第2章 葦路の道(内陸回廊)
第51話 「柳丘の仮泊」
朝の冷えが残っているうちに、街を出た。門でミレイユに控えの札を渡し、押収品の最終受領を確認する。門柱には新しい掲示が増えていた。
〈港=封/川口=封/次:内陸“河骨”〉
鈴は平時。ランベルトが短くうなずき、俺たちは東へ向かう街道に足を乗せた。
歩く順番は決めてある。先頭はレオン。少し開けて俺とクロ。側道と上をサビーネ。中列にイリア。最後尾をヘルミナ。荷は各自分担。棒、弓、薬包、写本具、軽寝具。予備札は“港/門/路”に分け直し。鈴の取り決めも旅仕様にして札へ記す。
〈行軍:二短〉〈停止:一〉〈警戒:二→一〉〈散開:長一〉〈集合:短三〉
音は最低限。村落地帯では笛は使わない。鈴は布で包み、鳴らし口を指で押さえる癖をつける。
城壁が小さくなっていく。路面は硬い土。昨夜の潮は遠い。代わりに乾いた草と土の匂い。クロが左の路肩へ寄り、草の根をすんと嗅いで戻る。「うすい、におい」
「粉筋はなし」俺は返して歩幅を調整する。風は横。背から前へ細く通すと、砂埃が面で逸れる。鼻と眼が楽になる。レオンが後ろを見て親指を一度立てた。
午前は歩く。街道脇に小川が一本。浅い飛び石。流速は弱い。クロが先に渡り、二歩分戻って俺の靴先を見上げる。足を置く順だけ示してくる。こういう確認が助かる。石は苔で滑る。棒の先を軽く当て、角度を確かめてから進む。サビーネは上の枝に一度だけ指をかけ、風下側の藪の切れを拾ってまた消える。レオンは足音を落とし、地面の荒れを見ていた。
「車輪跡、昨日。幅が狭い。村の荷車じゃない」
「葦を積むならもっと軽い輪。……これは樽か箱」ヘルミナが藁屑を指先でつまむ。「底に藁を敷いてる。振動に弱いもの」
「粉か文書か」イリアが写本板へ印を落とす。〈狭輪/昨日/藁屑〉
柳の多い丘陵が近づく。根元の水が浅く、葦が点々と残っている地形だ。昼前、道標の陰で一度止まる。レオンが手を上げて〈停止:一〉。俺は水袋を回し、クロには塩抜きの水。ヘルミナが包帯の端を押さえて、各自の足首を短く見る。擦れは早めに手を打つ。長旅は足から崩れる。
「午後は丘の肩を越えて“柳丘(やなぎおか)”の茶屋で仮泊。裏庭に釜場があるはずだ。情報交換は短く」レオンが地図を折る。「隊列はそのまま。アキラ、風の“面”は節約。斜面でだけ使え」
「了解。クロ、鼻は右側を多めに」
「みぎ、みる」
午後。丘の肩にかかる。柳が増え、風が切り返す。面で受けると足が鈍る。筋で通す。俺は呼吸を短くし、膝下だけに軽く風を入れる。足首の角度が揃い、踏み替えが滑らかになる。レオンがわずかに速度を上げても列が崩れない。サビーネは上から合図もなく、視線だけで方角を示す。左の谷に薄い白。新しい灰の跡だ。雨で流れた粉は白い膜を残す。近づきはしない。風向きがこちらでないのを確認して通過。
柳丘の茶屋は小さかった。板壁。軒に乾いた草束。井戸は浅い。暖簾の外で一度だけ鈴を指で弾く〈入店〉。中は人が少ない。女将が一人、手を止めずにこちらを見る。
「歩き客かい」
「水を少し。麦粥があれば二。塩は薄めで」レオンが短く頼む。
「あるよ。裏で杵の音がするだろ。麦を潰してる」
席に着く前に、外の掲示板を確認する。村役人の札と、旅人向けの注意が二枚。
〈夜間の狼注意/落ち穂の持ち出し禁止〉
そして小さな紙片。墨が薄い。《萱橋/明け六/二→一》
イリアが目で合図し、写本板に写す。女将の目線は向かない。こういう紙片は“葦路”の符牒になりやすい。萱橋はこの先の簡易橋。明け六。二→一は鈴か灯か。橋で合図を使うのは危険だが、ここでは普通客の目が薄い時間帯を狙う。
粥は薄い。助かる。クロは小椀を前足でちょんと寄せ「のむ」。喉がころと鳴る。女将がそれを見て、口元だけ緩んだ。
「行儀のいい猫だね」
「助かってます」俺は返し、椀を持つ。塩が少ないと体が落ち着く。旅の最初から濃い味は要らない。
粥を終えたら、裏庭を借りる。女将に一声だけ。「糠場の風を少し動かす。埃は上へ」
「なら桶で蓋をしてからにしな」
「はい」
短い稽古を挟む。路上で積み上げる。今日は足運び。踏み石三つ、間隔不揃い。俺は棒で石の角を軽く指し、レオンが順番に踏む。サビーネは屋根から見て矢の角度だけを示す。イリアは時間を測る。ヘルミナは呼吸数と汗の量を見る。
