第2話 『ワシらの魔術』
父を荼毘に付せ、気がつけば三年が経っていた。
朝の湿り気が引いて、日が高くなりはじめた頃。
牛舎の壁が風に押されて、ギシ、と小さな音を立てた。
木桶と飼料を抱えて歩くロウの足取りは速い。昔よく転んで父に注意された板の節の出っ張りにも、もう躓かない。
幼い頃につけた傷が残るその手の動きは確かで、目の前に並ぶ魔牛一頭一頭の体格に合わせて、稲わらの量を調整しながら与えていく。
「おい。ホープ、ぼさっとすんな。こっち手伝えよ」
入口の近くで、ホープが鼻を鳴らした。そしてロウを一瞥した後、口を尖らせ、藁束に腰を落とす。そのまま地面に落ちている青草をつま先で蹴り飛ばした。
「僕ばっかい、こき使うな。アラン
「肥育の管理は交代制。それに
返事はなく、ホープはわざとらしく肩をすくめるだけだった。
その不貞腐れた様子に、ロウはため息をひとつ落とす。手早く道具を片づけてから彼の前にしゃがみ、目線を合わせた。
「おい、いけんした。誰かに何か言われたか」
「……こげんの頑張ったって無駄だし。僕は村のみんなの仲間になれん」
少しの沈黙の後、ホープが唇をぎゅっと嚙みながら瞬きを繰り返す。そして左の袖をまくり、その腕に刻まれた白い紋章を爪で思い切り引っ掻いた。
その仕草にぎょっとしたロウは、咄嗟にホープの手を押さえる。
「なにしちょる。やめろ、傷になるだろ」
「嫌だ! これ、チート王の仲間の印だって。僕、友達に仲間はずれにされてる。お兄たちにはこげん印、ついてないのに、なんで僕だけ!」
冬の窓霜のような形をしたその紋章が、皮膚の下で淡く発光している。
ホープのその細い腕に、ふと父の面影が差した――。
そして、胸の奥で遠い夜のにおいがする。
たいまつの煙。心に焼き付いて消えない、燃えあがる炎。三年前のあの時の……。
「違う。これは確かに、お前が生まれ変わって、ここ――我が界へ来たちゅう印だ……チート王が元いた世界から。けど、あいつが持っていたのは赤い色の紋章。赤色のやつだけが元いた世界の記憶を持っちょる。こん白いのは、違う……!」
ロウはホープの顔を見ずに、白い紋章だけを手のひらで覆った。
そして言葉を続ける。
「……ほいならで、ホープはホープだ。そんクソガキ共にもそう言ってやればよか」
本当は言い切るたび、首筋に嫌な汗を纏った。
父の腕にあった白い紋章が、夜気の中で赤色に滲んで変わっていった瞬間を、ロウの目は忘れていない。
その赤色に、誰かが怯えて、誰かが父の命を奪った――。
それを考えはじめると、今でも手のひらの感覚が遠のき、そして指先から徐々に冷たくなってくるのだ。
ロウは立ち上がり、ホープの肩を軽く叩いた。
「行くぞ。特別に、良いもん見せちゃる――」
牛舎を出ると、土のにおいが濃くなっていく。
冬の終わりの乾いた風が雑草を撫で、遠くでは魔鳥が低く鳴いていた。
二人は村はずれの柵を抜け、石畳の細道をまっすぐ下る。
やがて、木壁に囲まれた『と殺場』が見えてきた。門の前では、
「あれ? 長老とチャイさぁ。来てたのか」
ロウが声をかけると、先にその場へ来ていた長老が振り向き、目を細めた。皺の谷間に、陽の光が柔らかく溜まる。
その隣には、
「今日はお前の魔術をな、久しぶりに見に来たんじゃ」
そんな長老の言葉へ続くように、チャイがひとつ首を縦に振った。
チャイの腰には短い鞭と小さな袋。輓獣の首革には細い金具が整然と並び、息づかいに合わせて鉄の擦れる音がしていた。
「……お兄の、魔術?」
ホープが小声で問う。
ロウは、少し得意げに頷いた。
「ナインケチア一族に伝わる、魔牛を食肉にすっための
囲いの向こうに、魔牛が三十頭、静かに並んでいた。
その家畜の瞳は海の底を感じるほどに黒い。
ロウは輪の中央に歩み出て、深く息を吸い込んだ。
