第三章 黒き杯
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議場の高い天井には、朝の光が静かに降り注いでいた。大理石の柱が並ぶ中央議会の本会議場は、荘厳な静けさに包まれている。
カタリナは傍聴席の最前列に座り、手すり越しに議場を見下ろしていた。議員たちの衣擦れの音、書類をめくる微かな音、時折交わされる小声のささやき――すべてが、これから始まる審議の重みを予感させていた。
壇上では、議長がダルマティア管区の自治憲章改定案の審議開始を宣言する。
カタリナは膝の上で手を組み、静かに息を整えた。
議場の中央にはアマデオが座り、摂政としての威厳を湛えながらも、どこか緊張した面持ちで議員たちのやりとりを見守っている。
その隣にはイムレが控え、背筋を伸ばしてアマデオの一挙一動を見守っていた。
議長の宣言のあと、議場には一瞬の静寂が訪れる。だが、すぐに各派閥の代表が次々と発言を求め、議論が始まった。
まず、進歩派の重鎮である老議員が演壇に立つ。
「自治憲章改定案は、ダルマティア管区の未来を切り拓くものです。中央の干渉を減らし、民意をより直接に反映させる制度――これこそが、時代の要請でありましょう」
その言葉に、賛同の拍手と反対派のヤジが飛ぶ。
続いて、庶民院設置を推進する若手議員が声を上げる。
「新たな庶民院は、これまで声を上げられなかった人々に発言権を与えます。私たちは、誰もがこの国の未来を語れる場を作りたいのです」
彼の熱意に押され、数人の議員が小さくうなずく。
保守派の一部も、慎重ながら賛成に回る姿勢を見せ始めていた。
「中央との軋轢を減らすためにも、一定の自治強化はやむを得ない。だが、秩序は守られねばならぬ」
と、ある中堅議員が述べると、周囲の議員たちが「その通りだ」と相槌を打つ。
カタリナは、傍聴席からその様子を見つめていた。彼女が水面下で進めてきた多数派工作――各派閥のキーパーソンへの説得、裏での根回し、時には個人的な信頼関係の構築――そのすべてが、今この場で実を結びつつあるのを感じていた。
議場は静まり返り、アマデオ摂政が壇上に立つ。彼はゆっくりと議員たちを見渡し、静かに語り始めた。
「諸君――本日、私は『民主主義は危険か』という問いから話を始めたい」
一瞬の間を置き、彼は続ける。
「新たな政治体制への移行には、不安や懸念がつきものです。伝統を守ることの大切さ、急激な変化がもたらす混乱――そのすべてに、私は深く理解を示します。皆が抱える不安は、決して軽んじられるものではありません」
アマデオは議場を歩きながら、議員一人ひとりに目を向ける。
「しかし、我が王国の民は近年、著しい識字率の向上を遂げました。子どもたちは本を読み、農民も新聞を手にするようになった。知識は力です。民が自ら考え、語り合い、国家とは何かを問い始めたこと――私はこれを心から称えたい」
ここで彼は、現実的な問題に言及する。
「とはいえ、理想だけでは国は動きません。現実を見据えねばなりません。カタリナ総督の提案する庶民院と貴族院の二院制は、段階的な制度の移行へと貢献するものでしょう。また、近年、ダルマティア管区において相次いだ不祥事は、中央政府への信頼を大きく揺るがせました。このままでは、民の不満が分離運動という形で噴出しかねません」
議場に緊張が走る。
「私は、こうした危機を乗り越えるためにも、民の声をより直接的に政治に反映させる新たな仕組み――すなわち庶民院の設置を認めるべきだと考えます」
アマデオの声は力強さを増す。
「庶民院は、民の代表が自らの言葉で意見を述べ、政策に関与できる場です。これにより、中央政府と地方、そして民との信頼の回復を図ることができるでしょう。民が自ら国家について考え、語り合う土壌が育ってきた今こそ、私たちはその声を受け止めるべき時です」