「アキラ、風は“面”を切って“筋”で。膝下二指分」
「了解」
呼吸を一度止め、足首の外側にだけ薄く風。足裏の接地が安定する。大袈裟な力は入れない。重心が流れない範囲で角度だけ作る。三本目で速度が上がる。レオンが小さく「よし」と言い、棒の先で俺の足先を一度突く。「戻しが一歩長い。癖にするな」
「はい」
クロは別稽古。雷の“ぱち”の制御。乾いた布と濡れ布を一枚ずつ。テーブルの上に薄い針金の輪。
「今日は布だけ。針金は触らない。ぱちは一度」ヘルミナが釘を刺す。
「うん」
クロが尻尾を少しだけ立てる。先がわずかに光る。乾いた布の端に尾を軽く触れた。ぱち。音は小さい。布が少しだけ跳ねる。針金には触れない。ヘルミナが頷き、女将の糠場に埃が落ちないのを確認する。
「良し。今日はここまで。舌が乾くから水を」
「のむ」
表に回る。女将が麦殻を箕で払っていた。
「萱橋はこの先?」レオンが尋ねる。
「片里さき。朝は水が軽い。荷の人は夜明け前に渡るよ。……あんたらの鈴は町の音だね」
「村の鈴は?」
「うちは無いよ。鐘を叩く余裕も無い。狼が出ると、鍬で叩くぐらいさ」
女将の目は疲れていた。俺たちは余計な話はしない。粥代を払う。釣りは断る。女将は受け取って、米ぬかをひと握り、クロの器に落とした。「猫はこれも舐める」
クロは匂いだけ確かめ、「すこし」と舐めた。女将が笑う。空気が少し和らぐ。
茶屋を出る。丘を半周し、萱橋へ向けて斜面を下る。ここからは風が逆になる。面で受けず、胴の左右で逃がす。柳の枝が垂れて視界が切れる。サビーネが上から一度だけ指で〈停止〉。前に人影。背に短い棒。荷は軽い。三人。
レオンが歩幅を狭める。俺はクロの頭に手を当てて一度撫でる。尻尾が下がる。鼻は前。
すれ違いざま、相手の目線は棒ではなく袋に落ちた。視線の癖。狙いは荷。俺は棒を見せない位置に置き、足を半歩外へ。レオンは視線だけで相手の肩を流し、イリアの前に薄く壁を作る角度。ヘルミナは女の背に回さないように距離を一つ空け、サビーネは屋根の代わりに斜面上で角度を取った。
三人は何も言わずに通り過ぎた。背が緊張を解いた瞬間、レオンが短く「今」と言い、各自の姿勢だけを戻す。声は出さない。こういうやり取りを続ける。緊張を外さないで歩く時間の比率が、街の中よりずっと長い。
萱橋の手前で一度止まり、橋裏を覗く。柱の根に布切れ。藁縄のほつれ。濡れた樹脂の匂いはない。橋桁の上、対岸の草陰に小さな石の積み。三つ積み。間が一つだけ狭い。符。イリアが写して札へ記す。〈石三/間狭=一〉
合図の
今日は橋を渡らない。柳丘の外れの空き地で仮泊にする。レオンが場所を決める。水際から離れ、風下に木立。火は小さく。湯だけ。飯は干し肉を少し、硬いパン、薄いスープ。クロは塩抜きの水と、小さくちぎったパン一片。
火の番は二交代。鈴の規則は夜用に変える。
〈夜警:短一〉〈異常:長一〉〈集結:短二〉
イリアが木札に写し、焚きのそばの枝に結ぶ。ヘルミナは小包帯と薬包を並べ直し、湿りを見て布を入れ替える。サビーネは矢筒の底を拭き、麻糸を一本だけ切って捨てる。湿り癖のある糸は夜に切れる。昼のうちに落とす。
「明け前に橋を見に行く。合図の確認だけ。触らない。流れを乱すのは明日」レオンが短く言う。「今夜の稽古は軽く。足と呼吸。アキラは“面”の切り替え三巡、クロは“ぱち”無し。女将の糠場の借りを残すな」
「了解」
日が落ちる前に、周囲の音を拾っておく。遠くで鍬を打つ音。子どもの声はもうない。狼の遠吠えは今日はまだ。風は右から左。夜は冷える。
湯が沸く。器に少しだけ注ぎ、唇を湿らせる。クロが器の縁に鼻を寄せ、「あつい」と小さく言ってから、湯気だけ嗅いで離れた。前足で俺の膝をとんと叩く。
「だいじょうぶ?」
「大丈夫だ」
薄暗くなる前に、もう一度だけ足運びの確認。踏み石はさっきより広めに置く。面の風は使わず、筋で戻す。三巡目で息が合う。レオンの口元がわずかに緩んだ。
「これなら斜面での“抜き”に使える。……止まるときに肩が上がる癖は、明け前にもう一度」
「はい」
焚き火が小さくなる。鈴は袋の中で静かだ。クロが俺の上衣に潜り、丸くなる。前足の黒い点で俺の腕を軽く押す。「ねる?」
「一度だけ。すぐ起きる」
目を閉じる前、イリアが静かに札を増やして枝に結んだ。
〈萱橋/明け六/二→一〉――確認、明け前。
