第3話 ティナのお兄ちゃんはハンガーを知らない。

ルドラの森を出たところで、ティナと同じ髪色の男の子が駆け寄って来た。


「ティナ!! よかった。雨が降る前に会えた」


そばかすの散った愛嬌のある笑顔でそう言ったのは、ティナのお兄ちゃんだ。彼の名前はテッド・バローズ。10歳になったばかりだ。


「ティナは雨具を持たずに森に行ったから、母さんが心配して迎えに行けって」


テッドはそう言いながら、私が背負っていた背負い駕籠を下ろして、雨具を着せ掛けてくれた。


「ありがとう。お兄ちゃん」


一人っ子だったから、お兄ちゃんができたのは嬉しい。テッドを見上げてそう言うと、彼は私に雨具のフードをかぶせながら笑う。


「機嫌、直ったみたいだな。よかった。最近のティナは泣くか怒るか不機嫌のどれかだったから、笑った顔、久しぶりに見た」


「私、もう元気になったよ。心配かけてごめんなさい」


私が謝ると、テッドは嬉しそうにフードを被った私の頭を乱暴に撫でた。そんな風に扱われたことがなくて、少しびっくりしてしまう。


「駕籠、俺が背負ってやるよ」


テッドがそう言って、私の背負い駕籠を代わりに背負ってくれた。私がお礼を言う前に、弾んだ足取りで歩き出す。私より頭一つ身長が高いテッドに追いつくために、小走りで後を追った。


バローズ食堂が見えて来た頃、曇天からぽつぽつと雨が降って来た。


「急ごう、ティナ」


前を歩くテッドが振り返り、私の手を引っ張って走り出す。足がもつれそうになりながら、必死で走ってお兄ちゃんについて行った。


「母さん、やっぱり雨降って来た!!」


バローズ食堂に駆け込むなり、テッドが言う。


「でも、雨降る前にティナに雨具着せられたよ」


「そうかい。ご苦労だったね、テッド。ティナも採集ご苦労さま」


「帰りはお兄ちゃんがずっと駕籠を背負ってくれたの。ね、お兄ちゃん」


「俺は兄ちゃんだからな。ティナより力もあるし」


テッドは照れた顔でそう言いながら背負い駕籠をお母さんに渡し、雨具を脱ぐ。ティナのお母さんはティナと同じ髪色と目の、ふくよかな人だった。三段の雪だるまを上からぎゅっとつぶしたみたいに見える。ティナはお母さんにぎゅっと抱き着くのが好きだった。

私もやってみたいけど、でも雨具を着たままお母さんに抱き着いたら、お母さんの服が濡れちゃう。

雨具を脱いで、乾かそう。ハンガーはどこだろう?


「お母さん、ハンガーどこ?」


テッドから受け取った背負い駕籠を抱えたお母さんに尋ねると、首を傾げられてしまった。


「はんがーってのは、なんだい?」


「え? 服を掛けるやつだよ。三角の形の。針金とか木でできてる」


私はハンガーの説明をした。プラスチックのハンガーもあったけど、ティナの世界にプラスチックは無さそうだよね。


「ティナ。はんがーってのは、木で出来てんのか?」


店の中にいる、大柄で顎髭が長いおじいさんが私に問いかける。ティナの記憶によると、この人はお店の常連客で、木工工房の親方をしていたジグさんだ。

ジグさんは木工工房を息子のシドさんに譲ってからは暇を持て余していて、昼間からバローズ食堂に居座り、お父さんやお母さんと喋ったり、お姉ちゃんやお兄ちゃん、私を構ったりしている。


「そうだよ。服が皺にならないように掛けるの」


私はハンガーのフックを手に持ち、服を掛ける仕草をした。でもジグさんは困った顔で首を傾げる。お兄ちゃんとお母さんは私の話を聞き流し、木製のカウンターの奥に行ってしまった。

どう説明したらいいんだろう。紙とペンが無いと、絵を描くこともできない。

困って周りを見回すと、歪んだ窓ガラスが目に入った。


そうだ。ガラス窓に絵を描こう。


幼稚園生の頃、ガラスに絵を描くのが好きだった。クレヨンで白い壁に落書きをしたらママに怒られて、その時に庇ってくれたパパが、ガラス窓でのお絵かきのやり方を教えてくれた。


