隠《 》
相宮祐紀
1.凌
レンガ調の赤茶の舗道に、スーツケースがごろごろと鳴る。街灯は古いガス灯風で、どこか楚々として佇んでいる。きょろきょろしながら歩いていれば、オーバーサイズのスウェットシャツが風にひんやりふくらんだ。肌寒いし、荷物は重い。知らない場所のにおいがしている。でも雰囲気はいいと思った。
今度呼ばれたこの町は、都会だけれどぎらぎらしなくて、落ち着いていてどこか小粋だ。ここ一帯を管轄している小隊の事務所はたぶん、このあたりにあると思う。地図アプリは申し訳程度にひらいて、ほとんど勘で進んできたけど、なんとなくたどり着きそうだ。今回はこの町で、なんとかというヒトのバディになる。そう、確か。
「
それだ。二十一歳男。筋金入りの
** **
それは、どこにも見えないものだ。目の前にあったとしても見えない。風も、地面も少しも鳴らさず、ドブとかゴミの臭いもしない。柔軟剤の香りもしない。手を伸ばしても触っても、熱いも冷たいもなにもない。口を開けても舌で舐めても、苦くも甘くもなんともない。
それは、なにも感じさせない。でも、確かにそこにいる。
確かに、そこに存在している。見えていないだけ。聞こえていないだけ。においも味も感触も、気づいていないだけだった。
それは、知覚できないそれは────
青緑っぽいヘドロの山が、崩れたみたいな形をしていた。前後左右にぶよぶよ揺れて、カエルがひしゃげる音を醸した。ドブに高級な柔軟剤をぶちまけたという臭いを放った。味や触った感じなんかは、舐めてないからわからない。
それは、あらわれて見つめていたのだ。呼吸を聞いて、においを嗅いで、そして、舌を吐きだした。刺した。父の背中を刺した。舌はあっけなく貫通し、父はその場にくずおれた。母も刺された。顔面だった。逃げてと叫んだすぐあとだった。そばの弟と妹が、まとめて貫き通された。すぐにぼとりと落とされた。みんな、床に身体を投げ出し、黙って動きもしなかった。
ゆらゆらぼやける頭の中で、ああ、透明なんだと思った。人間の血は透明だった。だって、あんなに刺されていたのに。リビングはもとの色のまま。家族が倒れたカーペットさえ、やさしい白のままだったから。
この、やわらかいカーペットの上。もうすぐ自分も倒れると思った。見えない澄んだ血をこぼし、倒れて一緒に寝ようと思った。さあ、つぎは、こっちに来いよ。
でも来なかった。来なかった。
ヘドロの山は消え去ったから。幻みたいに消えたから。そして、家族も消え去った。家族は、暴れ狂って消えた。
カーペットなんかめちゃくちゃにして、のたうち回って泣いて叫んだ。弟や妹だけではなくて、父も、母も、そうだった。
なにを叫んでいたのかは、混沌としてわからなかった。わかっていたかもしれないけれど、今では、もう、思い出せない。
「思い出せないの。本当に?」
ベージュの髪を耳にかけつつ。
教壇みたいな机の向こうに背筋を伸ばしてきちんと座り、タブレット端末を操作している。机上には数種のグミの袋が、開けっ放しで散らばっている。点滅しそうな原色ばかりだ。そのうちひとつのパッケージからは、見知らぬ熊型キャラクターなどが眠そうな笑みを送ってきていた。若桜の向かいに直立した
「それ、思い出せないんじゃなくて、見えてなかったんじゃないのかな。あなたの書いた報告書には、形状やサイズは記録されてるけど色への言及が一切ない。最初から書かない人なんじゃなくて、一か月くらい前から書かなくなってる。別に書かなくていいことだけど、それも証拠になると思うな」
若桜はワインレッドの指で、飛び出していたグミをつまんだ。黄色いそれを口へほうった。ね、と下から覗き込まれる。長い睫毛が数度またたく。
染みだらけの低い天井のもと、いっそ氷みたいな肌とざっくりまとめたベージュの巻き毛、蛍光ピンクの緩いパーカーがやけに冴え冴えして見える。つやめくネイルのワインレッドとグミの原色も加わって、色に叱られているような気がする。
「
若桜はにこりと笑みを浮かべた。
「
「はい。見えておりません」
凌はようやく白状した。最近、
凌も一か月ほど前までは、顕術を使うと
「もう、一か月にはなるんでしょう。そのままでよくやってたね。わたしがなにも言わなかったら、見えないままで続けてた?」
「おそらく、おっしゃる通りかと」