風は弱い。夜は長い。明け前に動く。
◇
夜番は二交代。前半はレオンとサビーネ、後半は俺とヘルミナ。イリアは短札を書き足してから眠り、クロは俺の上衣に潜って丸くなったまま耳だけ動かしている。焚き火は指先ほどの小さな炎。鈴は布の奥で静かだ。
前半の終わり、遠くで一度だけ狼が鳴いた。谷の向こう。風向きが違う。火は上げない。レオンが焚きの位置を半歩だけずらし、火の影を伸ばさない角度に直す。サビーネは矢筒の紐を結び替え、火の表に弓を置かない。寝ている二人――イリアとクロ――の足元へ、布一枚を余計にかけた。
俺の番になったころ、夜が深く沈む。呼気が白くなりすぎないよう口を閉じ、鼻で短く吸って短く吐く。ヘルミナが湯の蓋を半分だけ開け、指を湿らせて風下へ捨てる。「湿りは十分。火はこれ以上いらない」
「うん」クロが上衣の中で小さく返事をして、鼻先だけ出してくる。「はな、つかう?」
「まだ。明け前に頼む」
沈黙の中で、足運びの癖を一度だけ直す。レオンに言われた“止まるときの肩”。焚き火の向こうでヘルミナが見ている。俺は三歩上がって、三歩戻る。止まる直前、肩が上がりかける。意識して下げ、重心をわずかに後ろへ送る。肘は浮かせない。棒は手の内で回さず、親指の付け根で止める。
「今の二回目。いい」ヘルミナが小さく頷く。「明け前にもう一度」
半刻ほどして、レオンが起き出した。サビーネは起きていた。矢羽根を一枚、指でしごいて湿りを均す。レオンが枝に結んだ札を指で叩く。〈萱橋/明け六/二→一〉――確認。今日の仕事は“見る”だけだ。触らない。誰が、どこで、どう鳴らすのか。合図を拾い、手の位置と足の癖を拾う。
「行くのは四人。俺、アキラ、サビーネ、クロ。ヘルミナはここで。イリアは睡眠優先」
「わかった」ヘルミナは短く返し、俺の肩の革紐を引いて結び目を締め直した。「呼吸を欲張らない。鼻の風だけ」
「了解」俺はクロの背を一度撫で、彼の耳を前に倒す。「静かに行く」
「しずか」クロは胸を張って、尻尾をぴんと立てた。上衣の中から自分で出て、前足をそっと地面に置く。肉球が湿りを拾う音が小さくとん、とん。
萱橋までは丘を斜めに下る。柳の枝が垂れて視界が切れる場所で、サビーネが指先だけで〈停止〉。前路に音はない。橋の下手から水音が増え、葦が擦れる。風は弱い。匂いは薄い甘さ――粉ではない、蜂蜜を薄めたような匂いがかすかに混じる。合図に使う蜜蝋だ。灯の揺れを読みやすくする時に縁に塗るやり方がある。
橋の手前で身を伏せ、まず上から見る。サビーネは柳に一歩登り、反対側の岸の草陰を覗く。レオンは橋桁の納まりを見、俺は水面の風を読む。クロは橋脚の影へ腹ばいで滑り、鼻先だけを出して吸う。「あめのにおい、ない。はちみつ、すこし」
橋の上に灯はない。代わりに、欄干の内側に小さな油皿が二つ、伏せて置いてある。片方の縁に黄の線がひと刷毛。もう片方は無印。明けの刻に片方だけを起こして一度、もう片方を二度。二→一の作り。回数じゃなく“場所”で表すこともある。伏せておけば夜のうちは目立たない。
さらに、橋台の影。布袋に小鈴が二つ。袋の口に細い樹脂糸。引けば一度鳴る。片方は袋の底に小石が入っていて、音が半拍遅れる。二→一の“時間差”。手口が二重に用意されている。灯が駄目なら鈴。鈴が駄目なら灯。どちらに転んでも通せるように。
川上の草むらが揺れ、小柄な人影が二つ入ってきた。足運びは荒い。村の若い衆か、借りられた足。腕輪は見えない。先に来たほうが油皿へ手を伸ばし、縁の蜜を指先で確かめる。もうひとりは欄干の袋の紐を引く角度を確かめる。慣れてはいないが、手順は教わっている。背後に“手”がいる。
レオンが口の形だけで「見ろ」と言う。俺は呼吸を一度短くして、風の“面”を橋の下だけに敷く。油皿を起こしても、炎が上に伸びないように。あくまで確認のため。止めはしない。明けの構造を拾うだけ。
ひとりが油皿を起こし、灯芯に火を移した。蜜蝋の縁が柔らかく溶け、灯が一度だけふっと強くなる。すぐに弱る。俺の“面”が上を塞ぎ、炎の“吸い”を抑えているからだ。若いのは不思議そうに首を傾げ、二度目を起こさない。代わりに鈴袋へ手が伸びる。樹脂糸を軽く引く。小さな音が一度、草に吸われる。半拍置いて、反対側の袋を引く――はずだった。だが、紐の結びが甘い。口がほどけて、小鈴が袋の中で転がった。音は出ない。
