第3話 放課後の秘密の勉強会。
定期テストの結果が返却された日、教室は歓声とため息が入り混じる独特の空気に包まれていた。僕、佐倉悠人の手元にある成績表には、これまでの自分では考えられないような数字が並んでいる。学年順位は二桁台前半。苦手だった数学に至っては、クラスでトップの成績を収めていた。
「おいおい悠人、どうなってんだよ。お前、鈴ちゃんと付き合い始めてからマジで神がかってないか?」
親友の野村健太が、自分の成績表と僕のそれを見比べながら、呆れたように、しかしどこか羨望の眼差しで言った。彼の言葉に、僕はただ曖昧に笑って見せるしかなかった。健太の言う通りだ。この奇跡的な成績上昇は、どう考えても僕一人の力ではない。僕の隣には、いつも彼女がいてくれる。月島鈴という、僕だけの幸運の女神が。
その日の放課後も、僕たちは当たり前のように一緒に帰り道を歩いていた。彼女と恋人同士になってから、これが僕たちの日常になっていた。他愛もない会話を交わしながら、並んで歩く。ただそれだけのことが、僕の心を温かい幸福感で満たしていく。
「それにしても、今回のテスト、本当にすごかったね」
僕が切り出すと、鈴は「うん」と短く頷き、僕の顔を嬉しそうに見上げた。
「悠人君が頑張ったからだよ」
「いや、鈴が一緒に勉強してくれたからだ。本当に感謝してる」
「ふふ、じゃあ、お互い様ってことにしておこうか」
彼女は悪戯っぽく笑う。その笑顔を見ているだけで、僕はどこまでも強くなれるような気がした。図書室での勉強会も良いけれど、もっと二人きりで、誰にも邪魔されずに集中できる場所があれば。そんな思いが、僕の口から自然とこぼれ落ちた。
「なあ、鈴。今度の週末、もしよかったら僕の部屋で勉強しないか。図書室も静かでいいけど、もっと集中できると思うんだ」
自分でも驚くほど、その誘いは自然な響きを持っていた。しかし、言った後になって、急に心臓が大きく跳ねるのを感じる。男子高校生が、恋人を自分の部屋に誘う。その行為が持つ意味を考え始めると、顔に熱が集まっていくのが分かった。
鈴は一瞬、驚いたように目を見開いた。そして、何かを考えるように視線を足元に落とす。その沈黙が、僕には永遠のように長く感じられた。断られるかもしれない。そう思った瞬間、彼女は顔を上げ、小さく、しかしはっきりと頷いた。
「うん。行く」
その返事を聞いた時の僕の喜びは、到底言葉では言い表せないものだった。
そして週末、僕の部屋に初めて鈴がやってきた。六畳ほどの、ごくありふれた男子高校生の部屋。本棚には漫画と参考書が混在し、壁には好きなバンドのポスターが貼ってある。そんな僕だけの空間に彼女がいるという事実が、僕の心をそわそわと落ち着かなくさせた。
僕たちは、ローテーブルを挟んで向かい合って座り、勉強を始めた。しかし、どうしても集中できない。彼女の一挙手一投足が、僕の意識を奪っていく。シャープペンシルを握る白い指、問題を解く真剣な横顔、時折こぼれる小さなため息。その全てが、僕の心を強く惹きつけた。
「悠人君、この問題なんだけど」
鈴が身を乗り出し、僕のノートを覗き込んできた。ふわりと、彼女の髪からシャンプーの甘い香りが漂う。その香りに、僕の心臓はまた大きく跳ねた。僕は平静を装いながら、彼女に解説を始める。隣り合った肩が触れ合い、そのたびに彼女の体温が伝わってくる。その温かさが、僕の思考を痺れさせるようだった。指先が偶然触れ合った瞬間、彼女の身体が微かに震えたのを、僕は感じ取った。その小さな反応が、僕の胸の奥を甘く締め付けた。この触れ合いの甘さが、僕の目標達成への熱意をさらに掻き立てる。彼女のためにも、絶対に合格しなければ。
しばらく勉強を続けた後、僕たちは少し休憩を取ることにした。僕が淹れたインスタントコーヒーを飲みながら、僕たちは改めて将来の夢について語り合った。
「やっぱり、同じ大学の経済学部に一緒に行きたいな」
「うん。私も、そう思う」
鈴は、コーヒーカップを両手で包み込みながら、静かに頷いた。その横顔に、夕日が差し込んでいる。
「悠人君は、どうして経済学部に?」
「うーん、はっきりとは決まってないんだけど、漠然と、人の役に立つ仕事がしたいなって。経済の仕組みを理解すれば、もっと広い視点で社会を見られるようになるかなって」
我ながら、まだ青臭い理想論だ。しかし、鈴は真剣な眼差しで僕の話を聞いてくれた。
「そっか。悠人君らしいね」
「鈴は? 何かやりたいこととかあるの?」
僕がそう尋ねると、彼女は一瞬、遠くを見るような目をした。その瞳に、またあの影がよぎる。
「私ね、昔、親友と同じ目標を持ってたんだ。二人でプロのテニスプレイヤーになるのが夢で」
彼女の声は、どこか寂しげな響きを帯びていた。
「でも、その子は…途中でテニスを辞めちゃって。色々あってね」
色々、という言葉に、彼女は多くの感情を詰め込んでいるように聞こえた。僕が何か言葉をかけようとする前に、彼女は「ううん、何でもない。昔の話」と、無理に笑顔を作って話を打ち切った。その笑顔は、どこか痛々しく、僕の胸を締め付けた。彼女の過去に、何か深い傷があることだけは、僕にも分かった。しかし、それを無理にこじ開けることはできなかった。僕にできるのは、ただ彼女の隣にいて、その傷を少しでも癒すことだけだ。
彼女は、僕の腕にそっと寄りかかってきた。僕は、その華奢な肩を優しく抱き寄せる。窓の外は、もう茜色に染まっていた。彼女の体温が、僕のシャツを通してじんわりと伝わってくる。その温かさに触れていると、彼女が抱える影が、少しだけ和らぐような気がした。
この幸せな時間が、永遠に続けばいい。僕は心の底からそう願った。しかし、彼女が僕の胸の中で、刹那的な幸福を噛みしめるように、静かに息を吐いていたことの意味を、僕はまだ理解していなかった。彼女の瞳に映る夕日が、まるで燃え尽きる前の最後の輝きのように見えたことを、僕は後になって、思い出すことになる。
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