第二部 簒奪の調べ
序章 月下の誓い
19
厚い絨毯に足音も吸い込まれ、王宮の一室は夜の帳に沈んでいる。
窓辺にはイザベラが佇み、月明かりが黒髪に淡い光を落としていた。
レオポルトは手を膝の上で組み、静かにイザベラの横顔を見つめていた。姉の存在は夜の静けさの中でひときわ際立って見えた。
窓から差し込む淡い月明かりが、イザベラの白い頬をやわらかく照らし出す。
その瞳は、冷たい湖面のように澄んでいて、けれど時折、深い憂いを湛えて揺れる。
長い睫毛が影を落とし、整った額と高い頬骨が、王家の血筋を静かに主張している。
イザベラの髪は夜の闇よりも深い色で、肩に流れるたび、どこか遠い異国の物語を思わせた。
唇は凛と引き結ばれているのに、微かに微笑むときだけ、幼い頃の優しさがふと戻る。
誰よりも強く、誰よりも孤独な人――
その美しさは、ただ外見の整いだけではなく、
決して他人に見せない心の傷や、
誰にも負けない覚悟の強さが、
彼女の輪郭をいっそう鮮やかにしていた。
レオポルトは、そんな姉の横顔を見つめながら、
「この人のそばにいたい」と、
言葉にならない想いを胸に抱くのだった。
「……まだ眠れないの?」
姉が振り返らずに問いかける。
レオポルトは小さく首を振る。
「姉さんこそ。子どもたちの寝顔、見ていたんだろう?」
姉は微かに笑い、寝台に並ぶ子どもたちを見やる。
パンノニア人も、属領民も、今は同じ毛布にくるまれている。
イザベラが静かに子どもたちの寝顔を見て回る。その背中を、レオポルトは黙って見守っていた。
「こうして見ると、みんな本当に小さいわね」
囁くような声に、レオポルトが小さく頷く。
「覚えてる? 最初にこの部屋に来た子のこと」
イザベラは、遠い記憶をたぐるように、ゆっくりと語り始める。
「……ネゼルのこと?」
レオポルトの声は、どこか懐かしさと戸惑いが混じっている。
イザベラは微笑み、窓から差し込む月明かりに照らされた寝台の端に腰を下ろす。
「そう。あの子は、最初から賢くて、でもどこか大人びていたわ。私たちのことをじっと観察して、なかなか心を開かなかった」
レオポルトは、そっと膝を組み替える。
「姉さん、あの時……ネゼルに新しい名前をつけてあげたよね」
イザベラはネゼルに『ナンドル』という名を贈ったが、彼は頑なにネゼルと名乗り続けた。
「ええ。パンノニアの名を贈ることで、家族になれると思ったの」
姉は寝息を立てる子どもたちの髪にそっと手を伸ばした。
「でも、ネゼルはずっと自分の名前を大事にしていた。私のやり方が、重かったのかもしれないわね」
その言葉に、レオポルトは何と返せばいいのかわからず、ただ姉の横顔を見つめていた。
レオポルトは、眠る子どもたちの間に視線を落とす。
「でも、あの子がここに来てくれて、僕たちも少しだけ強くなれた気がする」
イザベラは静かに頷くと、窓の外へと視線を移した。その仕草に、レオポルトは胸が締めつけられる思いがした。
「家族って、思っていたよりも難しいものね。名前や言葉だけじゃなくて、心が通じるまでには、時間がかかるものだわ」
レオポルトは、しばらく黙って子どもたちの寝顔を見つめていたが、やがて、静かに口を開く。
「……でも、姉さんは諦めなかったよね。
どんなに時間がかかっても、みんなの心に手を伸ばし続けた。
僕は、そんな姉さんを見てきたから……
きっと、いつか本当に家族になれるって、信じてる」
彼は少し照れくさそうに微笑み、
「たとえ遠回りでも、姉さんとなら大丈夫だと思うんだ」と、そっとイザベラの唇に手を触れる。
イザベラはレオポルトの手を触れるように叩くと、優しく諫める。
「駄目よ、子どもたちの前じゃない」
「……僕にはおやすみのキスはくれないの?」
いじけるレオポルトに、イザベラは額にキスをする。
「今はこれだけ――これから大事な時期が続くわ。落ち着いたときに、また時間を作るから」
大事な時期――イザベラの理想を実現する、大事件。
「うん、わかってる。キスだけでいい」
「いい子ね」
レオポルトの黒髪にイザベラの華奢な指が絡まる。イザベラの手がレオポルトの頭を撫で、小さな子をなだめるようにそっと抱きしめる。
レオポルトはこの至福のひと時がいつまでも続けばよいのに、とため息をつく。
「そういえば……」
突然、レオポルトの耳元で囁くイザベラ。
「アマデオ兄さんは、まだ気づいてなさそうかしら?」
レオポルトは抱擁を解かずにそのまま答える。
「姉さんの言う通り、ネゼルに周辺を調べさせているよ。大丈夫、今のところ気づいていなさそう」