「まずい顔だね」レオンが唇だけで笑い、目でサビーネに「覚えろ」の合図。弦は引かない。俺は“面”をほどき、風を水面に戻す。確認は十分。
ふたりは慌てて鈴袋を結び直し、油皿を伏せ直して引き上げた。逃げる背中の作りは“連れて来られた”者のそれだ。命令がなければ動けない。背のほうに目がいかない。こういう連中は後で外せる。今は“手”がどこから合図を出しているかだけが重要。
クロが橋脚の影から鼻をひくひくさせ、「むこう」と尾で示した。対岸の柳の根。根の間に小さな窪み。そこに、薄い蝋板が一枚差し込まれていた。サビーネが音を立てない角度で近づき、指で抜いて戻る。刻みは短い。
――《萱/六/二→一/替:鈴》
灯が駄目なら鈴、と明言してある。さっきの若い連中に渡された“本日の指示”。書いた手は別にいる。刻みが均一で、刃の返しがない。道具に慣れた手。灰指の文書係か、内陸側の“河骨”の書き役。
蝋板は戻す。今は動かさない。レオンが小声で指示を落とす。「橋台の根、右三、左二。仕掛けの位置は拾ったな」
「右の袋は底に石。左は空。油皿は黄の刷毛が二回用。無印が一回用」
「鈴の樹脂糸は、祠の前の樋に沿わせてある。上から濡らせば重みで落ちる」ヘルミナが見れば喜びそうな顔だ、と喉まで出かかったが、喋らない。今は静かに戻るだけ。
撤収。柳の影から斜面を戻る。クロは鼻先を下げたまま、時おり足をとんと置いて石の位置を示す。落ち葉の下に浅い穴。鹿の踏み跡と混じりやすい。旅ではこういう小さな“転び穴”が疲れに化ける。助かる。
仮泊地に戻ると、ヘルミナが湯を小器に分けて待っていた。「冷えたでしょう。口だけ湿らせて」
イリアも起き、写本板の余白を作っている。「拾いものは?」
「蝋板、指示。鈴は替え。油皿二→一。袋の結びは甘い」
イリアが手早く写し、〈萱/六/二→一/替:鈴〉の文字を板の端に写してから、旅札に小さく転記して俺に渡した。明けのうちに“見る”は終わり。動くのは明日。今日は体を崩さず、足を作る。
「もう一度だけ肩」レオンが言う。
俺は立ち上がり、踏み石に見立てた丸木の上を三歩。止まる前に肩が上がりかけるのを腹で押さえ、肩甲骨を背中へ落とす。棒の先は地面に触れず、手の内で止める。レオンが親指を一度立てた。
「それでいい。明日は斜面で使う」
夜がほどけ、東の空が白む。短い粥を分け、荷の紐を締め直す。鈴の規則を昼の配列に戻し、札を袋に仕舞う。クロは俺の膝に前足をのせ、「おわり?」と目で聞く。
「“見る”は終わり。今日は歩く。萱橋は渡らず、川上の渡渉点まで回る。尾を追いかける側が、橋で合図を待っている間に、こちらは先に進む」
「うん」相棒は胸を張り、尻尾をぴんと伸ばした。
出立前、ヘルミナが俺の足首に布を一巻き。擦れ止めだ。「今日の斜面は陽が強い。水をケチらないで」
「了解」
イリアが掲示札の束を整え、旅程に“小札”を挟む。〈柳丘→葦溝→小川の渡り→河骨の手前〉――段取りは短く。書きすぎない。
歩き出す。萱橋は背に回す。丘を回り込む小道は狭く、柳の根が露出している。サビーネが上から見張り、レオンが先頭で足場を拾う。俺は風の“筋”を膝下に通し、クロは鼻で左の崩れやすい面を嗅ぐ。「すこし、におい。あめのまえの、みず」
「午後に崩れるかもしれない。午前のうちに抜けよう」レオンが速度を半歩上げた。
陽が差し、柳の影が短くなる。丘の肩を越えた先に、浅い葦溝が一本。流れは弱いが、底が柔い。棒で深さを確かめ、草の根を踏み板にして渡る。クロが先に行き、三歩目でふと戻った。鼻を水面に近づけ、すんと鳴く。「あじ。あまい、すこし」
溝の上流側に、白い膜が薄く浮いている。粉を流した痕だ。ここも“線”に使われた。橋を避けて歩く者の鼻を下げるために。ヘルミナが藍布を水にひたし、膜をそっと掬って流す。「目に入るほどではない。鼻だけ気をつけて」
「クロ、鼻は上に」
「うえ」
葦溝を抜けた先で、一度だけ立ち止まる。道の向こうから、三人の列。荷は軽い。肩の線が不自然に揃っている。歩兵のくせだ。腕輪はない。だが腰に短い棒、靴の側面に糸の埃。橋の“連絡”を見に来る私兵崩れか。レオンが手を下げる。〈停止〉。
すれ違いざま、先頭が俺の棒に目を落とし、次にクロへ目をやった。クロは目を細め、前足を揃えて座る。尻尾は立てない。かわいい顔をしているが、視線はまっすぐ。男はひるんだ。肩の力が抜ける。俺は何も言わずに通り過ぎた。サビーネは彼らの背が谷へ消えるまで上で見続け、矢は抜かなかった。
