第2話「透明になる日」
## プロローグ:世界の変化
2025年10月13日、月曜日。
世界は——いつも通りだった。
電車は動き、人々は働き、太陽は昇った。
だが——何かが、おかしかった。
「ねえ、おかしくない?」
カフェで、若い女性が友人に聞く。
「何が?」
「私の推しが……消えた」
「は?」
「SNSから、全部。写真も、動画も、ツイートも。全部——消えた」
友人が笑う。
「垢消しじゃないの?」
女性が首を振る。
「違う。存在そのものが——ない」
同じ頃。別の場所で——
「見える? 私」
妻が、夫に聞く。
夫が答える。
「何言ってるんだ?」
「見えるか、聞いてるの」
夫が困惑する。
「見えるよ。変なこと聞くな」
だが——夫の目は、妻を通り抜けていた。
病院の待合室。老人が、受付に聞く。
「私の名前は?」
受付が画面を見る。
「……記録がありません」
「何言ってる。私は毎週来てるだろう」
受付が首を傾げる。
「すみません、初診ですか?」
老人が叫ぶ。
「ふざけるな! 私は——」
言葉が、止まる。自分の名前が、思い出せない。
その夜。ニュース速報。
「原因不明の集団記憶障害が多発。政府は調査を開始」
だが——翌日、そのニュースは——誰も覚えていなかった。
---
## 第一章:普通の朝
ユキは、目を覚ます。
いつもの部屋。いつもの天井。スマホのアラームを止める。月曜日、朝7時。
「今日も、仕事か」
ユキは起き上がる。二十八歳、会社員、独身。特別なことは、何もない人生。
顔を洗う。歯を磨く。コーヒーを淹れる。いつも通りの朝。
テレビをつける。ニュース。
「……原因不明の現象が続いています」
アナウンサーが、何かを読み上げている。だが——ユキは聞いていない。
スマホを見ながら、パンを食べる。準備を終え、家を出る。
駅へ向かう道。いつもの景色。いつもの人々。
だが——ふと、違和感。
いつもすれ違う、犬を散歩させる老人——いない。
いつも立っている、交差点の警備員——いない。
「休みかな」
ユキは、気にしない。
電車に乗る。いつもの車両。いつもの席。
隣に、サラリーマンが座る。彼は——新聞を読んでいる。
だが。新聞の文字が、見えない。白紙のように見える。
ユキは、目を細める。
「疲れてるのかな」
会社に着く。
「おはようございます」
ユキが挨拶する。だが——誰も、返事をしない。
同僚たちは、いつも通り仕事をしている。だが——みんな、どこか——ぼんやりしている。
上司が、ユキに近づく。
「おはよう、えっと……」
上司が、言葉に詰まる。
「……君」
名前を、忘れられている。
ユキは——笑う。
「ユキです」
上司が頷く。
「ああ、そうそう。ユキ」
だが——数秒後、また忘れている。
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## 第二章:失われていくもの
昼休み。ユキは、同僚のアヤと食堂で会う。
「ねえ、ユキ」
アヤが、深刻な顔で言う。
「私、おかしいの」
「どうした?」
アヤが——泣きそうな顔で。
「私の推しが……いなくなった」
ユキは——困惑する。
「推し? アイドルの?」
アヤが頷く。
「そう。でも——誰も覚えてない」
「は?」
「ファンサイトも、SNSも、全部——消えた。まるで、最初からいなかったみたいに」
ユキは——言葉に詰まる。
「それは……垢消しとかじゃなくて?」
アヤが首を振る。
「違う。存在そのものが——消えた」
アヤが続ける。
「私、昨日まで——毎日推しのこと考えてた。でも、今朝起きたら——」
「何?」
「顔が、思い出せないの」
ユキは——アヤの目を見る。その目は——虚ろだった。
「でも、私——まだ、覚えてる。推しがいたこと」
アヤが言う。
「ただ……どんな人だったか、分からない」
ユキは——何も言えない。
その時。別の同僚、ケンジが通りかかる。
「おう、二人とも」
ケンジが挨拶する。だが——ユキは、気づく。
ケンジの顔が——ぼやけている。輪郭が、はっきりしない。
「ケンジ……大丈夫?」
ユキが聞く。
ケンジが笑う。
「大丈夫だけど?」
だが——その笑顔は——誰の笑顔でもないような、曖昧な笑顔。
ユキは——震える。
「何が、起きてるの?」
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## 第三章:消えゆく人々
夕方。ユキは、帰り道で——母に電話する。
「もしもし、お母さん?」
『ああ、もしもし』
母の声。
「元気?」
『元気よ。あなたは?』
「うん、元気。ところで——」
ユキは、聞く。
「私の名前、覚えてる?」
沈黙。
『……え?』
「私の名前」
母が——笑う。
『何言ってるの。もちろん、覚えてるわよ』
「言ってみて」
また、沈黙。
『……あなたは、私の娘でしょう』
「名前は?」
『名前は……』
言えない。
ユキは——電話を切る。手が、震える。
家に帰る。部屋に入る。鏡を見る。
自分の顔が、そこにある。だが——どこか、違和感。
「これ、私?」
ユキは——自分の顔を、じっと見る。
目、鼻、口——全部ある。でも——誰の顔か、分からない。
ユキは——スマホを開く。自分の写真を探す。
たくさんある。だが——どの写真も——誰だか、分からない。
「これ、私だよね?」
ユキは——自問する。答えが、出ない。
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## 第四章:失ったものを数える
翌日。ユキは——街を歩く。観察するために。