「ジグさん。窓ガラスにハンガーの絵を描いてみるね」


私はそう言って、窓際に駆け寄る。ジグさんは手に持っていた空のジョッキをテーブルに置き、私の後に着いて来た。

私は分厚くいびつな窓ガラスに息を吐きかけ、曇ったところに人差し指でハンガーの絵を描こうとした。でも、うまく描けない。日本の平らで透明なガラス窓じゃないと、窓ガラスのお絵かきはうまくいかないと初めて知った。


「ああ、そうか。三角の、服を掛ける道具か」


ハンガーの絵をうまく描けなくて肩を落とす私の頭上から、ジグさんの声が降って来る。もしかして、ハンガーの形、ジグさんに伝わった。

後ろを振り返り、ジグさんを見上げると彼は少し黄ばんだ歯を見せて笑った。


「待ってろ、ティナ。工房に行って、はんがーとやらを作って来るからなっ」


ジグさんはそう言って、食堂を飛び出していく。私はジグさんを見送り、歪んだ窓ガラスに描いた下手なハンガーの絵を手のひらでこすって消した。


「ティナ。まだ雨具を着てるのか。早く脱がないと、風邪引くぞ」


カウンターの奥から戻って来たテッドがそう言いながら、私の雨具のフードを外して雨具を脱がせる。


「ありがとう。お兄ちゃん。お兄ちゃんの雨具はどうしたの? ハンガーあった?」


「俺の雨具はもう台所に干したよ。お前の雨具も干してきてやる」


テッドは私の雨具を持って、またカウンターの奥に行ってしまった。『台所に干す』という言葉を聞いて、ティナの記憶の一場面を思い出す。

そう言えば、ティナの家では店の奥の台所の一角に紐を通して、そこに洗濯をした服を絞って干していた。台所は家族のご飯と食堂の料理を作る場所で、長い時間、かまどの火を絶やさずに煮炊きをするからいつも温かく乾いていて、濡れた洗濯物がよく乾いていたようだ。


洗濯物はいつも外干しをしていたから、台所に干すなんて考えもしなかった。ティナの記憶を持っていても、つい、凛々子の感覚で物を考えてしまう。

考え事をしながらぼうっと立っていると、テッドがカウンター奥から出て来た。


「ティナ。母さんが呼んでるから台所に行って」


「うん。雨具、干してくれてありがとう」


「おうよ」


テッドはにこっと笑って、店内にまばらにいるお客さんのテーブルに駆け寄っていく。接客の仕事をするみたいだ。私もぼんやり考え込んでいる場合じゃない。

私は気を取り直して台所に向かった。


バローズ食堂は家庭科室の半分くらいの大きさで、二つの竈と木製の作業台、お皿やコップ、ジョッキが並べられた食器棚がある。野菜やお肉を入れた箱とお酒が入った樽は地下室になるから、殺風景な印象だ。


右の竈には大鍋でスープが煮込まれていて、左の竈には鉄の平鍋が置かれている。バローズ食堂の昼のメニューは肉定食と茹で青豆、それから岩イモのスープだけだ。岩イモのスープには、葉野菜や屑野菜等が適当に入れているみたい。


肉も青豆もスープも、全部塩味だ。昼ご飯を食べる習慣がある人は少ないから、食堂に来るのはお酒を飲みたいお客さんが多い。

今日は雨が降って来たから、これ以上は昼のお客さんは来なそう。


お父さんは分厚い肉切り包丁を握って、夜の分の肉定食の仕込みをしている。お父さんは背が高く、がっちりとした身体つきで、金髪に青い目をした元冒険者だ。

冒険者というのは、王都の冒険者ギルドというところで冒険者登録をすると就ける職業で、お父さんはいわゆる何でも屋で便利屋だと笑っていた。


お母さんは私の背負い駕籠から取り出した植物を鑑定しているようだ。

鑑定なんて、不思議な能力。まるでゲームみたい。お母さんは豊穣の女神を信仰していて『食品鑑定』というスキルが使える。『食品鑑定』で食べられる草かどうか見極められるんだって。


「お母さん、呼んだ?」


声を掛けると、お母さんは作業台に並べた植物から目を上げて私を見た。














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