午前の終わり、小川の渡りに出る。飛び石は四つ。間が不揃いで、三つ目が浅い。俺は棒で角度を指し、クロが鼻で石の表を確かめて「すべる」と短く言う。ヘルミナが藍布で石の滑りを拭き、サビーネが斜面に“ことり”と石を落として合図。レオンが先に渡り、俺とクロ、イリア、ヘルミナの順。足裏で石の角を掴む。膝下に風を一本。呼吸は短く。渡り切ったら、振り返らない。
対岸で一息。イリアが写本板に今日の線を増やす。〈萱橋=見/油皿・鈴〉〈葦溝=薄膜〉〈渡り四〉。
レオンが地図を半分だけ広げ、「午後は尾根筋を一本越える。夜は“河骨”手前の村外で仮泊。……萱橋は触らず通過。向こうは明日、空振りを拾う。こっちは先に骨へ」
クロが前足で俺の膝をとんと叩く。「ぼく、はな、がんばる」
「頼りにしてる」
相棒は胸を張り、喉をころと鳴らした。尻尾は控えめに揺れて、陽の粒をひとつすくった。
柳丘は背後に小さくなり、風の匂いが変わる。潮ではなく、乾いた土。内陸が近い。歩幅を揃え、音を短く。――“河骨”へ向かう。
◇
昼過ぎ、ギルド裏庭。石粉で四角に区切った練習枠の中で、俺は棒を肩で止める練習を繰り返した。
「止めて、数える。五、三、二」レオンが指を折る。「肩が浮く。肘を落として、手の内を柔らかく」
棒先が石粉の線をまたぐ寸前で止まる。肩の力を意識して抜くと、肘の角度が勝手に決まる。呼吸は短く。
「いい。受け流し→停止→視線、ここまで一連で。もう三本」
ヘルミナが足元に薄い布を置いた。「これ、滑り止め。砂を少し混ぜた。雨でも足が暴れないように感覚覚えて」
布の縁に足を掛けて踏むと、靴底がわずかに引っかかる。棒の衝撃が足へ来ても、腰が残ったまま止めやすい。
サビーネは梁の上で弦を半引きのまま見下ろしている。「投げるわよ」
小豆袋が二つ、ばらばらの高さで飛ぶ。俺は棒の側面で弾かず、**風の薄い“面”**を手の内から前へそっと押し出す。袋の角度が少しだけ逸れ、地面に落ちた。
「面が広い。狭く」サビーネの声。
「二呼吸で絞れ」レオン。
息を細くし、面の幅を肩幅に収める。二投目が滑って外れた。「それでいい」
クロは柱の影で前足を揃え、耳を前へ。「ぼく、ぴか、すこし」
「今日は銅線だけ」ヘルミナが慎重に言い、短い銅線の輪を地面に置いた。濡れ布も脇に。
クロの尾の先がぱち、と小さく光る。細い火花が銅に触れて弱く散り、何も燃えない。ヘルミナが頷く。
「十分。乾いた樹脂糸だけ反応させる強さ。火口や粉へは使わない、今はここまで」
「わかった」クロは胸を張って座り直した。真面目な顔。かわいい。
イリアは板札に短く記す。
〈停止=五三二/面=肩幅/雷=銅線のみ〉
「札、洗い出し完了。貼る場所は裏庭の扉内側でいい?」
「いい。出入りのたびに目に入る」
汗が冷える前に切り上げ、装備の確認に移った。棒の革キャップを外し、フーゴの店で付けてもらった薄い口金の緩みを確かめる。紐の結びは赤糸が基準。ずれていない。
荷は、三日分の乾パン・干肉・乾果。粉物はヘルミナの袋へまとめ、塩抜きの干し魚はクロ用に別包。傷薬、香草油、藍布、替えの包帯。小袋に銅線輪を二つ。
昼前にフーゴのところへ寄ると、親父は棒を受け取って布で一拭き。「音、減ったな。いらない音は昼に落とせって言ったろ」
「落ちました」
口元が少し緩む。「旅の外套は?」「買います」
「重さに気をつけろ。肩が固まると止まらん」
クロに指でこつん。「紐は噛むな」「かまない」いつものやり取りで、気が少し軽くなる。
市場では、白樺亭のマルタが顔を出した。「干物、塩弱めのが入ってるよ。猫さん用に小分けするね」
「助かります」クロは「のむ」と小さく返事をして、果実水の皿に舌を伸ばした。喉がころ、と鳴る。
道具屋では旅用の薄手外套を合わせ、フードの視界をレオンが確認。「視野、右が詰まる。裾は一指短く」
「了解」店主が素早く縫い上げる。ヘルミナは薬包を選び、イリアは封札の予備と小判木を買い足した。
ギルドに戻ると、掲示板の前に人が集まっていた。木札の端に新しい欄。
〈出立届:蒼雷旅団/先導:レオン/副:サビーネ/補:ヘルミナ/記:イリア/隊付:アキラ・クロ〉
