第8話 鈴の体調不良と悪意の排除。
秋が深まり、木々の葉が赤や黄色に色づき始めた頃、僕たちの幸福な日常に、ほんの小さな、しかし確かな影が差し込んだ。それは、いつも僕の隣で太陽のように笑っていた月島鈴が、学校を休んだことから始まった。
その日の朝、ホームルームが始まる直前に、担任教師から彼女が風邪で欠席すると告げられた。その瞬間、僕の心臓は嫌な音を立てて軋んだ。昨日まで、あんなに元気だったのに。別れ際に交わしたキスの温もりは、まだ僕の唇に生々しく残っている。何か、悪いことでもあったのだろうか。僕の心は、鉛を飲み込んだかのように重くなった。
授業中も、僕は全く集中できなかった。ノートに書き写す文字は意味をなさず、教師の声はまるで遠い国の言葉のように、僕の耳を通り過ぎていくだけだった。僕の意識は、今頃一人で苦しんでいるであろう彼女の元へと、とっくに飛んでいってしまっていた。
心配でたまらず、僕は昼休みになるとすぐに、彼女にメッセージを送った。「大丈夫か? 何か必要なものがあったら、すぐに持っていくから」と。数分後、彼女から返信があった。「大丈夫だよ。ただの風邪だから、心配しないで」。その短い文章からは、彼女の今の状態を詳しく知ることはできなかった。しかし、その文面に、僕はかえって胸騒ぎを覚えた。本当に大丈夫なのだろうか。
放課後、僕はいてもたってもいられず、スポーツドリンクやゼリー飲料などを買い込み、彼女の家へと向かった。チャイムを鳴らすと、出てきたのは彼女の母親である咲良さんだった。翻訳家をしているという彼女は、どこか娘の鈴と似た、知的で穏やかな雰囲気を持つ女性だった。
「まあ、佐倉君。わざわざありがとう。鈴なら、自分の部屋で寝ているわ」
咲良さんは、僕を家に招き入れてくれた。案内された鈴の部屋のドアを、僕は緊張しながら、そっとノックする。中から、か細い「どうぞ」という声が聞こえた。
僕が部屋に入ると、鈴はベッドの上で、力なく身体を起こした。その顔は青白く、いつもは強い光を宿している瞳も、今はどこか虚ろに見える。その痛々しい姿に、僕の胸は締め付けられるようだった。
「ごめん、悠人君。来てもらっちゃって」
「いいんだよ、そんなこと。それより、本当に大丈夫なのか? 熱は?」
僕は、彼女のベッドサイドに腰掛け、心配でたまらない気持ちを抑えながら尋ねた。彼女の額にそっと手を当てると、じんわりと熱が伝わってくる。
「少し、あるみたい。でも、大したことないから」
彼女は、力なく微笑んで見せた。しかし、その笑顔が、僕にはかえって痛々しく見えた。僕は、買ってきたものをテーブルの上に置き、濡れタオルで彼女の額を冷やしてやった。
「ありがとう」
彼女は、気持ちよさそうに目を閉じた。その無防備な寝顔を見ていると、僕の心の中に、彼女を守りたいという強い保護欲が、ふつふつと湧き上がってくるのを感じた。僕が、彼女を支えなければ。僕が、彼女の苦しみを和らげてあげなければ。
僕が彼女の看病をしていると、不意に、僕のスマートフォンが震えた。クラスメイトの佐藤遥からのメッセージだった。「ねえ、知ってる? 田中さん、急に体調崩して、しばらく学校休むんだって」。田中さん、というのは、クラスの女子生徒の一人だ。彼女は、以前から何かと鈴に突っかかってくることが多く、僕たちの交際が始まってからは、その態度はさらに露骨になっていた。僕には聞こえないように、しかし鈴には聞こえるように、嫌味を言っているのを、僕は何度か耳にしたことがある。
そのメッセージを読んだ瞬間、僕の隣で眠っていたはずの鈴の身体が、ぴくりと微かに動いた。僕は、彼女が目を覚ましたのかと思い、顔を覗き込む。彼女は、まだ目を閉じたままだった。しかし、その表情は、先ほどまでの苦しげなものから、ほんの少しだけ、和らいでいるように見えた。まるで、重い荷物を下ろしたかのような、無意識の安堵の色が、その寝顔に浮かんでいる。
僕には、その変化の意味が分からなかった。ただ、僕の知らないところで、何か大きな力が働いている。そんな、漠然とした予感だけが、僕の心を支配していた。
翌日、鈴の熱はすっかり下がり、いつもの元気を取り戻していた。しかし、僕の心の中には、あの日の出来事が、小さな棘のように引っかかったままだった。鈴をいじめていたクラスメイトの突然の休学。そして、その知らせを聞いた時の、鈴の寝顔に浮かんだ、あの不思議な安堵の表情。
僕は、その二つの出来事を、結びつけて考えることを、無意識に避けていた。僕の愛する鈴が、誰かの不幸を喜ぶはずがない。きっと、全ては偶然だ。そう自分に言い聞かせながら、僕は彼女の回復を、心から喜んだ。
この時、僕はまだ、彼女の特異な体質の、ほんの入り口を垣間見たに過ぎなかったのだ。彼女に向けられる悪意は、彼女の意思とは無関係に、その源泉へと跳ね返り、相手を不幸にする。そして、その反動として、彼女自身も一時的に生命力を消耗する。僕の知らないその法則が、僕たちの運命を、静かに、しかし確実に、悲劇的な結末へと導いていくことになるのを、この時の僕が知る由もなかった。
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