風が、障子をゆっくり揺らした。
桜の花びらが一枚、すき間から滑り込んで、二人の間に落ちた。
春の夜はまだ終わらない。
【04】
夜明け前の空は、いちばん青く、いちばん冷たい。
屋敷の庭の桜は、ほとんどが散りかけていた。
花びらが舞い、苔むした石畳に降り積もる。
俺は荷をまとめ、煙管を懐にしまう。
雅は巻物と地図を革袋に入れ、肩にかけた。
暁が廊下に立っていた。
髪をまとめもせず、眠たげな顔で。
「……起きてたのか」
「寝られるわけないでしょ。あんたらのせいで、夜中ずっと物音してたんだから」
「悪かったな」
「いい。慣れてる」
暁は腕を組んで、俺たちを見つめた。
「で、どこ行くの?」
「西」
「ざっくりね」
呆れ声に、俺は笑う。
「ざっくり生きるのが俺たちの流儀だ」
「勝手に決めてんじゃねぇ」
「ざっくり死なないでよね?」
「お、良いツッコミ」
「笑ってる場合じゃないわよ」
暁は一歩近づいて、俺の外套の裾を引いた。
「これ、破けてたから縫っといた。……裾の内側、触らないでね」
「なに仕込んだ?」
「内緒」
「爆薬じゃねぇだろうな」
「縫い目に祈りの鈴。神様なんて信じないあんたらに代わって、わたしが代わりに祈っとく」
暁の温かさは、どこか懐かしく、母親じみている。
「……ありがとな」
少しだけ笑って、暁の頭を軽く撫でた。
「髪、乱れる!」
「直せ」
「帰ってきたら殴るわよ」
「帰ってきたらな」
暁は口をへの字にして、手を握りしめた。
「勝手に行けば?……でも、生きて帰ってきなさい」
俺は肩をすくめる。
「命令は嫌いだ」
「——生きて」
その言葉が、胸の奥に残った。
俺は何も返さず、ただ小さく笑った。
外は白んでいた。
川霧が薄く流れ、朝の風が花の匂いを運んでくる。
土手の上には、散りきれない桜が少しだけ残っていた。
それを背に、俺と雅は並んで立つ。
「なぁ雅」
「ん」
「煙管が恋しくなったら、どうすんだっけ」
「キスで我慢しろ」
「だよな」
ふたりの笑い声が、春の風に溶けた。
川の水面に、花びらが流れる。
桃の花ではないのに、どこか同じ香りがした。
焔は息を吸い、遠くの山並みを見た。
「遥か彼方、西の地、か」
「ああ。……行こう」
「お前、帰り道覚えとけよ」
「帰る気あんのか」
「帰るために行くんだろ?」
「焔!?」
「なあんてな。二人で野垂れ死ぬのもいいが、生きてないと、オマエをからかえない。」
俺は笑った。雅も笑った。
その笑顔のまま、二人は霧の中に歩き出した。
鈴の音が、かすかに鳴った。
暁の祈りが、風に溶けて消えていく。
花びらが舞い、足跡を隠していく。
——春は終わり、桃の季節が始まる。
それが、ふたりの旅のはじまりだった。
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