次の瞬間、神経を集中させ、両手の親指と人差し指を合わせ三角形を作る。
そして、三角形の中心に橙色の球体が小さく浮かび、バチリと音を立て閃光した。
この球体こそ、ロウの中にある
足元の土がロウの踏み込みによって僅かに舞い上がる。
――この魔術を、村は『
名前などどうでも良かった。
魔術を発動させる際に、これ見よがしに術名を叫ぶ者がいるのも知っている。しかしロウはわざわざこの魔術の名を口にする必要もないと、今でも思っている。
それほど当たり前に牛殺を使い、当たり前に
誰かにひけらかすものでもないし、役目さえこなせればそれで良かった。
血の一滴も流さず、悲鳴を上げさせず、ただ魔牛の鼓動を静かに止める一辺倒の魔術。
祖父も父もこの術で、魔牛に痛みを与えぬまま魂を還してきた。
魔牛の体に流れる魔素が、ナインケチアの魔素と静かに混ざり合う。魔術の鍛錬を重ねるほど、調和する。
その自然な交わりが、肉をやわらかくし、深い旨みを宿すのだ――そう父から聞かされたのはちょうどホープと同じ年頃だったか。
美味く育て、美味くいただくこと。それが命への礼儀であり、ナインケチアの誇りだ。
数秒間、その場の音が消え、空気が振動した。
目には何も映らないのに、胸もとを突き上げるような衝撃が走る。同時に地面の砂が震え、すぐに沈黙に戻った。
その直後、魔牛たちはしばらくのあいだ、立ったまま動かなかった。
まるで生と死の境を見失ったかのように、ゆっくりと耳だけが風に靡いている。
やがて一頭が、膝から崩れた。
その音を合図に、残る牛たちも次々と倒れていく。
ただ、大地に吸い込まれるように静かに横たわった。
ロウはゆっくり目を開け、手の中でほどけ残った熱を指の腹で確かめた。
「……え。終わり? 牛、死んじゃった……の?」
倒れた魔牛を目の前にホープが口を開けたまま、固まっている。
長老が短く笑い、杖の先で土を突いた。
「ほう、見事じゃ。腕を上げたのう」
「いや。お父さぁには敵わん」
ロウの口元に、わずかに悔しそうな笑みが差した。
チャイが親指で輓獣を示し、ホープの方へ身を屈める。
「ここから先は俺の役目だ。お前の兄ちゃんが繋いだ命を、最高の鮮度で加工場まで運ぶ。
輓獣が息を吐くたび、革の金具がかすかに触れ合った。
長老は空を見上げ、目尻に皺を寄せる。
「ホープよ。大事なのは、守って、繋いで、感謝の輪を広げることじゃ――ワシらの魔術は、そのためにある」
「……なんか、かっこいい!」
ホープの視線が、ロウの横顔に移る。
ロウはホープの頭に、優しく手を置いた。
「なあ、お前はホープ・ナインケチア。俺の弟で、村の一部だ。……遠回りでも、ちゃんと繋がっていく」
ホープは小さく頷き、目をこすった。
チャイが手綱を引くと、彼の魔術のかかった輓獣が、四つの蹄から青い炎のような揺らめきを浮かべる。
そのまま小さく前足を鳴らし、荷台に積まれた牛体を揺らさぬまま走り出した。
土煙の上を影が滑っていく。
しばらくして、角を曲がる輓獣の足音だけが残った。
再び、静けさが舞い戻る。
その時、ロウは自分の髪をまとめていた紐を解いた。
手の中に小さな緑の髪飾りが落ちる。父からもらった、祭祀岩の欠片を磨いた石だ。
その髪飾りを腕にはめ、指先をそっと合わせる。
目を閉じると、祭祀岩のひんやりとした感覚が祈りと重なり胸の奥へと広がった。
「お兄、なにしてん?」
「……ああこれは。またいつか、な」
ロウは短く答え、命を繋げた魔牛への感謝を締めた。
長かった冬も、もうじき終わる。季節の前進を感じさせる、春めいた風が枯れ草を揺らした。
空は高く、見上げれば自由に飛びかう魔鳥が宙に大きな輪を描いている。
ロウの背丈は、去年よりも確かに伸びていた。
その日の夜、
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