第三十二章:イカリア島の海から

8月。夜の空は、まだ冷たい。


夏のはずなのに、突き刺さる寒さ。


あの高台に、白髪の少女がぽつんと立っていた。


リアは、スマホを見つめたまま、微笑んだ。


電源は入っていない。通知も、音も、振動も、何ひとつない。


でも。

胸が、空洞みたいに痛かった。


「……病院、逃げてきちゃいましたけど」


リアは、空に向かってつぶやく。


「でも、わかっちゃいました。──太陽が、消えたんだって」


瞳の奥に、わずかに涙が光る。


「先輩。私のこと、こんなに壊しておいて……どこに逃げちゃったんですか?」


かすれた笑いが、吐息に混ざる。


「……ねえ、先輩。リアちゃん、言いましたよね」


「来世も、来来世も……どれだけ先でも、追いかけ続けるって」


風が吹き、リアの白い髪がなびいた。


ポケットから、くしゃくしゃになった紙を取り出す。

それは──かつて月乃に送った偽の写真の原本だった。


「あれ、燃やす予定だったんですけど。

 残してました。バカですよね、私」


「でも、そうしなきゃ、私が“悪い子”になっちゃうから」


くしゃ、と紙を握りしめる。


「でも、いいんです。

もう、誰も私を見てないんですから」


リアは、ゆっくりと手を広げた。

冷たい風が、その手のひらを包む。


その背に、燃え尽きた羽根が見えた気がした。


「ねえ先輩。あなたがいない世界って、ほんとつまんないですよね」


「だから、迎えにいきますよ。太陽さん」


「……リアちゃんを、もう一回焼き尽くしてくれませんか?」


リアは、微笑んだまま、一歩を踏み出す。


翼などない。

ただ上を見上げて、ただ落ちるだけ。


その瞳に、燃え尽きたヒマワリが映っていた。




〜〜〜




──夜が明けた。


灰色の空が、ゆっくりと光を孕んでゆく。

だけどそれは、希望の光ではなかった。


ただ、終わった世界を照らすだけの、虚ろな朝日。


朝日は麓を明るく、いつものように照らし出す。


そこに広がっていたのは──

赤黒く染まった、ひとつの小さな湖だった。


まるで、誰かの心をそのまま染めたかのように。

まるで、何かが墜ちて、砕けて、混ざったかのように。


そして、その中心に。


一輪の、とても可憐で、何よりも純白な白百合が咲いていた。


水に沈まず、風に散らず。

なぜか、凛と──美しく咲き誇っていた。


その花は、もう何も語らない。

その花は、もう何も主張しない。

その砕けた花は、もう動かない。



ただ、そこにあるだけで。


それはまるで──

燃え尽きた翼の代わりに、この世に咲いた証のようだった。

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