第4話 小さな強要と小さな不運。
週末のデートの計画を立てていたのは、週半ばの水曜日のことだった。僕と鈴の関係は、あの秘密の勉強会以来、さらに親密さを増していた。肌が触れ合う距離に慣れ、二人きりの空間に流れる甘い沈黙が、心地よいものだと知ってしまった僕の心は、有頂天だったと言ってもいい。彼女がいるだけで、僕は無敵になれる。そんな根拠のない自信が、僕の全身に満ち溢れていた。
「今度の週末、どこか行きたいところある?」
放課後の帰り道、並んで歩きながら僕が尋ねると、鈴は少しだけ考える素振りを見せた後、僕の顔を覗き込むようにして言った。
「悠人君は、どこか行きたいところあるの?」
「僕か。僕は、新しくできた遊園地に行ってみたいな。絶叫マシンとか、すごいらしいぜ」
僕は、雑誌で見かけたばかりの、カラフルなアトラクションの写真を思い浮かべながら、興奮気味に言った。彼女の喜ぶ顔が見たい。ただ、それだけだった。僕が計画した最高のデートで、彼女に最高の笑顔をプレゼントしたい。そんな、恋する男の子なら誰もが抱くであろう純粋な願望が、僕の心を占めていた。
しかし、鈴の反応は僕の期待とは少し違っていた。彼女は、僕の提案に目を輝かせるでもなく、困ったように眉を寄せた。
「遊園地、か。きっと、すごく混んでるよね」
「まあ、そうだろうけど。でも、楽しいと思うよ。一緒に行こう、鈴」
僕は、彼女の手を軽く握り、力強く言った。しかし、彼女はどこか浮かない顔で、別の提案を口にする。
「あのね、私は、駅の向こうにある植物園に行ってみたいなって思ってたんだ。今、珍しい花が咲いてるらしくて」
植物園。その言葉の響きは、僕が思い描いていた、刺激的で華やかなデートとはあまりにもかけ離れていた。僕の心に、ほんの少しだけ、苛立ちにも似た感情が芽生える。どうして、僕の提案に素直に乗ってくれないんだろう。僕が、君を喜ばせようとしているのに。
「植物園か。でも、遊園地の方が絶対楽しいって。大丈夫、僕に任せてよ」
僕は、半ば強引に、自分の意見を押し通そうとした。それは、僕なりの愛情表現のつもりだった。男として、彼女をリードしたい。そんな、未熟で傲慢な独占欲が、僕の判断を曇らせていたのかもしれない。
僕のその言葉を聞いた瞬間、鈴の表情から、ふっと感情が消え失せた。彼女の瞳が、氷のように冷たく、僕を射抜く。その視線に、僕は思わず息を呑んだ。いつも僕を温かく包み込んでくれる彼女とは、まるで別人のような、絶対的な拒絶の色がそこにはあった。
「……分かった。悠人君がそう言うなら」
しばらくの沈黙の後、彼女はそう呟いた。その声は、感情の起伏を一切感じさせない、平坦な響きを持っていた。僕は、彼女のその変化に戸惑いながらも、自分の意見が通ったことに、どこか満足感を覚えていた。この時の僕は、まだ知らなかったのだ。彼女のその冷たい瞳の奥に隠された、深い絶望と恐怖の意味を。
デート当日、僕は玄関で靴を履きながら、今日の完璧なプランを頭の中で反芻していた。しかし、浮かれた気分で一歩踏み出した瞬間、足元で「パキッ」という乾いた音がした。慌てて足元を見ると、そこには無惨にもレンズが割れた僕のメガネが転がっていた。どうやら、靴箱の上から滑り落ちていたらしい。
「うわ、最悪だ…」
僕は思わず悪態をついた。予備のコンタクトレンズはあるが、朝から幸先の悪いスタートに、僕の心には暗い影が落ちる。
駅に着くと、僕たちを待ち受けていたのは、さらなる不運だった。僕たちが乗るはずだった遊園地方面への電車が、信号機故障の影響で運転を見合わせているというアナウンスが、無機質に構内に響き渡る。ホームは、行き場を失った人々でごった返し、まるでパニック映画のワンシーンのようだった。完璧だったはずの僕の計画が、音を立てて崩れていく。
「どうしよう、これじゃ、いつ動くか分からないな…」
僕は、人混みの中で途方に暮れた。苛立ちと、自分の計画性のなさを責める気持ちで、胸がいっぱいになる。そんな僕の隣で、鈴は静かに、そして冷静に口を開いた。
「植物園は、別の路線だから。今からなら、まだ間に合うと思うよ」
その言葉に、僕ははっと我に返った。そうだ、彼女は最初から、植物園に行きたいと言っていたのだ。僕が、それを強引に捻じ曲げてしまった。
「……ごめん、鈴。僕が、我儘を言ったから」
僕がそう謝ると、鈴は何も言わずに、ただ小さく首を横に振った。僕たちは、人でごった返すホームを抜け出し、植物園方面へ向かう別の路線のホームへと移動した。
電車に乗り込み、窓の外を眺めていると、それまで晴れていた空から、ぽつり、ぽつりと雨粒が落ちてきた。天気予報では、一日中晴れのはずだったのに。まるで、僕の心を映しているかのような、冷たい雨だった。
植物園に着く頃には、雨はすっかり本降りになっていた。温室の中は、湿った土の匂いと、甘い花の香りが混じり合い、独特の空気を醸し出している。色とりどりの花々が、雨粒に濡れて、しっとりと輝いていた。
僕たちは、傘を差しながら、静かな園内をゆっくりと歩いた。さっきまでの喧騒が嘘のように、そこには穏やかな時間が流れている。雨音だけが、僕たちの沈黙を優しく包み込んでいた。
「ごめん。やっぱり、鈴の言う通りにすればよかった」
僕は、もう一度、心からの謝罪の言葉を口にした。鈴は、僕の顔をじっと見つめた後、ふっと息を吐いた。その吐息には、まるで重い荷物を下ろしたかのような、深い安堵の色が滲んでいた。
彼女は、何も言わずに、僕の手に自分の手をそっと絡めてきた。その小さな手は、少しだけ冷たかった。彼女は、目を閉じて、雨の匂いを深く吸い込む。その横顔は、どこか神聖で、僕には触れることすら許されないような、尊いものに思えた。
彼女の冷たい瞳の理由は、分からない。僕の強引な態度が、彼女を傷つけたのかもしれない。それとも、僕の知らない、何か別の理由があるのかもしれない。でも、今はそれでよかった。この穏やかな時間の中で、ただ彼女の隣にいられる。それだけで、僕の心は満たされていた。
この日の出来事は、僕たちの関係に、一つの見えないルールを刻み込んだ。僕が自分の意思を強要しようとすると、必ず小さな不運が訪れる。そして、彼女の導きに従う時、僕たちの世界は、まるで祝福されているかのように、穏やかで満ち足りたものになる。僕は、その不思議な法則を、まだ漠然としか理解していなかった。それが、僕の運命そのものを左右する、絶対的な法則であることにも気づかずに。
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