ミレイユが机の奥から隊名登録の紙を持ってきた。「署名と印を。出発時刻も」
レオンが最初にサインし、サビーネ、ヘルミナ、イリアと続く。俺は最後に名前を書いた。クロは前足で印泥をちょんと踏み、小さな肉球印を端に押した。
周囲から微かな笑いが起き、すぐ静まる。ミレイユは押印を確かめて、出立札を渡した。「門で見せれば通る。内陸“河骨”の件は途中で一度、連絡を」
「受けました」セルジオが別紙を差し出す。「経路案。萱橋—柳丘—河骨。橋ごとに鈴の調子が違う。記してある」
掲示の脇で、二つ上の先輩組がこちらを見ていた。革鎧の肩に擦り傷が多い。
「萱橋の手前、斜面が崩れやすい」一人が低く言う。「雨が来たら足を止めろ。駆け抜けると落ちる」
「感謝します」レオンが礼をし、俺も頭を下げた。
別の一人はクロを一瞥して笑う。「相棒、足音がないのは強い。山道は石の目が深い。肉球を冷やさないこと」
「きおつける」クロは短く返した。空気は荒れない。こういうやり取りが、背中を押す。
夕方、関所で通行札に留め印をもらう。ランベルトは鈴紐を手にしたまま、目だけ笑った。
「朝一で開ける。橋の鈴は門の調子とは違う。札の通り、無理に合わせるな。歩いて通せ」
「はい」
帰り際、門の足元でクロが立ち止まった。鼻を床石の目地へ近づけ、「あまい、すこし」
見張台からランベルトが降りてきて、目地を覗く。薄い白粉が線になっていた。ごく細い。
「尾の残りか。今夜、掃除をかける」
ヘルミナが布で線を上へ逃がし、俺は弱い風で吸い口を逆へ押し返す。粉は形を失い、匂いだけが薄く散った。ランベルトは短くうなずく。
「出立前に一つ消した。縁起がいい」
戻る途中、白樺亭の前でリナが手を振る。「早めの夕餉、あるよ。塩は薄い」
厨房から湯気が上がり、テーブルに野菜粥と薄いスープ。クロの皿は別。彼は座って前足を揃え、「のむ」と真面目な声で小さく言ってから、ゆっくり口をつける。尻尾が椅子の脚をとん、とんと叩く。
マルタが器を置きながら言った。「乾いた薄布を多めに持っていきな。靴も猫さんも、夜は拭く。足は命だよ」
「はい」布束を受け取る。重くない、けど心強い。
食後、部屋で荷の最終点検。棒の革を乾拭き、薄紙束は「門/路/河骨」の三つに分ける。封札の予備は手前。鈴紐は赤印の位置合わせ。
クロは窓際で肉球の間を丁寧に舐め、濡れ布で前足を一度だけ拭いた。「した、つめ、すこし」
「切ると滑る。今日はそのまま」
「うん」
イリアが扉を軽く叩き、短札を一枚差し入れた。
〈明け一番出立/萱橋手前で一息/昼は柳丘〉
「了解。掲示にも同じのを貼っておく」
「ありがとう」
寝る前、レオンとサビーネ、ヘルミナ、イリアが一度だけ顔を出した。声は短い。
「明け一番、白樺亭前。歩幅合わせて出る」レオン。
「屋根はない。斜面の影を使う。合図はことり一度のみ」サビーネ。
「水は先で足せるけど、朝は軽く。重いのを背に入れない」ヘルミナ。
「札、二部ずつ。一枚は濡れ用」イリア。
確認が終わると、すぐ散った。長話はしない。必要な言葉だけ残して切る。そういうやり方で、ここまで来た。
灯りを落とす前に、机の端で小さく風を作り、蝋燭の火を弱めて消した。ひどい疲れはない。ただ、体の芯が少し温かい。
クロが胸の上で丸くなり、左前足の黒い点で俺の腕をとん、と押す。「あした、いく」
「ああ。走らないで行く」
「うん」
外は静かだ。門の鈴は鳴らない。市場の灯が一つ、また一つ落ちる音だけが遠くで続く。
目を閉じる前、棒の握りと足の位置、五—三—二を頭の中で一度なぞった。息を整え、眠りに落ちた。
明け一番。歩幅を合わせて、街を出る。
◇
夜が軽くなる前に目が覚めた。外は冷えていて、息が白い。荷の紐をもう一度締め直し、棒の握りを確かめる。クロは窓際で伸びをしてから、前足をそろえて座った。「いく」
「行く」短く返して、部屋の灯を落とす。
白樺亭の帳場でマルタが包みを渡してくれた。干し果と薄い乾パン、塩を弱めた干物は別包。「昼まで噛めるやつ。猫さんのは紐に色を付けた」
「助かります」クロは包みに鼻を寄せ、ちいさく「うん」。尻尾が一度だけとんとん。
表に出ると、レオンが軒下で待っていた。鎧は軽く、肩は落ち着いている。
「歩幅、最初の一刻は短く」
「了解」サビーネは弓袋の口を締め、矢羽根を指で軽く撫でた。
ヘルミナは水袋の重さを左右で揃え、イリアは出立札の控えを革表紙の帳面に挟む。
