第3話 政略“結婚”

 約束の日。

 指定されたレストランの前でルーチェは一人、佇んでいた。


「…………」


 王宮のすぐそばにある高級レストラン。

 そう聞いた時点でなんとなく察してはいたが、実際に目にしたその外観は、想像を遥かに超えていた。

 白い石造りの外壁に、深い紺色の尖塔屋根。扉の両脇には衛兵が立ち、奥には磨き上げられた大理石の階段。黒地に金糸の刺繍をあしらったカーペットが伸び、その先には幾つものシャンデリアが煌めいていた。

 まるで小さな城のようだ。


 鼓動が、妙に耳障りだ。

 レースとチュールがあしらわれた真っ白のワンピースも、硬い軍服に慣れた身としては、どうにも心許ない。

 落ち着かない指先が、胸元の布地をぎゅっと掴んだその時、不意に背後から声がした。


「ルーチェ」


 聞き慣れた……いや、聞き慣れたくなんてなかったけれど、耳が覚えてしまった声。

 振り返るとそこには、チャコールグレーのスーツを着こなしたレフが立っていた。


「悪ぃ、待たせた」

「いや……別に」


 癖のある前髪は撫でつけられ、銀色の髪が陽光を反射して微かに光っている。

 いつもの軽薄さは影を潜めていて、悔しいことに、今の彼は妙に様になっていた。


「緊張してんのか? 珍しいな、そんな顔するなんて」

「……レフこそ、いつになく表情が硬いじゃん」

「バレたか」


 レフはばつが悪そうに目を逸らす。


「こういう場所は苦手なんだよ」

「え、そうなの?」


 それはルーチェにとって、意外な言葉だった。

 軍人である彼女が、このような場に出向く機会は滅多にない。

 対してレフは諜報員として、任務のために貴族の宴席や他国の宮廷など、ここ以上に格式の高い場を多く経験していると思っていた。


 いつも涼しい顔で任務をこなしているから忘れてしまいそうになるが、「苦手」と口にするその横顔を見て、彼もただの人間なのだと、ふと感じる。


「ああ。お前こそ、別に初めてじゃないだろ、こういうとこ来んのは」

「そりゃあ、家族でご飯を食べたり、総司令官の娘としてパーティーに参加したりはあったけど……今回はなんか、違うじゃん」

「んなの俺も一緒だ」


 レフが小さく息を吐いた。

 癖で髪をかき上げようとした手が、それがワックスで丁寧に整えられていることを思い出したのだろうか、途中でふと止まる。

 宙に浮いた手をそっと下ろすと、彼は落ち着きのない様子で指先を擦り合わせた。


「……お前の両親は、大抵の任務の相手より手強そうだからな」

「まあ、総司令官だし多少は。でも別に、気難しい人たちじゃないから」

「そういうことじゃねぇよ」


 レフはわずかに目だけを動かし、ルーチェを見た。

 その声色はいつも通りぶっきらぼうだったし、かち合った灰色の視線もいつも通り鋭かった。

 だが、いつもと違って不思議と苛立ちが湧いてこなかったのは、その瞳にほんの少しだけ緊張が滲んでいたからか。

 はたまた、続いた言葉のせいか。


「政略とはいえ、大事な一人娘を嫁に出すんだ。そりゃ……親としてそれなりの品定めをしてくるだろ」

「……え」


 ルーチェは思わず言葉を失った。


 嫁に、出す。


 その響きが、脳内でゆっくりと反響していく。

 言われてみれば、その通りだ。だが、なぜだかその言葉が自分の中でうまく噛み合わず、思考回路が一瞬ショートする。


 ルーチェだって、“品定め”をされる覚悟はしてきた。けれどそれは政治的に有用かどうかという、駒としての品定め。

 これは親同士が取り決めた、表向きのための政略結婚。今までルーチェはその“政略”の側面にばかり気を取られていた。

 打算、立場、世間体。そういうものの一部だと、機械的に受け止めていた。


 だけど、レフの言い方はまるで、“結婚”の方をちゃんと意識しているかのようで。


 それがなんだか、むず痒い。


 唖然として固まっている彼女を前に、レフはやや不機嫌そうに呟いた。


「なんだよ」

「……レフってさ、たまに意味わかんないくらい真面目だよね」

「は?」


 低い声で問うレフから逃れるように、ルーチェは視線を落とす。

 白のパンプスの尖った爪先が視界に入る。これもまた、軍のブーツに慣れた身には、履き慣れない代物だった。


「いや、私としては、あくまで任務の一環として捉えてたのに……レフは、そういう風に考えてるんだなって」


 言葉にしてみて、少しだけ後悔した。「そういう風に」なんて曖昧な言い方は、却って語弊を生んでしまうかもしれない。

 それをレフがどう受け取るか——今更撤回する事もできずに下唇に前歯を沈ませるルーチェをよそに、レフは事もなげに呟いた。


「……別に。任務でも結婚は結婚だろ」


 短く、真っ直ぐな声。

 からかいでも照れでもなく、ただ当たり前のことを言っているような響き。

 実際、当たり前のことなのだ。それなのに心が少しざわつくのは、どうしてだろう。


 ふと、レフがルーチェを一瞥し、わずかに口角を上げた。


「……ちゃんとしてんな、珍しく」

「あんたが『ちゃんとしてこい』って言ったんでしょ」


 レフはわずかに肩をすくめて、気が抜けたように笑った。


「ふっ、そうだったな」


 その笑い方が、二人の間を吹き抜ける夜風のように柔らかかったのは、単にそう聞こえただけだったのだろうか。


「じゃ、行くか」


 そう言って、場違いなほど丁寧な仕草で手を差し出すレフ。ルーチェは一瞬だけ迷った後に、そっとその手を取った。


「笑顔の準備はできてるか?」


 握り返した手は、想像していたよりもずっと冷たかった。

 見上げたレフの瞳は、曇り空を閉じ込めたような深い灰色をしている。


「……うん、ばっちり」


 だから、ルーチェも作ってみせる。完璧な、よそ行きの笑顔を。

 ルーチェとレフは宿敵であり、政治的な策略に巻き込まれた被害者であり、揃って世間を欺く共犯者であり、婚約者だ。


 一瞬、レフが目を見開いた気がした。

 だが、その意味を確かめる間もなく、彼の表情は整えられる。


「なら、大丈夫だな」


 そこにいたのはレフではなく、次期情報局長『レフリート・アイスヴェイル』だった。

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