「だろうね。すぐ戻ると思ってたのかな。戻ることには戻るんだけど、長くかかってるみたいだし、やっぱり報告は必要だよね。わたしが分けてもよかったんだし」
「はい」
「あなたなりに、気を遣ったんだろうけど。それとも、ほかの感覚があるから、じゅうぶんやれると思ってたのかな。実際やれてたみたいだけどね。だって、ずっといつも通りに、あんなことやこんなことまでやってた。彼ら、はじめてがあなただなんてね。ちょっと同情してしまうかも」
「真顔でおかしな言い方をなさるのはやめてくださいませんか。若桜隊長」
「確かに、ちょっと茶化してしまった。そうするべき場面ではないね。
死ぬよと若桜はかろやかに添える。
「軽率に死なれると困るんだ。万年人員不足なんだし」
凌はうしろを振り向いた。街の片隅の小さなビルの、最上階の部屋である。さほど広いところではなく、古びてがらんと殺風景だ。くたびれたソファと長い机に、ジャケットや半纏が引っかけてある。全員、出払っているのだ。
凌は若桜に向き直った。一歩あとずさり、頭をさげる。
「軽率な判断でした。誠に申し訳ございません」
「もういいよ。わたしも実は、もう少し前から違和感を持ってた。あなたがやれるから頼ってたんだね」
若桜はかすかに柳眉を顰め、さっぱりとした口調で続ける。
「でも正直、あなたはやれるよね。やるなと言ってもやるひとだよね。だから仕事は任せるよ。すでに一件見つけてるんだ」
その言葉に、凌は詰め寄った。机に革靴の先があたった。
「どのような件でしょうか」
若桜は動じる様子もなく、グミをもうひとつ優雅につまむ。真紫のやつである。星形のそれを眺めつつ、ほのかに笑みを浮かべて言った。
「うん。単独ではないよ。しばらく単独任務はさせない。
「──え」
「
凌は、しばし絶句した。ここから電車で約二十分の場所に建物がある波花支部は、扇港顕影隊など複数の隊を統括している。首都本部よりは近しいが、親しくつき合うところではない。なにか
「あれ、珍しい光景かもね。高坂くんがびっくりしてる」
若桜が微笑ましげに呟いたので、凌は慌てて姿勢を正した。思いきり揶揄われたほうがましだ。硬直する凌を面白そうに見ながら、若桜は紫の星を齧った。
「じゃあ、共同任務のお相手、ちょっと呼んでみるね。今から」
「はい。よろしくお願いいたします」
凌は素知らぬ顔でこたえた。若桜はにこりとうなずくと、よく通る声で呼ばわった。
「お待たせしたね、出ておいで。あなたのバディはここにいるよ」
すでに近くにいたのかと凌は驚いてしまったが、どこからも返事はかえらなかった。若桜が静かに首を振る。
「だめだね。やっぱり寝てるみたいだ。ちょっと起こしてきてくれる?」
「え……」
「給湯室で寝てるから。一時的なことだからって、仮眠室に住み込むことになっててね。昨日到着して一泊したの。今朝、給湯室でコーヒー淹れて一緒に飲んでたんだけど、そのままそこで寝ちゃったんだ。もう起きてるかと思ったんだけど」
「そんな、それは……」
凌は呻いた。仮眠室に泊まり込みでバディになってもらうというのは、迷惑をかけすぎだという気がする。どんな人が来てくれたのだろうか、カフェイン摂取直後に寝る人────なにか頭が混乱してくる。
「はい、早く行ってきて。名前呼んで、起こしてあげてよ。名前、ハルカね。ミクモハルカ」
「
古くから
「深雲って呼ばれるのは、ちょっぴりいやみたいなんだけどね」
とても状況が飲み込みにくいが、ともかく給湯室へ向かう。向かうと言ってもすぐそこだ。ソファとテーブルの横を過ぎ、古風な花柄の壁に張りついた、丸いドアノブに手をかける。思い直して、ノックした。
「失礼します────」
ハルカさん。深雲が気に入らないらしいと聞いても、勝手にそちらのほうで呼ぶのは、なかなかハードルが高いと思った。口ごもり、耳を澄ませるものの、中からの反応は皆無である。凌は若桜を振り向いた。ベージュの髪を揺らしながら、ちょいちょいとドアを示している。開けてみよということらしい。
尻込み、している場合ではない。任務があると言われたのだ。即刻聞いて出かけたいのだが、単独では出してもらえない。よって、深雲ハルカなる人物に、速やかに起床してもらわねばならない。凌は開けますと声をかけ、給湯室のドアをひらいた。
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