2.遥

 コーヒーの香る波が来る。同時に、ぞわりと鳥肌が立つ。侵食。重い気配があった。やさしい夢を見ている横で、けたたましく鳴るアラームに似る。瞼を無理やりこじ開けるような侵食、冒涜の気配である。りょうは、それをよく知っていた。自分も持っているもの、顕影かげだ。

 顕影隊けんえいたいの隊士でなくとも、だれでも持っているもので、気づいて使うかそうではないか、ただそれだけが違うもの。だが、隊士であったとしても、任務外ではほぼ意識しない。これほど強い顕影かげの気配は、今まで感じたことがなかった。

 凌は戸口に立ち尽くしていた。細長く狭い給湯室の、備えつけキッチンの向かい側。壁際に置かれたベンチソファに、寝転んでいる人がいる。横向きで膝を抱いて寝ている。ぶかぶかの白い襟なしシャツに、グレーのワイドパンツという格好。裸足。丸まったハイソックスと、新品らしき白スニーカーがダンスみたいに床に散乱。色素の薄いやわそうな髪が、色白──というより蒼白に見える、横顔を覆い隠している。

 小柄で、ずいぶん細く見え、これは子どもではないかと思った。片手で持ちあげられそうだ。そんな見た目とは真逆の気配が、給湯室じゅう満たしているが。強すぎるし、寝ているし熟睡、だがそれよりも、やはりどう見ても子どもだ。凌はくるりときびすを返し、いったん給湯室を出た。

若桜わかさ隊長。どういうことでしょうか」

 詰め寄りながら訊ねるが、若桜は首を傾げるだけだ。

「どういうことって、そういうことだよ」

「本当に意味がわかりません。あの人は子どもではないのですか」

 ふうん、と若桜は微笑んだ。鼻歌めいたのどかな返事だ。

「そっちを先に心配するの。でもだいじょうぶ、十八歳だよ」

「じゅう────」

 凌は絶句した。とてもそんなふうには見えない。凌が唖然とする前で、若桜は指を迷わせている。つぎ食べるグミを吟味している。

「びっくりした? でもあなただって、この仕事始めたの十八のときでしょ。すごくちびっこみたいだったし、今も、あんなことやこんなこともするけどまだ三年目なんだしね。それと、そう、あの子の顕影かげね。かなりすごいの、わかったでしょう。今のあなたと相性がいい」

「そうだよね。ぴったりだよね」

 朗らかな高音が放り込まれ、凌はびくりと振り向いた。いま閉めたドアが開いており、寝ていたはずの人物が、ひょこりと顔を覗かせている。目が合う。ぱちんとまばたきをする。笑う。やはり子どものようだが、ドアの陰から出てきてみれば、さほど幼く見えなくなった。小柄で服が大きいだけで、十八歳のようにも見える。そして、気配が消えている。

「やっと起きたの。起きてたのに」

 若桜の声音は変わらなかった。

「コーヒー飲んですぐ寝ちゃったから、なにか入れてしまったかと思ったよ」

「んー、だいじょうぶだよ隊長さん。僕、図太いの。見かけによらず。いつでもどこでも爆睡可能派」

 深雲みくもハルカなる人物は、のんきそうに言って大あくびする。凌は、なにか言いかけたのだが、その大口を見て忘れてしまった。吸われてしまったようだった。

「それで……、きみがそうなのかな」

 布の余った袖を揺らして、深雲ハルカが近づいてくる。

「僕のバディさんになるヒト」

 前髪のかかる青白い顔は、小づくりでひどく繊細だった。ビスクドールのようである。綺麗なものだと眺めているうち、ずいぶんと距離を詰められていた。初対面の距離ではなかった。胸を突き合わせるほど近く、真下からぐいと、見あげられる。

「へえ。微動だにしませんね」

 深雲ハルカは呟いた。興味深そうにまばたきしている。川底で光る小石みたいだ。至近距離から瞳を見ていた。

 なかなかやるやつだよ、とかなんとか、うしろで若桜が言っている。そうだねと深雲ハルカは応じ、煙に巻くように身を引いた。にへらと、脱力しながら笑う。

「僕、ハルカ。遥か彼方のハルカね。それで、そちらお名前は?」

 おどけた調子で問うてくる。凌も一歩引いてからこたえた。

高坂こうさかりょうと申します。このたびは誠に────」

「待って、ちょっと。ちょっと、すごくお堅いなあ。マジメくんっていうのかなあ」

「それに近いかもしれないね」

「やっぱり?」

 深雲みくもはるかと、若桜がふたりで、なにやら勝手なやり取りをする。凌が眉を顰めていると、雲に似た袖がふわりと揺れた。そして、額がひんやりとした。深雲遥の指先だった。額にそっと触れている。

