第35話 「狐の尾を踏む」

 夜の川が静かだった朝は、街の色がいくらか明るい。白樺亭の窓を押し上げると、湯気の向こうでマルタが鍋を回し、リナがパンを切っていた。

「昨日の“先出し”、うまくいったってね」

「はい。橋は静かでした」

 クロは椅子の背に両前足をのせ、切れ端のパンをじっと見つめる。鼻先でふうと冷ましてから、前歯で少しずつ。ひげにスープの玉が一滴つくと、舌でていねいに回収した。

「きれい好きだねぇ」リナが笑って、布を一枚くれる。クロはそれで自分のひげを“ぽんぽん”と軽く叩く。満足げに尾がぴんと立った。


 関所アルダは朝の光で白く、塔影の下でランベルトとセルジオが帳面を挟んで立っていた。並ぶのはサビーネ、ナディア、ギルド側からはベンノとミーナ、それに写しのイリア。

 セルジオは短く要点だけ言う。

「昨夜押収の蝋板に『狐印/北門三/夜五』。黒灯は二本落とした。今夜、“倉庫ごと封じる”。衛兵・渡し・用水組合・ギルドの四手で囲う」

 ランベルトが続ける。

「少年と猫はサビーネと一組、外から合図。粉と甘匂いは風で外へ逃がせ。内部は衛兵が入る。暴れたら、弓の音で止める」

 サビーネがこちらを見た。「動きは昨日までと同じ。早口は不要。合図は一度で足りるように」


 ギルドへ戻る途中、広場では冒険者たちが朝の受注板を見上げていた。皮鎧の若者たちが「狐印」の貼り紙に眉をひそめる。ひとりがこちらに声を投げた。

「噂どおり、猫連れの少年か。……黒灯、ほんとに消せたのか?」

「屋根と地上で二人いれば、できます」

「ふうん。なら今夜は見物だな」

 からかい半分。けれど背中の弓の手入れはきちんとしている。ベンノが横から割って入った。

「見物は遠くで。衛兵の手の中だ。——お前らは石畳の『砂糖遊びを紙でやれ』の札でも直してこい」

 若者たちは肩をすくめ、笑いながら去っていく。肩口で揺れる狐皮の飾りが目に引っかかった。あれも、あの倉庫筋の品だ。


 受付に顔を出すと、ミレイユが厚紙台紙を三枚渡してくれた。

「倉庫前に貼る“通告札”。『内検中・立入禁止・衛兵通達』。言葉は強く、短く。——写しはイリアが持つね」

 イリアは炭筆を耳に挿し、「凡例は橋と同じ並びで」と余白に印を描く。

 白ローブのセレナも出てきて、俺の喉と手首をさっと見た。

「声は届いてた。今日は息を細く“長め”。風を糸みたいに使って、においを上へ逃がすの。——練習しよ」

 台所の隅、火をつけていない小さな蝋燭を一本。セレナは笑って言った。

「炎は出さない。芯の上の空気だけ、少し上に押し上げるつもりで。息は先に吐いて、胸じゃなくて脇腹で足す」

 俺は呼吸を整え、人差し指の先に意識を細く集める。蝋燭の上の空気がわずかに揺れ、立っていた“見えない糸”がふっと浮く感じ。

 セレナがうなずいた。「それ。——喉には負担が来ないはず。猫さんは水、多めで」

「のむ」クロは小皿に顔を寄せて、ぺちぺちと音を立てずに飲む。周りの冒険者が一瞬目を奪われ、笑みがうつる。空気が柔らかくなった。


 鍛冶通りではフーゴが店先に低い台を出し、細い革の手甲を二組並べた。

「昨日、脇やったろ」

「かすり傷だけです」

「ならなおさら。棒と短刀、両方握れる薄手。風でも指が冷えないよう、内側に薄い毛。銅四」

「お願いします」

 手甲をはめると、掌の曲がりが気持ちよく決まる。フーゴはさらに麻紐を半巻きと、小さな革石袋を渡した。

「投石用。石は軽いの三、重いの一。猫がぶつけない高さにしとけ」

 クロは袋を覗き、「きれい」と言って鼻先で一つだけころんと転がした。すぐ自分で追いかけ、前足で止める。肉球がちょっと誇らしげに見える。


 昼前、倉庫筋の下見。狐印の並びは北門から三棟、通りに面した扉は真新しく、裏の水路に細い板橋が渡っている。昨日渡った板橋よりも古い。釘の頭が盛り上がり、猫幅ぎりぎり。

