第5話
アシュフィールド領を出発してから、十日が過ぎた。
王都までの道のりは、俺が想像していたよりも遥かに単調だった。乗合馬車に揺られ、街道沿いの景色を眺め、日が暮れれば宿場町で一泊する。その繰り返しだ。
だが、この退屈な移動時間も、俺にとってはエラーラを教育するための貴重な機会だった。
「エラーラ。今の御者が前の客と話していた訛り、どこの地方のものか分かるか?」
「…えっと、南方の鉱山地帯で使われるイントネーションに似ていました。たぶん、
「正解だ。では、昨日の宿で出たパンが妙に硬かったのはなぜだと思う?」
「はい。この辺りは雨が少なく、パンを焼くための小麦の質が良くないからだと考えられます。代わりに、乾燥に強い
俺は彼女に、魔法以外の、世界を知るための観察眼を叩き込んでいた。
人の言葉の癖、土地の植生、物流の流れ、建物の様式。それらすべてが、その土地の文化や経済状況を示す情報となる。裏から世界を支配するには、魔力だけでなく、こうした生きた知識が不可欠なのだ。
エラーラは、ここでも俺の期待を上回る吸収力を見せた。彼女の素直な心は、先入観というフィルターなしに、ありのままの世界を写し取る。時折、俺が教えた以上の洞察を見せることさえあった。
そして、旅の最終日。馬車の窓から、ついに目的の地が見えてきた。
「…大きい」
エラーラの口から、感嘆のため息が漏れる。
地平線の先に、巨大な城壁がどこまでも続いていた。その高さは、アシュフィールド男爵の屋敷の数倍はあろう。城壁の内側には、天を突くように白い塔が何本もそびえ立ち、陽光を反射してきらきらと輝いている。
あれが、この国の心臓部、王都セントラリア。
馬車が巨大な正門をくぐり抜けた瞬間、俺たちは喧騒の渦に飲み込まれた。
行き交う人々の数、馬車の交通量、響き渡る呼び込みの声。何もかもが、俺たちの故郷とは桁違いだった。空気そのものが、人々の熱気と欲望で満ちている。
「…マスター。なんだか、目が回りそうです」
「無理もない。ここは、あらゆるものが集まり、そしてあらゆるものが喰われる場所だ。気を抜けば、骨までしゃぶり尽くされるぞ」
俺は窓の外を眺めながら、静かに告げた。
この王都は、巨大な森だ。強者だけが生き残り、弱者は養分となる。そして、魔法という理が、その食物連鎖の頂点に君臨している。
俺の
ここは、俺にとって最高の研究室であり、同時に最高の狩場でもあった。
俺たちが当面の住居としてあてがわれたのは、父が手配してくれた、貴族街の片隅にある小さなタウンハウスだった。アシュフィールド家が王都での定宿として契約している物件の一つらしい。贅沢ではないが、二人で暮らすには十分な広さだ。
荷物を運び込み、一息ついたところで、俺はエラーラに最初の命令を下した。
「エラーラ。まずは、この家とその周辺に、探知阻害と防衛の結界を張れ。俺が教えた術式を使え。お前の魔力なら、宮廷魔導師の介入でも感知されまい」
「は、はい! ただいま!」
エラーラが早速、家の四隅に術式を配置し始める。彼女がこの一年で身につけた隠蔽魔法は、すでに並の魔法使いの比ではなかった。彼女が結界を完成させれば、この家は王都の喧騒から切り離された、俺だけの
その間に、俺は今後の計画を練り直していた。
王都に来た目的は、大きく分けて三つ。
一つ、エラーラの育成環境の確保。より高度な魔法を教えるには、相応の設備と教材が必要だ。
二つ、情報収集。この国の権力構造、貴族たちの相関関係、そして魔法技術の最先端を知る必要がある。
三つ目、俺の計画の駒となる、第二、第三の才能の発掘だ。エラーラは魔法戦闘における切り札だが、それだけでは足りない。政治、経済、諜報……あらゆる分野に、俺の手足となる人間が必要だった。
「マスター。結界の設置、完了しました」
作業を終えたエラーラが、額の汗を拭いながら報告に来る。
「うむ。ご苦労だった。魔力の流れも完璧だ。これなら安心だな」
俺は彼女の頭を撫でて労った。彼女は、それが嬉しいのか、猫のように目を細める。
「さて、エラーラ。お前に、王都での最初の仕事を与える」
「仕事、ですか?」
「ああ。表向き、俺たちは王立学院の図書館に通うためにここへ来たことになっている。だから、お前には明日から、実際に図書館へ通ってもらう」
俺は机の上に、一枚の羊皮紙を広げた。そこには、俺が前世の記憶から書き出した、古代魔法や失われた技術に関する文献のリストがびっしりと並んでいる。
「このリストにある本を探し出し、全て書き写してこい」
「か、書き写す……? 全部、ですか?」
エラーラの目が、信じられないというように見開かれる。リストにある本の数は、百冊以上にのぼった。
「もちろん、魔法による複写は禁止だ。お前自身の手で、一文字残さず書き写すんだ。これは、お前の読解力と集中力を鍛えるための訓練でもある」
これは、訓練という側面もある。だが、本当の目的は別だ。王立学院の図書館は、この国で最も魔法関連の知識が集まる場所だ。そこに出入りする人間は、魔法に強い関心を持つ者たち、つまり才能の原石であり、同時に俺の計画の障害となり得る有力者も集まる場所でもある。
エラーラを図書館に通わせることで、俺は二つの効果を狙っていた。
一つは、彼女の存在を然るべき者たちに認識させること。
毎日膨大な量の魔導書を筆写し続ける、従者の少女。その異様な光景は、いずれ誰かの目に留まるはずだ。俺は、その「誰か」を待っている。
そしてもう一つは、彼女自身の目で、この王都の魔法使いたちのレベルを、その現実を見させること。
井の中の蛙だった彼女が、外の世界の広さを知る。それは、彼女の成長にとって不可欠な過程だった。
「いいか、エラーラ。図書館では、決して目立つな。だが、誰かに何かを尋ねられたら、正直に答えろ。『主人の命令で、本を写しています』と。分かったな?」
「はい、マスター。仰せのままに」
俺の本当の狙いに気づくことなく、エラーラは純粋な瞳で力強く頷いた。
こうして、俺の王都における最初の布石は打たれた。
静かな聖域と化したタウンハウスで、俺は窓の外に広がる王都の夜景を見つめる。
無数の灯りは、まるで獲物を待つ捕食者の目のようだ。
「喰われる前に、喰ってやる。――この街の全てを」
元大賢者の、静かなゲームが、今、始まった。
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