「やっぱり子飼いの魔術師を始末したのが良かったみたいね」
「馬車の事故だっけ?アマデオ兄さんは魔術師を軽視する傾向にあるから、あの子が一人事故で亡くなってもその重大性に気付かないんだ」
魔術が跋扈し神々が降臨する世の中でも魔術を軽視する人間は少なくない。大半の魔術師は占いのような弱い力しか持っていないためだ。
だが、その占いも決して過小評価されるべきものではない。その占いを聞き、意識的あるいは無意識的に行動を起こさなければ、七割以上の確率でその未来は実現するとも言われている。
だがそれが一般的に浸透していないのは、占いを聞くことで本人の意識が変わるためである。占いの内容を聞いた時点で、すでに占った未来は古いのだ。
危険を事前に回避したことを『占いが外れた』とするのは愚者の思考である、とレオポルトは思う。
「アマデオ兄さんは大丈夫だと思う。後は……ガルガロ諸島の魔女ゾルターナが気になるんだ」
ゾルターナ、と聞き慣れない人物に、イザベラは首を傾げる。
「ゾルターナ?お祖父様の時代に左遷されたんじゃなかったかしら」
「ああ――でも死んだわけじゃない。どうやら王都にゾルターナの使い魔の青い
ゾルターナは間違いなく稀代の魔女である。
レオポルトは長命種のエルフらしく、魔術には秀でていたものの、おそらくゾルターなの足元にも及ばない。
直接あったことはないが、魔術師ギルドの老師曰く
「昔、王都の大聖堂が一夜にして霧に包まれたことがあったのは知ってる?あれはゾルターナが〝青の月〟の夜に、ただ一言、呪文を唱えただけで起きた現象なんだって。
その霧は三日三晩晴れず、王家の守護結界すら役に立たなかったと言われていて……。
結局、お祖父様が自らの過ちを認め謝罪するまで、誰も霧の中で魔術を使うことすらできなかったらしい。
……老師は『あの女に敵対するのは、神々に背くのと同じだ』とまで言っていたよ」
そのゾルターナが王都に使いを寄越していた。それだけで、彼女には何もかも筒抜けかもしれない。
「心配しすぎじゃないかしら?」
「そうかな……?後、関係あるか分からないけど、ダルマティア管区の執行官だったモーリツが失脚したよ」
記憶になかったらしい姉は、眉間にシワを寄せる。
「ほら、少しガマ……なんというか、目つきが嫌らしい、肥えた老人」
「ネゼルがこちらに引き込んだ、あのガマガエル?」
ガマガエルのような見た目だと思っていたのは、レオポルトだけではなかったらしい。
「うん。失脚の原因は総督――カタリナが、モーリツのしかけた暗殺劇を暴露したみたい」
「……大変じゃないの。私たちの動きはバレたかしら?」
「いや、ネゼルが獄中で始末したらしい。特に情報は漏れていないって」
「そう……」
イザベラは一言そう呟くと、抱擁を解き、何か真剣な顔で考え込んでしまった。
レオポルトは不安になり、何ができるわけもなく、ただ周りをウロウロとしていた。
「ゾルターナは、確かダルマティア管区の議長?とかだったかしら?」
「そうだよ。カタリナはそこの総督だね」
「前言撤回。ほぼ間違いなく、二人は私たちの動向を掴んでいるわ」
イザベラは早足で子どもたちの寝室を後にしながら続ける。
「カタリナは理想主義者よ……属領の独自性と王国の多様性が国を良くすると本気で信じているの」
「それは、うん、聞いたことあるけど……」
正直なところ、レオポルトにはその関連が見いだせずにいた。
「方やゾルターナは建国以来の豪傑と名高いお祖父様を屈服させるような魔女――カタリナには動機がある。ゾルターナには実行力がある」
それはつまり――
「僕たちの計画を、カタリナが転覆させて、あわよくば自ら王座につこうとしているってこと?」
「わからない。でも、そんな気がするの。レオポルト、あなたは影を動かして、ダルマティアの様子を探って」
「わかったよ、姉さん。すぐに調べるよ」
イザベラの足音が遠ざかる。
レオポルトは静まり返った部屋にひとり残され、子どもたちの寝息を聞きながら、胸の奥に小さなざわめきを感じていた。
夜の静けさが、かえって不吉な予感を際立たせる。
――何かが、もうすぐ動き出す。
レオポルトは寝台の子どもたちを見やり、そっと拳を握りしめた。
この静けさの裏に、見えない嵐が潜んでいる。
「大丈夫、僕が守る。姉さんも、君たちも」
そう心の中で繰り返しながら、レオポルトは夜の闇に目を凝らした。
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