交差点で——若い男が、立ち尽くしている。
「どうしたんですか?」
ユキが声をかける。
男が——振り向く。
「俺……どこに行くんだっけ?」
「え?」
「家が……どこか、分からない」
男の目は——何も映していなかった。
公園で——子供が、母親に聞いている。
「ママ、私の名前は?」
母親が——困惑する。
「あなたの名前? それは……」
言えない。子供が泣き出す。
「私、誰なの?」
病院の前で——老人が、座り込んでいる。
「先生……私、何しに来たんだっけ?」
医者が答える。
「検査です」
「何の?」
「……忘れました」
ユキは——気づく。みんな、何かを失っている。
記憶、名前、目的、感情——
そして——最も恐ろしいことに。失ったことに、気づいていない人もいる。
カフェで。女性が、一人で笑っている。
「今日も、いい天気」
窓の外は——大雨。だが、彼女は——気づいていない。
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## 第五章:ユキの発見
ユキは——図書館に行く。何か、手がかりを探すために。
新聞の過去記事を調べる。
「原因不明の現象」「集団記憶障害」「失踪事件多発」
記事は、たくさんある。だが——どれも、途中で終わっている。
まるで——書いている途中で、記者が忘れたかのように。
ユキは——ある本を見つける。タイトル:『存在の消失——哲学的考察』
ページをめくる。
「人は、何をもって"存在"するのか」
「記憶か。名前か。他者の認識か」
「それとも——自己の認識か」
ユキは——読み進める。
「もし、自分が失ったことに気づかなければ——」
「それは、本当に失ったと言えるのか」
ユキは——ページを閉じる。そして——気づく。
自分は、何を失ったのか。
記憶——ある。名前——ある。顔——ある。感情——ある。
じゃあ、何を?
ユキは——考える。考え続ける。
そして——答えが、出る。
「私が失ったのは——」
「失ったことに、気づく能力」
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## 第六章:透明の世界
ユキは——街に戻る。もう一度、観察する。
交差点の男——まだ、立っている。
「どうしたんですか?」
ユキが聞く。
男が——答える。
「いや、別に。ただ、立ってるだけ」
「家に帰らないんですか?」
男が笑う。
「家? 俺、家持ってたっけ?」
「……」
「まあ、いいや。別に困ってないし」
公園の子供——もう、泣いていない。
母親と、笑っている。
「ママ、楽しいね」
「そうね」
だが——二人の顔は——誰の顔でもないように、ぼやけている。
ユキは——理解する。みんな、失ったことを——忘れている。
いや——失ったことに、気づいていない。
だから——苦しんでいない。
ユキは——自分の手を見る。まだ、ある。顔を触る。まだ、ある。
でも——いつまで?
ユキは——鏡の前に立つ。街角のショーウィンドウ。
そこに映る、自分。まだ、見える。でも——どこか、薄い。
透明になりかけている——そんな気がする。
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## 第七章:気づかない終わり
一週間後。
ユキは——いつも通り、生きている。仕事に行く。同僚と話す。家に帰る。
だが——変化がある。
鏡を見ても——自分が誰か、分からなくなった。
母に電話しても——母が誰か、分からなくなった。
友人と会っても——友人が誰か、分からなくなった。
でも——気にならない。
ユキは、笑う。
「別に、困ってないし」
街を歩く。人々は、いつも通り。
いや——みんな、透明になりかけている。
輪郭が、ぼやけている。顔が、曖昧になっている。存在が——薄れている。
でも——誰も、気づいていない。
ユキも——気づいていない。
ある日。ユキは——鏡の前に立つ。
何も、映っていない。完全に、透明。
だが——ユキは、気づかない。
「今日も、いい天気だな」
ユキは——笑う。
窓の外は——何も見えない。真っ白。いや——透明。
世界が——透明になった。いや——ユキが、透明になった。
いや——みんなが、透明になった。
そして——誰も、気づかない。
「失った」ことに。「存在した」ことに。「生きていた」ことに。
ユキは——今日も、歩く。透明な街を。透明な人々の中を。透明な自分のまま。
気づかないまま——消えていく。
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## エピローグ
三ヶ月後。
街は——静かだった。人々は歩いている。でも——誰も、誰も見ていない。
カフェで。二人の女性が座っている。
「今日、何飲んだ?」
「……何飲んだっけ?」
「私も、忘れた」
二人は——笑う。
会社で。会議が行われている。
「今日の議題は?」
「……何でしたっけ?」
「誰か、覚えてます?」
誰も、答えない。でも——誰も、困っていない。
公園で。子供たちが遊んでいる。
「鬼ごっこしよう!」
「誰が鬼?」
「……忘れた」
「じゃあ、また決めよう」
「誰が決める?」
「……忘れた」
笑い声が、響く。
夜。誰かの部屋。
ベッドに、人が横たわっている——ように見える。
でも、誰もいない。いや——いる。
ただ——見えないだけ。自分でも、分からないだけ。
その人は——笑顔だった。たぶん。
【終】
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