21
政庁の夜は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
廊下の壁にかかる古い肖像画が、蝋燭の淡い光に照らされている。
ラウノは、書類の束を抱えたまま、人気のない廊下をゆっくりと歩いていた。
窓の外には夜霧が降り、石畳の中庭は月明かりにぼんやりと浮かび上がる。
時折、風が木々の葉を揺らす音だけが響く。
(……何か、空気が違う)
ラウノは立ち止まり、懐の魔術具に手を伸ばす。
指先が銀の護符に触れると、微かな魔力の流れが皮膚を撫でた。
魔素の流れが、どこか不自然に乱れている。
(転移魔術の残滓……?)
廊下の奥、地下へと続く階段の方から、かすかな気配が漂ってくる。
ラウノは息を潜め、足音を殺して階段へと近づいた。
革靴が石段を踏むたび、冷たい感触が足裏に伝わる。
階段を降りると、地下牢へと続く重い扉が半開きになっていた。
普段は厳重に施錠されているはずの扉――
ラウノは眉をひそめ、慎重に扉の隙間から中を覗き込む。
地下牢の空気は、石壁に染み込んだ湿気と、どこか鉄錆びた匂いが混じっていた。
薄暗いランタンの光が、床に長い影を落としている。
その奥――
牢の鉄格子の前に、一人の男が立っていた。
黒いローブに身を包み、顔は見えない。
だが、その手には、禍々しい魔術の波動が渦巻いている。
牢の中では、モーリツ元執政官が、何かを叫ぼうとした瞬間だった。
黒衣の男が、静かに手をかざす。
空気が震え、黒い魔術の光が一閃――
モーリツの叫びは、かき消されるように途切れた。
ラウノは思わず息を呑み、壁の陰に身を隠す。
心臓の鼓動が、耳の奥で激しく鳴る。
(……黒魔術。転移の痕跡も……)
ラウノは、魔術具をそっと取り出し、指先で空気をなぞる。
魔素の流れが、まるで煙のように揺らいでいる。
侵入者は、転移魔術でこの場に現れ、そして――今まさに、証拠を消そうとしている。
ラウノは、意を決して一歩踏み出す。
「そこまでだ――!」
黒衣の男が、ゆっくりと振り返る。その顔は、仮面で覆われており、目だけが、闇の中で不気味に光る。
「……おや、見つかってしまいましたか」
男の声は、どこか愉快そうで、しかし底知れぬ冷たさを孕んでいた。
ラウノは
だが、直接的な攻撃魔術は苦手だ。
(……幻惑、時空操作、占星術――僕の得意分野で、どうにか……)
「君が何者かは知らないが、ここで好きにはさせない」
黒衣の男は、仮面の奥で目を細める。
「残念ですが、私はもう用を終えて帰るところです。……定時帰宅の邪魔はしないでいただきたい」
ラウノは、静かに詠唱を始める。
空気が震え、青白い光が指先に集まる。
彼は床に魔法陣を描き、淡い霧を発生させた。
「幻惑……?」
黒衣の男の声が揺れる。
ラウノは、霧の中に星座の光を浮かべ、空間そのものを歪める。
「ここは、君の思うようには動かせない」
黒衣の男は、黒い魔力で霧を払い、鋭く指を鳴らす。
「面白い。だが、幻惑だけでは私を止められませんよ」
黒い魔力が、蛇のようにラウノの足元を這い寄る。
ラウノは素早く後退し、壁際に身を寄せる。
(……直接攻撃は避けたい。だが、相手は黒魔術師。下手に隙を見せれば、命はない)
ラウノはすかさず時の牢獄を詠唱する。空間が歪み、黒衣の男の動きが一瞬だけ止まる。
その隙に、ラウノは幻影の鎖を放ち、青い光の鎖が黒衣の男の四肢を絡め取ろうとする。
「……時空操作に束縛。なかなかやりますね」
黒衣の男は、魔力を集中し、鎖を強引に引きちぎる。黒い魔力が空間を切り裂き、ラウノの幻影を消し飛ばす。
(やはり、力押しでは分が悪い……!)
ラウノは、鏡像返しの構えを取り、黒衣の男が放った黒い魔弾を鏡のような魔法障壁で跳ね返す。
だが、黒衣の男は反射された魔弾をあざ笑うようにかわす。
「青の魔術師、君の手札はそれだけですか?」
ラウノは、空間跳躍で黒衣の男の足元を歪め、一瞬だけ牢の外へ弾き飛ばそうとする。
だが、黒衣の男は転移の波動を逆利用し、自らの体を霧のように分解して牢内に戻る。
「……直接的な攻撃は苦手なようですね」
ラウノは、魔力吸収の術式を展開。黒衣の男の魔力の流れを一時的に封じ、その隙に幻影の刃を生み出して牽制する。
だが、黒衣の男は黒魔術で幻影を打ち消す。黒衣の男が手を振り上げると、黒い魔力が鞭のようにラウノに襲いかかる。
ラウノは咄嗟に身を翻し、魔術具で防御結界を展開する。結界が軋み、黒い魔力が食い込んでくる。
(……このままでは、押し切られる)
ラウノは、最後の切り札――時空断裂魔術の詠唱を始めかけて、拳を握りしめた。
(……だめだ。ここで時空断裂魔術を使えば、証拠も痕跡も、すべて消し飛ぶ。事件の全貌がつかめなくなる)
黒衣の男は、ラウノの逡巡を見抜いたように、仮面の奥で笑う。
「その魔術――使う気はないようですね。甘いですね。私なら初手で四肢を弾き飛ばしますね」
ラウノは、必死に幻惑と時空操作を組み合わせ、黒衣の男の動きを封じようとする。
だが、黒衣の男は黒い魔力で空間を裂き、転移の詠唱を始める。
「……また会いましょう。赤毛の雪男殿」
ラウノは、最後の力を振り絞り、星座の光で転移座標を乱そうとする。
だが、黒衣の男は一瞬だけ空間を歪め、闇の中に溶けるように姿を消した。
「――!」
ラウノは、魔術具を振るい、転移の痕跡を必死に追う。
だが、残されたのは、黒魔術の残滓と、冷たい静寂だけだった。
牢の中には、すでに息絶えたモーリツの姿。
ラウノは、しばしその場に立ち尽くし、拳を握りしめた。
(……黒魔術の痕跡は、完全には消されていない。必ず、何か手がかりが残っているはずだ)
ラウノは、魔術具を使い、慎重に現場を調べ始める。
その指先は震えていたが、瞳には静かな決意が宿っていた。
――夜の政庁には、再び深い沈黙が訪れていた。
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