 クロは板の端を鼻で確認してから、ひょいと渡る。ひげが板の縁を測るみたいに左右へ揺れ、そのたび尾の角度がすこしずつ変わる。降りた先でこちらを見上げ、「いける」と小さく鳴いた。

「合図の伝わりを試す」

 サビーネが裏の窓枠を指で叩き、小さく音を置く。俺は通りへ回り、表札の釘に軽く触れて同じリズムを返す。——響き方で距離感がわかる。今夜の“音の道”を頭に入れる。


 そのまま用水組合へ寄ると、ナディアが鍵束と薄青の布帯を三本渡してきた。

「『封』の印。衛兵と同じやつ。貼ったら外すのは通達持ちだけ、っていう約束印」

 布帯を肩に掛けると、クロが尾で“一本ちょうだい”をやってくる。

「一本は猫用」にして、首に触れない高さで背の袋に結んでやると、彼はたいへん誇らしげに廊下を歩いた。組合の若い衆が見つけて「隊長猫だ」と笑うと、クロはさらに胸を張る。爪は出さない。歩幅が少し伸びる。


 午後、ギルドの大部屋は珍しく静かだった。夜の一斉封鎖が回覧で回っているからだ。

 ミレイユが板を叩く。

「分担の最終。——北門三は『衛兵二組・弓一・補助二・写し一・猫一』。周辺の筋は『渡し・用水・鍛冶・商組合』が要所につく。外へ抜けた場合は関所へ走るルートも確保済み」

 ベンノが短く補足した。

「“狐”は人を斬らないで逃げる型だ。昨夜もそうだった。だから紙で囲む。戸の外で騒ぎを作らない。合図は一度で済ませる」

 サビーネが弓弦を指で弾き、「屋根は任せて」と言う。

 イリアは薄紙の見取りに小さく猫印を足した。「クロ、ここで合図を拾う」

 クロは見取り図の猫印に鼻をちょん、と触れる。「にゃ」


 顔合わせの最後に、ランベルトが来て帽子のつばを指で叩いた。

「“狐の尾”を踏み折るのは、今夜一本で終わらない。——だからこそ、最初の一本を静かに折る。……少年、猫、頼んだ」

「はい」

 言葉はそれだけで十分だった。


 日が傾く。黒灯はもう出せない。鈴も渡しの一本だけ。相手は今夜、合図の道具を失ったまま動く。ならば、足で合図するはずだ。人の手の癖が出る。

 夕餉前の白樺亭で軽く腹に入れ、クロは塩抜きの粥をゆっくり舐める。食べ終わると、椀の縁にひげが触れた場所を自分でぴしっと整えた。

「えらい」リナがひそひそ声でほめると、彼は照れくさそうに尾を小さく振って、窓の外を確認する。雲の流れ、風の向き——今夜の空気を、猫は猫のやり方で読む。


 刻四。北門三の通りに影が伸びる。

 衛兵は両端の角に、弓は屋根に、用水組合は水路に。俺とクロは裏の板橋、サビーネは表札の上。

 合図は最小限。声は要らない。

 通りの石の呼吸が、夜に向けてゆっくり変わる。


 猫のひげが、ふっと前へ。

 風の向きが半分だけ返った。

 ——来る。



 北門三の筋に、夜の気配が濃くなる。裏の水路は音を呑み、板橋の上に月の細い筋が落ちていた。

 クロがひげを前へ寄せ、耳をすこし倒す。合図はいらない。「来る」の形だ。


 最初に現れたのは荷車ではなく、腰に短い梃子棒を差した足軽い二人組だった。通りの石を“とん・とん・とん”と靴で叩く。昨日昼に試した窓の返響とほぼ同じ間合い。——合図を足で、だ。

