第2話 あれはデートじゃなくて“逢瀬”

「で、どうだった? レフくんとのデートは」

「あれはデートじゃない。逢瀬」

「おんなじことじゃないの、それ」


 レフとの逢瀬という“仕事”を果たしたあと、やたらと重い軍服のジャケットに袖を通す気にもなれず、かといってあの冷ややかな視線とどす黒い嫌悪感の残り香を漂わせた空間に居座る気にもなれなかったルーチェは、冷めて苦味の増したココアをビールのように一気に飲み干し、王国立魔導研究所へ向かった。

 正確には、そこの戦術魔術開発班に属する親友フィラ・ファルシュハイトの元へ、だ。


「違う。デートっていうのは、好き合ってる人たちが会うことでしょ。私たちの場合は体裁のために仕方なく会ってるだけだから、“逢瀬”」

「……どっちも意味は一緒だった気がするけど」

「いいの。響きの問題」

「はいはい、細かい軍人さん」


 フィラは積み上がっていた魔導書を片腕で除けると、マグカップを二つ並べた。


 フィラの研究室には“混沌”という言葉がよく似合う。

 木製の長机には何に使うのかさっぱりな魔導器具と、色とりどりの薬品が入った試験管や瓶が所狭しと並び、そこら中に積み上げられた書籍が都会のビル群のような光景を築き上げている。

 奥の書棚には古そうな魔導書や書類が隙間なく詰め込まれ、魔法陣の設計図や実験データの紙が、壁や床に無造作に散りばめられている。

 その一角、ビル群に侵されたローテーブルと向かい合うソファ二つの小さな応接スペースが、ルーチェの定位置だった。

 フィラがポットからお湯を注ぐと、爽やかな茶葉の香りがふわりと立ち上る。今日はミントティーだろうか。


「で、レフくんのことは、どう思ってるの? 嫌い?」

「好きか嫌いかで言えば、大嫌い」

「あっはは、相変わらずだね」


 ルーチェとフィラは同じ高校の出身だ。つまりフィラはレフとも同じ高校に通っていたということになり、必然的にルーチェとレフの攻防戦を目の当たりにしてきたということになる。


「ま、高校時代の二人を思えば、カフェが無事だっただけでも進歩でしょ」

「褒められてる気がしない……」

「褒めてないからね」


 フィラは紅茶の中に蜂蜜を垂らし、ティースプーンでくるくるとかき混ぜる。二つのマグカップをテーブルに置くと、彼女は白衣の裾を翻し、ルーチェの向かいの椅子に腰を下ろす。ルーチェは小さく礼を言い、そっとマグカップに口をつけた。

 すーっと鼻を抜けるミントの清涼感と、その後を追うように広がる蜂蜜の柔らかな甘みが、荒ぶっていた胸のうちを少しずつ鎮めていく。


 その時、テーブルの上でルーチェのスマホが震えた。

 画面に浮かび上がったのは、ちょうど話題に上っていた名前。


『来週の土曜日、両家の食事会な。忘れんなよ』

「あ〜……行きたくなさすぎて、ほんとに忘れてた……」


 気の重さがそのまま滲み出たような溜息に、フィラは苦笑した。


「総司令官の娘も苦労するね、政略結婚なんて」

「本当だよ。私もあいつも、軍と情報局が仲良しアピールするための生贄」

「すごいなあ。国のために人生を捧げるって」

「国民のためなら前世も来世も捧げるけど、くだらない駆け引きのためにっていうのはすごく不本意」


 ルーチェはマグカップを両手で包み込むようにし、額に皺を寄せた。

 ほんのりと緑がかった水面。透けたカップの奥底で、自分の顔がかすかに揺れている。


「駆け引きね……私もうんざりしちゃうけど、結局そういうのがモノを言うから」

「そうなんだよね……」


 脳裏に浮かんだのは、軍本部の机に山積みになった署名待ちの書類たち。いざとなればすぐに破り捨てられるほど柔い中身でも、お偉いさんたちはそれをやけに硬い言葉で包みたがる。