「鈴の調子は門と違う。今日は無鈴。合図はことり一度だけ」サビーネが確認する。
「控えは節で切る。萱橋で一度“到着”、柳丘で“昼”」イリア。
白樺亭の前で円になり、短く手を重ねた。長い言葉はない。レオンが低く言う。「出る」
関所アルダは薄い朝色。門扉の前に立つと、ランベルトが見張り台から下りてきた。短槍の柄に手をかけたまま、目だけが笑う。
「明け一番、蒼雷旅団。通行」
「通す。……萱橋の先は斜面が湿っている。駆けない」
「受け」
通行札に留め印が押される。ランベルトは俺とクロを見て、顎で門の足元を指した。「昨夜の粉は落とした。鼻に変なのが来たら、上へ逃がせ」
「わかってます」
クロは欄干に前足をのせ、軽く「うん」。見張りの若い兵が目尻を下げ、「いい相棒だな」と呟いた。
門を抜ける。石の継ぎ目が土路に替わり、朝の湿りが靴底に移る。最初の一刻は言葉を少なく、呼吸を合わせる。五—三—二を心の中で刻み、棒の位置は腰の後ろ、いつでも前へ出せる角度。
クロは列の左前、尻尾を水平に保ち、足音は軽い。時々、石目を踏む前に肉球でとんと触って確かめる。
「石は乾き。草、ぬれ」
「草は避ける」レオンが即座に返し、列の角度が一つ変わる。小さなずれを前で吸って、後ろへ伝えない。歩幅は短く、崩れない。
丘の影から弱い川風。しばらくで萱橋が見えた。浅い谷に板を渡しただけの素朴な橋だが、川筋は太い。欄干の継ぎに古い縄の跡。橋台の脇で村の老人が一人、板を叩いていた。
「釘が甘い。渡るなら真ん中」
「助かります」レオンが礼を言い、俺たちは一人ずつ、間隔を空けて渡る。
板がぎしと鳴る。渡りきる手前で、橋台の裏に薄い白。ヘルミナが立てかけた杖でそっとかすめ、俺は“風”で匂いごと上へ逃がす。甘さがすぐ消えた。
「昨夜の残りだな」サビーネが短く言い、イリアが札に記す。
〈萱橋:粉痕=少/処置=上逃〉
老人が目を細め、俺たちの手を見て小さく頷いた。「道の手を知ってる。いいこった」
橋を越えると斜面が続く。土はまだ柔らかい。草の根が浅い場所は踏み抜きやすい。レオンが前で道の縁を拾い、サビーネが斜面の陰を目でなぞる。
「ここ、足を寄せろ。崩れやすい」
指示に合わせて列を細くする。クロは先に二歩出て、肉球で土を押し、「やわ」。前足で少しだけ掘って、土の締まりを見せる。
「脇へ」ヘルミナが短く言い、イリアが小石で**×印**を残した。戻る時の目印にもなる。
斜面の折返しで、上から小さな石がころりと落ちた。音は一つ。続かない。自然落下だ。立ち止まらず、歩幅だけ一段短くする。棒の握りを滑らせ、肩の力を落とす。止めて、数える――五、三、二。いつでも止まれる体の位置に戻す。
道が平らになったところで、前から荷車が一台。若い夫婦が押している。車輪の輪が泥で太い。
「おはよう」レオンが声を落とす。「前、ぬかるみ」
「ああ、昨日の雨で」夫が苦笑い。
前輪が泥に食いかけた瞬間、俺は“風”を面一枚で前へ出す。押すのではなく、泥の面の上を滑らせる。重さが少しだけ軽くなり、輪が溝を越えた。
「助かった」妻が頭を下げる。クロは荷車の軸の匂いをすんと嗅いで、「あぶら、おおい」。
「油が多いと土を拾います。布で軽く拭くと、今日の分は楽です」ヘルミナが布切れを一枚渡し、夫婦は礼を言って進んだ。
道の分岐で、木杭に焼印。「柳丘→」。刻は昼前。予定通りだ。
「ここで一息」レオンが言い、日陰を選んで腰を下ろす。水袋を一口ずつ回し、干し果をかじる。塩は弱い。喉が楽だ。
クロは草の上で肉球を点検し、前足の間を丁寧に舐める。「よし」。尻尾が一度だけぴっと立つ。
イリアが控えを板札に起こし、俺が読み上げる。
「『萱橋通過。粉痕処置。斜面一ヶ所迂回。柳丘前で小休止』」
札の余白に、ヘルミナが簡単な地形の線を足す。サビーネは弓弦の毛羽立ちを拭き、レオンは靴紐の結びを一段低くし直す。足は命。出立前に言われた言葉が、ここで生きる。
柳丘は小さな集落だった。畑の縁で、子どもが二人、縄を干している。縄の撚りが固い。海筋のものに似ている。
小屋の前で腰の曲がった婆が手を振った。「旅の人かい。井戸はそこだよ。……橋の上で甘い匂いがしたね」
「粉を少し見ました。上へ逃がしました」ヘルミナが答える。
「そうかい、ありがとう」婆は目尻の皺を深くして笑い、薄い粥を椀に盛ってくれた。塩がない。体に落ちる味だ。