 屋根の縁でサビーネが体勢を落とし、弓の向きを扉脇へずらす。俺は板橋の影から一歩だけ出て、胸の前で手を返す。糸みたいに細い“風”を裏戸の合わせ目へ送る。内側に漂っていた甘い匂いが、すうっと奥へ戻った。


 若い方が戸に耳を寄せ、息を止める音がした。閂が少し上がる。開きかけた隙間に、外の空気が静かに染み込む。甘さが外へ逃げない。馬を持つ手が緩む気配はない。——いける。


 裏戸が半分だけ開いた瞬間、クロが床に影のように滑り込む。前足で笛の形を探すように視線を走らせ、腰袋の膨らみを見つけると、ぱしっと軽く叩いて落とした。笛は板の上をころころ転がり、クロは前足で静かに“押さえる”。尻尾だけ高くして、こちらを見る。

 若い方が思わずそれを追う。梃子棒の手元が上がる。俺はその手首に棒を軽く当て、すべらせる角度で上へ弾いた。棒は壁を叩き、音が一度。サビーネの矢が扉の鴨居に“かん”と打って、注意をそちらへ引きはがす。屋根からの一打。静かだが強い。


 もう一人の男は裏戸の陰から短刀。床すれすれの横薙ぎ。俺は前足一本分だけ下がり、手甲の内側で刃の腹を受けて上に逃がす。刃先が柱にこつんと当たって止まる。男の肩がすこし空いた。

「武器を置け。——外は囲んでいる」

 声は抑えたまま。戸口の影で、イリアが小さく頷いて筆を走らせる。衛兵の二人は通りの角に立ったまま、槍先をわずかに傾けるだけで道の幅を塞いでいた。派手な動きは不要だ。


 表のほうで、別の足音。小さな車輪の軋み。粉を積んだ手押し車が通りの端に入ってきた。押しているのは年嵩の男と、細身の女。女の肩に吊った黒い箱は、覆いのついた携帯灯——黒灯の代わりを持ってきたか。

 サビーネの矢がその箱の持ち手のすぐ脇、箱板の角をかすめる。箱が傾いて、覆いがずれる。中の火が吸気を失って弱る。俺は細い“風”をそこに重ね、呼吸を上へ押し上げた。炎はつままれたみたいにしぼみ、闇へ沈む。女の目が丸くなる。箱はただの重しに戻った。


 若い男は抵抗をほどくように腕を下げた。腰袋から滑り落ちた笛を、クロが静かに座ったまま前足で押さえ続ける。ちょっと誇らしげな顔。サビーネが屋根の縁に片足を掛け、短く言う。

「この場はおしまい。——荷はすべて押収、見届けは衛兵」

 ランベルトが角から現れ、帽子のつばを一度だけ叩く。衛兵が合図もなく前へ進み、縄を使わずに手首だけまとめて“封”の布帯を巻いた。布帯の印が月光を鈍く返す。外すのは通達持ちだけ——街の約束だ。


