15
政庁の執務室は、かつてないほど静まり返っていた。
ティサ・モーリツは、分厚い扉の向こうに響く足音に耳を澄ませていた。
机の上には、王家の紋章が刻まれた勅書が無造作に投げ出されている。
窓の外はすでに夜の帳が下り、街の灯りも遠く霞んでいる。
彼の手は、気づけば震えていた。
――なぜ、こんなことになったのか。
かつては自分の命令ひとつで、この政庁も、属領の軍も、すべてが動いた。
だが今、扉の外にいるのは自分の部下ではない。
カタリナ総督と、その忠実な軍人、ラースロー。
彼らが自分を討つために来る。
その事実が、じわじわと胸を締め付ける。
机の引き出しを開け、銀の短剣を取り出す。冷たい金属の感触が、かえって現実味を奪う――最後まで、抗うべきか。それとも、すべてを諦めるべきか。
扉の外で、近衛兵たちの号令が響いた。モーリツは、思わず椅子から立ち上がる。
額に汗が滲む。机の上の勅書を睨みつけ、歯を食いしばる。
「……王家の犬どもめ」
かつての自分なら、こんな状況でも冷静に策を巡らせただろう。
だが今は、思考が空回りするばかりだ。
誰も助けてはくれない。味方だったはずの議員たちも、すでに裏切った。あのお方は、助けてくれるだろうか?
そのとき、部屋の隅に影が揺れ、黒い羽根が一枚、床に落ちる。
「……随分と騒がしいですね、モーリツ殿。顔がだいぶ青いようですが、大丈夫ですか?」
漆黒の生地に紫色の刺繍を施したローブをまとった男が、ねっとりとした独特な話し方をする――ネゼルである。
「ネゼル!来てくれたか……!逃げ道を、頼む……君の転移魔術なら、まだ……!」
ネゼルは微笑みながら、机の上の勅書を指先でなぞる。
「おや、まだ〝君〟と呼んでくれるのですね。だが、残念ながら……私はもう、あなたの影ではない」
「待て、私はまだ終わっていない!あのお方に伝えてくれ、私は忠誠を誓っていると!」
ネゼルはしばらく黙っていたが、やがてため息をつく。
「……忠誠は、結果で測られるもの。あなたは……〝足手まとい〟になった。それだけのことです」
「仲間を見捨てるのか……!」
「……仲間?これは異なことを。私もあなたも、お互いに利用する関係だったじゃあありませんか。利用価値がなくなれば、去る。そうでしょう?」
黒い羽根が床に落ちた瞬間、部屋の隅の影は音もなく揺らぎ、ネゼルの姿はまるで夜の帳に溶けるように消え去った。
モーリツは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
静寂が、政庁の執務室を満たす。
――気配が消えた。
だが、安堵は訪れない。むしろ、胸の奥に冷たいものが広がっていく。
「……仲間じゃない、のか……」
呟きは誰にも届かない。
モーリツは机の上の勅書を睨みつけ、震える手で銀の短剣を握りしめた。
扉の向こうからは、近衛兵たちの号令と、軍靴の重い足音が断続的に響いてくる。
その音が、現実をじわじわと押し寄せさせる。
机や椅子を扉に押しやり、障害物にしようとするが、その手は頼りなく震えている。
――本当に、これで時間が稼げるのか?
いや、そもそも、何のために抗うのか。
助けは来ない。味方だった議員たちも、すでに裏切った。
あのお方――ネゼルの背後にいる貴きお方――も、もう自分を顧みることはないのだろうか。
外から、駐留軍の号令がさらに近づく。
扉の前で、誰かが低く命令を下す声が聞こえる。
モーリツは、短剣を握りしめたまま、壁際に後ずさる。
心臓の鼓動が、耳の奥で激しく鳴る。
――逃げ道は、もうない。
だが、降伏することもできない。
このまま捕らえられ、すべてを失うのか。
それとも、最後まで抗い、何かを残せるのか。
思考は焦りに呑まれ、まとまらない。自分の存在が、急速に小さく、脆くなっていくのを感じる。
かつての自信も、誇りも、今はただ、薄氷の上に立つような危うさしか残っていない。
――誰か、助けてくれ。
心の奥底で、そんな声がかすかに漏れる。
だが、返事はない。
静寂と、扉の向こうの足音だけが、現実を突きつけてくる。
モーリツは、最後の望みをかけて、机の奥に隠していた小箱に手を伸ばす。
だが、その瞬間――
「突入!」
扉が激しく軋み、ついに金具が外れた。
政庁の執務室に、冷たい夜気とともに、ラースローが踏み込んでくる。
その姿は、かつて自分に忠誠を誓った軍人とは思えない。鬼神――いや、処刑人のような冷たい眼差し。
モーリツは、短剣を握りしめたまま、壁際に追い詰められる。
「裏切り者め!貴様、誰に育てられたと思っている!この政庁も、軍も、すべて俺が築いたんだ!貴様のような小物が、王家の犬になり下がるとはな!」
ラースローは、無言でモーリツに近づく。その動きは、訓練された兵士のそれだった。モーリツは、怒りと恐怖で声を震わせる。
「お前は、俺の命令で出世したんだろう!今さら総督の盾を気取るつもりか?恥を知れ!」
ラースローは、無言のまま一歩踏み込むと、モーリツの腕を乱暴に掴んだ。
その手は容赦なく、骨まで痛みが走るほど強く締めつけられる。
短剣を奪い取る動きは、冷静さを装いながらも、どこか抑えきれない激しさが滲んでいた。
刃が床に落ちる音が、やけに大きく響く。
「……命令に従うのが軍人の務めです。正義に背く命令でも、従う必要がありました」
低く、押し殺した声。
だが、その奥に、何かが軋むような気配があった。
「だが、貴様に恩義を感じたことなど、ただの一度もない!たった一片たりとも、尊敬に値しない!」
ラースローの言葉は、吐き捨てるように鋭く、空気を切り裂いた。
その瞳は氷のように冷たく、しかし、燃えるような怒りが底に渦巻いているのが、ただ視線を受けるだけで伝わってくる。
モーリツは、言葉を失い、ただその眼差しを見返すしかなかった。
ラースローの配下たちが静かに室内に入り、モーリツの両腕を拘束する。ラースローは一度も振り返らず、カタリナの方へ歩み寄った。
モーリツの叫びは、夜の政庁に虚しく響いた。
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