クロは椀の前で座り、「のむ」と小さく言ってから、舌をそっと伸ばす。耳が気持ちよさそうに寝る。かわいい。
イリアは掲示用の短札を一枚書いて婆に預けた。
〈蒼雷旅団、昼過ぎ通過。萱橋処置済〉
「戻りの旅人が見たら安心する」婆は札を梁に挟み、「道の神さんも、そういうのが好きだよ」と笑った。
昼が終わる前に出る。日が傾くと斜面が冷える。柳丘の外れで、また分岐。杭の矢が「河骨→」。
「ここからは流路沿い。湿る」レオンが地図を指で押さえる。
予告どおり、路面は少し粘る。足の置き場を斜めにずらし、蹴らずに乗せる。俺は時々、薄い“風”で靴底の泥を剥がす。押し出さない。面を滑らせて落とすだけ。
クロは草の根の間に鼻を差し入れ、「いと」。樹脂糸が草に渡されていた。乾いている。
「乾きなら、銅」ヘルミナが輪を地面に置く。クロの尾の先がぱちと光り、薄い火花がふっと糸を外す。燃えない。切れない。ただ、張りが消えて落ちる。
「成功。追跡はなし。印だけ拾っていく」サビーネが糸の根を指し、イリアが短く記す。
〈河骨筋:樹脂糸=処置/乾〉
谷が浅くなるにつれ、風が前から集まってきた。流れの合図に使いそうな笛穴が道標の横に空いている。吹けば谷に響く形だ。試さない。サビーネが穴の内側を指で触り、煤がないことだけ確かめた。
「今は使ってない。けど、使ったことがある穴」
道の肩で、旅人の一団と行き違う。背に荷を負った商人と、護衛が二人。肩の革が新しい。
「北はどうだ」レオンが要点だけ問う。
「橋は無事。……河骨の手前で、狐尾の布が一本、杭に結わえてあった。誰かが剥がしてた」
「情報感謝」イリアが短く札に追記し、俺たちは歩幅を崩さずに別れる。
クロが俺の足首を小さくとんと叩いた。「こっち、くさ、つよい」
流れの縁から甘さが亡霊みたいに薄く上がってくる。昨日までの名残だ。風を上へ押し上げるだけで消える。押さない。乱さない。面を運ぶだけ。体は軽いまま、歩く。
日が傾き、影が長くなったころ、尾根の肩に上がる小道に出た。視界が開け、先の谷に低い煙。工房か、干し場か。地図の河骨印と合う位置。
「見張りの刻は、ここから始まる」サビーネが弦を確認し、矢を一本だけ袋の口から抜きやすくする。
「今日は近寄らない。入り口の数と、人の入れ替えだけ拾って、丘影に下る」レオン。
イリアは札を新しいページへ。ヘルミナは薬包を一つ、手前の袋に出す。俺は棒の革キャップを外し、握りの汗を布で拭いた。いらない音は昼に落としてある。今は動きだけ整える。
尾根の上、腰を落とした草地に出て、全員しゃがむ。クロは俺の膝に前足をのせ、顎を尾根の向こうへ。耳が前に寝る。「ひと、さん。かわる」
「三。交代一」サビーネが小さく復唱し、弦を半引きに。
谷の向こう、杭の影で人の影が入れ替わった。音は少ない。鈴は無い。布の合図だ。棒の先で布を一度だけ持ち上げ、すぐに下ろす。門の偽鐘とは違う手だ。
「調子、拾えた」イリアが札に走らせる。
〈河骨外:交代=二刻/合図=布一〉
日没前、丘影へ下った。今夜は近づかない。走らないで来た道を少し戻し、風の少ない窪地に陣を敷く。火は低く。煙は上へ逃がす。
荷を下ろし、足から順に手入れ。靴の泥を落とし、紐を乾かす。クロは肉球を拭いてから、尻尾の先を俺の手にくるりと巻きつけた。「きょう、いい?」
「ああ、いい日だ。歩幅、崩れなかった」
「うん」喉がころ、と鳴る。真面目な顔で、目が少し細い。かわいい。
粥を温め、干し果を少しだけ。塩は薄い。腹に落ちる。
交代で見張り。合図はことり一度だけ。無駄に音を出さない。
イリアが最後の札を出す。
〈本日:萱橋—柳丘—河骨外/粉処置・糸処置/交代拾い〉
札を革袋に納め、棒の握りをもう一度、布で拭く。五—三—二をなぞり、肩の力を落とす。
空が暗くなって、風が一段冷えた。谷の煙は細く、音は少ない。
クロが胸の上で丸くなり、左前足の黒い点で俺の腕をとん、と押す。「あした、もうすこし」
「ああ。もう少しだ」
目を閉じる。眠りは浅くていい。必要な分だけ取る。明けたら、河骨の喉の前で立つ。歩幅を合わせて。
蒼雷旅団記 ― 風使いの少年と黒猫の相棒 @u7046
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