 熱を測られるときのよう。懐かしく、一瞬息が詰まった。深雲遥はゆったりと言う。

「僕、波花なみはな支部の補給班所属。こうやって、呼ばれたところに行って、顕影かげをちょっとずつ分けるのね。僕の顕影かげって腐るほどあるし、ずっとこんこんと湧きだしてるんで心配しなくていいからねー」

 減れば少しずつ補充されるが、こんこんと湧きだすものではない。でも、さきほどの気配を思えば納得できないこともなかった。額に当てられた指の先から、ゆるやかに流れ込んでくる。じわじわと広がっていき、内臓を炙られるような気がした。さきほどよりも静かな気配だ。

「だけど普通だったらさ、顕影かげが足りなくなるっていうのも、まあたまにはあることでしょ。これ続けてたら戻るけど、しばらく時間かかっちゃうからね。こうやって流し込んでても、すぐには戻らないんだよね、一気に入れるのは危ないし」

「そうですか。ありがとうございます」

「ん。あと、言っとくことは……、そう、僕が顕術けんじゅつ使うと、自分だけじゃなくほかの人にもおにさんを知覚させられるんだ。顕影かげが腐るほど湧くからね」

 凌は思わず目をみひらいた。普通ならば、顕術の効果は使った本人にしか及ばない。他人におにを知覚させることは、できないのが通常だ。

「ね。結構すごいでしょ」

 深雲遥は呟くと、唇の端をつりあげた。

「きみの顕影かげが戻るまで、僕がおにさん見せてあげるよ。僕、戦わないけどね」

 こうして顕影かげを分け与えられ、回復するのを待つあいだ、深雲遥の顕術によって見えないはずのおにを見られる。補給が専門の隊士が来るのに、共同任務と若桜は言った。それはこういうことだったらしい。充分すぎるほどの援護だ。戦うことなどしなくていい。

「ありがとうございます────」

 自分でも少し驚くくらいの、ひどく切実な声が出た。深雲遥も面食らったらしく、きょとんと目を丸くしている。

「まあ、それはいいんだけど……。それより、ほんとに知らないみたい?」

「なにを……」

「ほんと、知らないんだねー。僕って結構有名なのに」

 若干にやけた顔をしながら、よくわからないことを言っている。背後から若桜が口を挟んだ。

「残念だけど、責めないであげて。おに退治にしか興味がないんだ」

「そっかぁ。……やっぱり大変なんだね……。僕も隊士になったばっかりだし、知られてないのも当然だよね……」

 ふたりとも、どこか憐れむ調子だ。凌は深雲遥から離れた。彼は、前髪のあいだから、いたずらっぽい目を覗かせて言う。

「じゃあさ、これも知らないんだよね……。だったら寄られたり触られたりしてさ、ほんとはちょっと、どきどきしてた?」

 ぽてんと、首を傾げてのたまう。

「残念。僕、男だよ」

 凌は、思わず眉根を寄せた。

 この人物はなにを言うのか。

「それはわかります。見れば。声も」

 確かに華奢で声も高めだが、女性だとは思わなかった。子どもだろうとは思ったが。そこまで言いそうになったとき、うしろでがたりと音がした。おそらく、若桜が机に突っ伏し、声を立てずに笑っているのだ。凌は不毛な疲労を覚えた。

「他人があまり近寄ってくると、驚いて動悸がすることはあるでしょうが……」

「はいわかった。もういいよマジメくん」

 ため息で凌をさえぎると、あのね、と指を突きつけてくる。

おに退治にしか興味ないヒト、顕影かげが全然足りてません。だからねー、これ一か月はかかるね。そのあいだは僕と一緒だな残念」

 コドモと一緒でかわいそう、とわざとらしく口をとがらせている。凌は内心ぎょっとした。寝ていたのではなかったか。若桜が楽しげにフォローを入れる。

「遥くんは頼りになるよ。すぐ寝る癖は抜けないけどね」

「そーですよ。ほんと痛い目見ますよ」

 いまいち噛み合わない返答をしながら、若桜のほうへ駆け寄っていく。そういえばどこぞの補給班に、顕影かげをやたら持つ隊士がいると、聞いたことがあったかもしれない。呼ばれたところへ飛んでいき、顕影かげを分け与えるというのは大変な務めだろうと思う。それに、なんと言おうか、珍種だ。今までの人生の中で、出会ったことのない種類の人物。

 しかしこの人物と組むことには、仕事上メリットしかないとわかった。そしてメリットを与えることが、この人物の今の仕事だ。それが、一番重要だろう。珍種だとか申し訳ないとか、考える必要はない。おにの討伐ができるならよい。

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