 フィラの言葉に同意し、本日何度目かの溜息を吐いた時、暗くなりかけていたスマホがまた点いた。


『遅刻厳禁だ。大事な会だ。いいな』

「……チッ」

「ルーチェこわ〜い」


 茶化すフィラをよそに、ルーチェは画面に指を滑らせる。液晶と爪がぶつかり合い、カチカチと音が鳴った。


『はい、連絡ありがとう』

『あと、当日の服装には気をつけろよ。父はお前のことを“ちゃんとした”娘だと思ってるから』

「……なんなの、この男」


 毎度毎度、ひと言多い。

 ルーチェはスマホを睨みつけ、届くはずのない苛立ちを指先に乗せる。


『そっちこそ、口の聞き方には気をつけてよね。ママはあんたのこと、“優しい”お坊ちゃんだと思ってるから』

『優しい? 俺が? 笑わせるな。』


 皮肉をたっぷりと含んだ声と、鼻で笑うような調子が、耳元で生々しく蘇る。


『安心しろ、うまく演じる』


 ルーチェは返事もせずにスマホの電源を切り、画面を伏せた。


「……ねぇ、フィラ。笑顔を貼り付けていられる魔術とか、開発できない?」


 冗談半分——否、冗談二割、本気八割で問うと、フィラが吹き出す。


「何それ。面白そうだけど、私の班は魔術開発班だからね? 戦場での用途思いついてくれないと、予算が下りないの」

「え〜、でも前に見せてくれたじゃん。食パンが絶対バターの塗られた方を上にして落ちる魔術」

「あんなので喜ぶの、ルーチェくらいだよ」


 フィラはくすくすと笑いながら、ミントティーをもう一口啜った。


「ほら、敵兵に笑顔を見せて油断させられたら、奇襲が成功しやすくなると思わない? 結構、有用でしょ?」

「ふふ、じゃあ開発期間に三年、臨床試験込みで五年かな。あと被験者にルーチェとレフくん、強制参加ね」

「悪魔じゃん……」


 ルーチェがむくれたように唇を尖らせると、フィラはぺろっと舌を覗かせてビスケットをつまむ。

 爪が短く切り揃えられた指先には、よく見ると細かい傷や火傷の痕のようなものが点々とある。研究職というのも、なかなか骨の折れる仕事のようだ。


「……でもさ」


 薬品と紅茶の香りが混ざり合った空気に、ふとフィラの声が響く。


「ルーチェは、相手がレフくんで、ちょっとはよかったなって思ってたり……しないの?」

「……は?」


 マグカップを持ち上げた手が、宙で止まる。視線だけをフィラに向けると、フィラは「いや、私も詳しいことは知らないけど」と軽く両手を上げた。


「政略結婚って、もっとこう……顔も名前も知らない人を、いきなり『あなたの婚約者です』って紹介されるものだと思ってたから」

「それは……まあ」


 視線を逸らしながら、ルーチェは曖昧に頷いた。


 由緒ある武門の家に生まれ、軍の総司令官を父に持ち、自らも軍人の道を選んだその時から、政略に人生を引き渡すことはある程度、覚悟していた。

 だからこそ婚約相手があいつだと知った時には言葉を失ったが、政略結婚そのものに対しては、怒りも失望も、今さら抱けなかった。

 名前も顔も知らない、どこかの幹部か貴族かの息子との結婚。そんな未来のほうが、よほど現実的だった。

 それに比べればレフの顔は、腹が立つほどよく知っている。

 ……そう考えると、ほんの少しはマシだった、のかもしれない。


「少なくとも私は安心かな」

「何が」

「親友の結婚相手が、ある程度まともな人で」

「まとも? あんなに校舎破壊してるの見てきたくせに?」

「うん。だってレフくんって、なんだかんだでルーチェのこと気にしてるじゃん」

「は……」


 何気なく放たれたフィラの言葉に、ルーチェは眉根を寄せる。

 即座に否定しようとしたが、言葉は喉の奥に絡まったまま出てこない。


 気にしてなんかない。——生憎、そう言い切ることができない程度には、ルーチェにも心当たりがないわけではなかった。

 

 手元を見下ろせば、溶けきらなかった蜂蜜が、マグカップの奥底に溜まっていた。

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