彼は議場を見渡し、静かに結ぶ。
「危機を恐れて閉ざすのではなく、危機を契機として開かれた政治へと歩み出す――それこそが、我が王国の未来を守る道であると、私は信じています。どうか、皆の知恵と勇気を、王国のために」
アマデオは深く一礼し、議場には静かな熱気が漂い始めた。
カタリナは、胸の奥に小さな希望の灯がともるのを感じていた。
そのときだった。
自席に戻ったアマデオが、机の上の水差しからグラスに水を注ぎ、口元に運ぶ。ごくり、と喉を鳴らして飲み下した直後、彼の動きがふいに止まった。
カタリナは、何かがおかしいと直感した。
アマデオは額に手を当て、苦しげに眉をひそめる。次の瞬間、彼の体が小刻みに震え始めた。
グラスが机の上で転がり、水が白い書類の上に広がっていく。
「……兄さま?」
カタリナが思わず立ち上がる。
アマデオは椅子にもたれかかり、口元から泡を吹き始めた。
その顔はみるみるうちに青ざめ、目の焦点が合わなくなっていく。
議場がざわめき始める。
イムレが真っ青な顔でアマデオに駆け寄り、肩を支える。
「アマデオ殿下!……殿下!」
イムレの声は震えていた。
アマデオの体はぐったりと力を失い、意識はすでに遠のいている。
イムレは必死に呼びかけながら、アマデオの体を抱きかかえ、議場の出口へと向かう。
カタリナは手すりを握りしめ、階段を駆け下りる。
だが、イムレは誰の制止も振り切るように、アマデオをしっかりと抱え、議場を後にした。
議場の空気は一気に騒然となり、議員たちが席を立ち始める。
その混乱の中、議場の扉が重々しく閉ざされ、近衛兵たちが静かに配置につく。
「王家の命令により、議場は一時封鎖されます」
近衛兵の隊長が冷静に告げ、出入口を固める。
議員たちや傍聴人は、何が起きているのか理解できず、議場は喧騒とする。
「ふざけるな!今しがた、アマデオ摂政殿下が倒れられたんだぞ!王家の命など、下せるものなどおらぬではないか!」
議員が近衛兵に抗議するが、議場の扉は固く閉ざされたままだ。
(やられた……!)
まさか、イザベラ一派がここまで手を汚すとは――アマデオを、王太子を、
自分の見通しの甘さが、今さらながら悔やまれる。警戒はしていたはずだった。兄姉仲は良好とも言い難かった。それでも、どこかで「まさかそこまでは」と、甘い期待を抱いていた自分がいた。
もっと早く危険に気づいていれば、もっと強く警告していれば、こんなことにはならなかったのではないか。胸の奥が焼けつくように痛む。
カタリナは、己の無力さを噛みしめながら、ただ必死に階段を駆け下りるしかなかった。
やがて、議場の上部に設けられた伝声管から、イザベラの落ち着いた声が響く。
「議員諸賢、傍聴の皆さま。摂政アマデオ殿下が急病に倒れられました。王家の秩序維持のため、ただちに議場を封鎖し、全員の安全を確保します。
真相究明のため、王家の名において調査委員会を設置し、必要に応じて戒厳令を発出します。
皆さま、冷静にその場でお待ちください」
イザベラの姿は議場には見えない。
だが、その声は冷静で、揺るぎない権威を帯びていた。
近衛兵たちは、王家の命令として議場の秩序維持にあたり、議員たちの動きを厳しく監視している。
カタリナは、議場の片隅で立ち尽くしていた。
意識を失ったアマデオ、イムレの蒼白な横顔、そしてイザベラの冷たい宣告――
すべてが、まるで夢の中の出来事のように、現実味を失っていく。
議場の空気は、重く、冷たく、誰もが息を潜めて次の動きを待っていた。
カタリナは、ただ静かに、兄の無事を祈るしかなかった。
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