爪切り屋の訪問

奈良まさや

第1話

■第一章 豪邸の門をくぐる


里崎勇(さとざき・いさむ)、二十八歳。

爪切りの訪問販売を始めて三か月。ノルマは月十セット、しかし、三か月で三セット。成績表の赤印は、日に日に濃くなる。


こめかみが、ときどき針で刺されたように痛む。バリバリと頭を掻く。寝不足のせいだ、と自分に言い聞かせる。だが、掻いた指先に血が滲むことも、もう珍しくなかった。


午前十時。営業所の狭いデスクで、里崎は顧客リストを眺めていた。


「里崎、今日はどこを回る?」


声をかけてきたのは、葛城真司(かつらぎ・しんじ)。三十五歳、販売部の責任者だ。柔らかい物腰だが、観察眼は鋭い。


「篠宮邸です。白い洋館の。同僚に勧められまして」


葛城の手が、わずかに止まった。


「……篠宮、か」


「ご存じですか?」


「ああ。篠宮クリニックの院長だ。俺も昔、頭痛で診てもらったことがある」


葛城の表情に、一瞬だけ影が落ちる。


「気をつけろよ、里崎。あの先生は……少し、独特だ」


「独特?」


「まあ、会えばわかる。何かあったら連絡してくれ。近くにいるから」


葛城はそう言って、自分のスマートフォンを確認した。位置情報の共有アプリが開いている。


「一応、居場所を共有しておこう。新人の面倒を見るのも、俺の仕事だからな」


里崎は少し戸惑いながらも、アプリを起動した。


---


午前十一時。白い塀に囲まれた洋館の表札には金文字で《篠宮》。

外車、噴水、手入れの行き届いた芝。


里崎は鞄の底に眠る薬袋を思い出した。《篠宮クリニック 頭痛時 一日三回まで》。この屋敷の主が、あのクリニックの院長なのだろうか。


定期的に里崎は、篠宮クリニックに頭痛と頭痛時の錯乱について通っていた。

前回、「爪切りを売っているんだ、面白いね」と名刺をもらったことがある。


インターフォンを押した。


「……はい」

ややしゃがれた男の声。


「爪切りの訪問販売でして、新製品の——」


「爪切り? ……あ、里崎さん? いいね。入って見せてくれ」


すんなり開いた扉。その瞬間から、歯車は静かに噛み合い始めていた。


---


■第二章 静かな応接間


磨かれた床、厚い絨毯、湿り気を帯びた空気。

天井のシャンデリアの下、五十代半ばの男が立っていた。白衣ではなく、黒いカーディガンを羽織っている。医師というより、喪に服す者の装いだった。


「私は篠宮という。妻がね、病気がちで……手入れができない。見本を見せてくれないか」


「もちろんです。こちらが一番人気の『匠の和み』セットです」


漆塗りの箱をテーブルに置くと、男は爪切りではなく、里崎の胸の名札を見つめた。


「……"爪の健康は心の健康"。変わらんね」


「え?」


「いや、何でもない」


篠宮は視線を爪切りに戻した。


「妻はもう、自分で爪を切ることも、ままならない」


悲しみは購買に変わる——それが、里崎の学んだ法則だった。

営業スマイルの裏で、頭の奥がきしむ。こめかみの痛みが、また走った。


里崎は、無意識に写真立てを見た。白いドレスの女性と、その隣に立つ男。

どこかで見た顔だ、と思った瞬間、脳裏に白い廊下が閃いた。


だが、すぐに霞む。


篠宮が立ち上がる。


「ちょっと、見てくれないか。妻の部屋だ」


営業機会は逃せない。だが胸の奥のざらつきが、静かに広がる。

——この家の匂いを、知っている。そんな気がした。


---


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