第7話 進路決定と未来の約束。


 夏が過ぎ、秋風が高校の廊下を吹き抜ける季節になると、僕たちの周りの空気は否応なく受験の色に染まっていった。教室では、休み時間のたびに志望校のパンフレットを広げる生徒や、参考書とにらめっこする生徒の姿が目立つようになる。焦りや不安が、まるで伝染病のように、クラス全体にじわじわと広がっていく。しかし、そんな息苦しい雰囲気の中で、僕、佐倉悠人の心だけは、不思議なほど穏やかで、そして確かな希望に満ちていた。


 その理由は、言うまでもなく、僕の隣に月島鈴がいてくれるからだった。彼女との交際は順調そのもので、僕の成績は、あの奇跡的な定期テスト以来、安定して上位をキープし続けていた。もはや、クラスメイトや教師たちも、僕の急成長を「まぐれ」だとは言わなくなっていた。それは全て、鈴が僕にもたらしてくれた「幸運」のおかげだと、僕は確信していた。


 その日の放課後、僕たちは三者面談を終え、並んで家路についていた。夕焼けが、僕たちの進む道をどこまでも続く光の絨毯のように照らし出している。


「面談、どうだった?」


 僕が尋ねると、鈴は「いつも通りだよ」と、事もなげに答えた。彼女の成績ならば、国内のどんな難関大学でも狙える。教師からの期待も大きいのだろう。


「先生、悠人君のこと、すごく褒めてたよ。『最近の佐倉君の伸びは目を見張るものがある』って」


「そ、そうかな」


 彼女からそう言われると、自分のことなのに、まるで他人事のように頬が熱くなる。


「まあ、でも、僕の志望校はもう決まってるから」


 僕は、少しだけ照れくさそうに、しかしきっぱりと言った。僕の視線の先には、同じ未来を見据えているはずの彼女がいる。


「鈴と同じ、国立大学の経済学部。そこ以外は、考えてないよ」


 僕の言葉に、鈴は嬉しそうに目を細めた。そして、僕の手に、自分の手をそっと重ねてくる。その小さな温もりが、僕の決意をさらに固くさせた。


「うん。私も、悠人君と一緒の大学に行きたい。絶対に、合格しようね」


 僕たちは、互いの顔を見合わせ、強く頷いた。未来への希望が、僕たちの心を一つにする。このまま、二人で同じ道を歩んでいける。その確信が、僕を何よりも強くさせてくれた。


 しばらく、僕たちは手を繋いだまま、黙って歩いていた。沈黙が、心地よい。しかし、僕の心の中には、ずっと前から、一つの小さな疑問が燻っていた。それは、彼女の過去に関する、ほんの些細な疑問だった。


 以前、僕の部屋で勉強した時、彼女はぽつりと、テニス部の親友の話をした。二人でプロを目指していたが、その親友は途中でテニスを辞めてしまった、と。その時の彼女の横顔は、どこか寂しげで、僕の心に深く焼き付いていた。


 僕たちの未来を共有することを誓い合った今なら、彼女の過去についても、少しだけ踏み込んでもいいのではないか。そんな思いが、僕の背中をそっと押した。


「なあ、鈴」


「ん?」


「前に話してくれた、テニス部の親友のことなんだけど」


 僕がその話題を口にした瞬間、鈴の肩が、ほんのわずかに強張ったのを、僕は見逃さなかった。繋いだ手に、一瞬だけ、力がこもる。


「その子のこと、もしよかったら、もう少し聞かせてもらえないかな。鈴が、どんな風にテニスを頑張ってたのか、知りたいんだ」


 僕は、努めて明るい声で言った。彼女を詮索するつもりはない。ただ、愛する人の過去を、もっと知りたい。それは、ごく自然な欲求のはずだった。


 しかし、鈴は僕の顔を見ようとせず、視線を足元に落としたまま、しばらく黙り込んでしまった。夕日が、彼女の表情に深い影を落とす。その沈黙は、僕たちの間に、見えない壁を作り出すかのように、重く、そして冷たく感じられた。僕の心に、軽い不安がよぎる。何か、聞いてはいけないことだったのだろうか。


 僕が後悔の念に駆られ始めた、その時だった。彼女は、ふっと顔を上げ、僕に向かって、いつものように悪戯っぽく微笑んで見せた。


「ふふ、秘密」


 その言葉と笑顔は、しかし、どこか空虚な響きを持っていた。彼女の瞳の奥には、僕の知らない、深い葛藤の渦が巻いている。それは、過去のトラウマと、それを僕に知られたくないという、必死の防御本能がぶつかり合う、激しい戦いのようだった。


 僕は、それ以上、何も聞くことができなかった。彼女が「秘密」という壁で、僕を拒絶しているのが、痛いほど伝わってきたからだ。僕たちの間には、まだ僕の知らない、深い溝があるのかもしれない。その事実に、僕は少しだけ胸が痛んだ。


 しかし、僕の心は、すぐに未来への希望で満たされていった。過去は過去だ。僕たちには、これから始まる、輝かしい未来がある。今は、それでいいじゃないか。彼女が話したくないのなら、無理に聞く必要はない。いつか、彼女が自ら話してくれる日が来るのを、待てばいい。


 僕は、繋いだ手に、ぎゅっと力を込めた。


「そっか。じゃあ、いつか話したくなった時に、聞かせてよ」


 僕がそう言って笑いかけると、彼女は一瞬だけ、驚いたような顔をしたが、すぐに「うん」と、安心したように頷いた。


 僕のその言葉が、彼女の防御本能を、さらに強固なものにしてしまったことなど、この時の僕が知る由もなかった。僕の優しさが、皮肉にも、彼女を過去の呪縛から、さらに遠ざけてしまう結果になったことを。僕たちは、同じ未来を見ているはずだった。しかし、その未来に至る道筋は、僕が思っているよりもずっと、複雑で、そして残酷なものだったのだ。

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