18 閑話 星紋封鍵の夜
改革の嵐が過ぎ去った後も、カタリナの心には新たな懸念が芽生えていた。
庶民院の設立、普通選挙――民意を反映する仕組みを考えれば考えるほど、彼女は『衆愚政治』という新たな課題に気づかされていた。
民の声は力強いが、ときに流されやすく、真実が歪められる危うさも孕んでいる。
その悩みを胸に、カタリナは夜の政庁を抜け、ラウノの研究室を訪ねた。
扉を開けると、ラウノは机に向かい、奇妙な魔術具の組み立てに没頭していた。
机の上には、透き通る青い水晶、銀糸で編まれた細工、星の紋章が刻まれた黒曜石のプレート、そして淡く光る真珠色の貝殻――。
ラウノは顔を上げると、目を輝かせて語り始めた。
「見てください、カタリナ様。この水晶は南方の氷河で採れたもの。銀糸はノクリムの鍛冶師が一晩かけて紡いだ特注品です。黒曜石は星降る夜にだけ採掘できる希少なもの。貝殻はルミナ・エテルナの聖海で拾ったものですよ。
これらを組み合わせることで、魔術的な共鳴と干渉を最小限に抑えつつ、情報の伝達を絶対的に秘匿できるんです」
カタリナは、ラウノの手元をじっと見つめる。
「……また新しい魔術具ですか?」
ラウノは頷き、手を止めた。
「ええ。今回の事件で、勅書という〝物〟に頼る危うさを痛感しました。書類は物理的な手段に過ぎません。伝達の途中で刺客に狙われれば、情報は簡単に失われてしまう。
そこで私は、〝
これは、発信者と受信者だけが解読できる魔術的な暗号通信です。
水晶に刻まれた星紋が、銀糸を通じて受信者の魔力と共鳴し、第三者には絶対に解読できません。
しかも、偽装や改ざんも不可能です。
今、そのテストをしていたところなんですよ」
「偽装や改ざんができない……?」
「ええ、説明すると少し長くなりますが――この〝
そこには、その人だけが持つ〝封鍵紋章〟――星座の配列と本人の魔力の波形を組み合わせた、極めて複雑な魔術的符号――を刻まれています。
発信者は、伝えたい情報を〝星紋石〟に魔力で封じ込めますが、その際、受信者の封鍵紋章を使って〝封印〟します。
こうして生まれた〝封印文〟は、受信者本人の魔力と星紋石が共鳴しない限り、誰にも解読できません。
さらに、情報を解錠するには、受信者だけが知る〝解錠紋章〟――これも魔力の個人特性と星座の配列を組み合わせたもの――が必要です」
カタリナは頭の中で、ラウノの説明を咀嚼する。
「つまり……発信者は受信者の紋章で情報を封じるので、受信者にしか情報が解錠できない」
「そういうことです。そして発信者のなりすましを防ぐ方法もありますよ」
ラウノの問にカタリナが答えを絞り出す。
「……発信者、受信者の魔力でしか稼働しない魔術具だから、魔術具を盗んでも情報は送れない」
「御名答。いやはや、さすがカタリナ殿下、大変物覚えがよろしい……でも、もう一つあるんです」
ラウノは、机の上の星紋石を指先で軽く叩きながら、さらに続けた。
「もう一つ――〝
たとえば、誰かが私の名を騙って偽の命令を送ろうとしても、この魔術式なら絶対に不可能です。
具体的には、発信者自身の〝署名紋章〟――これはその人固有の魔力の揺らぎと、誕生月の星座配列を組み合わせた魔術的な印――を、情報に重ねて刻みます。
受信者は、届いた情報の〝署名紋章〟を自分の星紋石で照合することで、
『確かにこの命令はラウノ本人が発したものだ』と魔術的に確認できるんです。
この〝署名紋章〟は、本人の魔力と星座の組み合わせでしか再現できません。
だから、たとえ魔術具を盗んでも、本人以外には絶対に偽造できない。
情報が途中で書き換えられたり、誰かがなりすましたりする心配もありません」
カタリナは、ラウノの説明を聞きながら、胸の奥がざわめくのを感じていた。
目の前の魔術具――星紋石と銀糸、そして星座の紋章――それらが織りなす仕組みは、単なる便利な道具ではない。
これは、世界の秩序そのものを揺るがす発明だ。
「……これがあれば、外交や軍事、あらゆる通信が安全に行える。発信者と受信者を限定し、内容の秘匿と真正性を保証できる」
言葉にしながらも、カタリナは自分の思考が急速に広がっていくのを感じていた。
これまで、情報は常に危ういものだった。
勅書は奪われ、命令は偽造され、密書は途中で消えた。
だが、この魔術式があれば――どんな刺客も、どんな裏切り者も、情報そのものに手を触れることができない。
カタリナは、指先で星紋石に触れながら、静かに息を呑んだ。――他国に先んじて、暗号通信ができるということ。他国、それには中央政府も含まれる。
その事実が、彼女の心に雷鳴のような衝撃をもたらした。
パンノニア王国の中央政府も、隣国の諸侯も、誰もこの技術を知らない。
もし、この〝星紋封鍵〟を属領だけが使えるなら――属領の情報は、誰にも盗まれず、誰にも偽造されない。
属領の意思は、初めて本当の意味で守られる。
カタリナは、未来の可能性を思い描いた。
外交交渉も、軍の作戦も、民の声も――すべてが安全に伝達できる。
それは、属領が中央に対して、初めて対等に立てる力を持つということだ。
だが同時に、彼女はその責任の重さも痛感していた。
この魔術式が悪用されれば、逆に恐ろしい独裁や情報統制の道具にもなりうる。
だからこそ、慎重に使わなければならない。この技術は、属領の未来を左右する〝鍵〟なのだ。
「すごい……」
カタリナの心からの感嘆に、ラウノは満足げに微笑んだ。
「ええ、すごいでしょう?これで、勅書のような重要文書も、もう誰にも奪われません」
カタリナは、ふと真剣な表情になり、声を潜めた。
「……この技術のことは、誰にも話さないでください。あなたの論文も、しばらくは封印してほしい」
ラウノは、やや不満げに眉をひそめた。
「ちょうど論文を書き上げたところなのに……。
カタリナ様は本当に人でなしですね。
まあ、素材の提供と、次の研究テーマをくださるなら、考えてもいいですが」
カタリナは、ほっとしたように微笑み、机の上の貝殻を手に取った。
「では、次は〝嘘発見器〟の開発をお願いします。
素材は、私が責任を持って集めますから」
ラウノは、まんざらでもない様子で頷いた。
「面白そうですね。〝
カタリナは、ラウノの横顔を見つめながら、新しい時代の始まりを、静かに実感していた。
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