 押収の段になって、奥の棚の下から低い音。床を滑る薄い木板。若い男が目を伏せる。俺は棚の足を片手で持ち上げ、指先で梁を探る。空洞。

 薄い蝋板が二枚、束になって出てきた。

《狐/北門筋/夜五/白◦三束/合図:足三・板二》

 合図の数まで刻んである。足三、板二——たしかに、さっきの“とん・とん・とん”に続けて板を二度叩いていた。

 イリアがその場で写し、蝋板を布に包んでランベルトへ渡す。衛兵は頷き、袋を裏口の内側へ一つ残した。「通達済み」のしるしにするためだ。


 表の筋で“ぱん”と乾いた弾け音。火花か——心臓が一瞬はやく打つ。

 サビーネが屋根から身をひねって、空を見た。「信号弾」

 通りの先、狐皮の肩飾りを付けた影が、角で火打ちを打っている。棒の先に乾いた薬筒。上に撃ち上げれば、仲間に場所が伝わる。

 遠い。矢は通りに人がいるから使えない。

「クロ」

 呼ぶより早く、彼はしっぽをふくらませ、背の毛がぱちぱちと立った。

 空気が乾いて、指先に小さな静電の痛みが走る。——黒灯の夜、何度か感じた“あの感じ”。クロの体から生まれる、ごく小さな“雷”。

 猫が地面を“とん”と蹴った瞬間、信号棒の火がふっと萎み、火粉が斜め上に流れた。俺は受けて、細い風でさらに上へ押し上げる。薬筒は空中で不発のまま、川筋の黒へ落ちていった。

 渡し小屋の方角で、合図の鈴が一度だけ鳴る。「落下、無害」。約束の音だ。


 信号を潰された影は、踵を返して屋根に駆け上がる。細い鉤縄。壁の目地に針のように刺さる音。

 サビーネが狙いをつける。肩ではなく、肩から提げた袋。矢が袋の口を裂き、何かが石の上に転がった。影は振り返らない。屋根から屋根へ、狐のとびで闇に切り込む。追えば届く距離。でも、衛兵が扉を“封”で固めている最中だ。抜けを作るわけにはいかない。サビーネは弦を緩めた。

 クロが転がったものへ行って、ちょいと前足で寄せてくる。銀色の細工——小さな尾の形の金具。裏には小さく紋。「尾章」だ。狐筋の幹に近い者が下げる目印。

 ランベルトが拾い、眉をほんの少しだけ上げた。「尻尾を一房、もらったというわけだな」


 押収した粉袋は用水組合の印で封され、樽は鍛冶組の石楔で戸口の内外から固定された。表の“通告札”はイリアが貼り、俺が二結びで留める。

『内検中・立入禁止・衛兵通達』

 硬い文字が夜気の中でよく見える。人通りはすでに衛兵の誘導で細くされ、遠巻きの見物だけがいくらか。子どもは連れて来られていない。大人の目が通りに戻るのは、明日の朝だ。


 裏の板橋を外に向かって渡すとき、クロが立ち止まり、鼻先を少し上げた。

「なに?」

「……におい、かわった」

 風上の屋根の向こう、わずかに油と薬の匂い。さきほどの信号筒と同じ調合。誰かが別筋で予備を試している。ここは片付いたが、端はまだ生きている。

 サビーネが頷く。「今夜は“尾を踏む”だけ。根は明日以降。——渡しと関所に“尾章”を回そう」


 衛兵への引き渡しが終わると、ナディアが水路から上がってきて、濡れた手で髪をきゅっと束ねた。

「流しの下流にも粉袋が二。流して逃げる気だったんだろうね。全部拾った。——猫隊長、よくやった」

 クロは水路の縁に前足をそっとかけ、ナディアの手のにおいを一度だけ嗅いでから、胸を張る。「にゃ」

 褒められ慣れていない顔だ。ひげが左右へ品よく揺れる。その拍子に、首の小さな“封”の布帯がふわりと揺れ、月の光を柔らかく返した。


 関所に向かう途中、通りの角でフーゴの徒弟が石楔の予備を抱えて合流した。

「親方が言ってた。“戸は閉じたら、外からも噛ませろ”。——あ、猫様」

 クロは徒弟の靴先にそっと鼻を当て、すぐ顔を上げて「良し」と目を細める。徒弟が小声で笑う。「検査、合格だ」


 ラストの見回りを終え、北門の塔影の下で、ランベルトが夜のまとめを短く言った。

「倉庫三、封。押収:白◦袋十二、蝋板四、尾章一。人:拘束三。逃れ一——負傷なし、火の事故なし」

 セルジオが写しを受け取り、尾章を手に取る。「……根の名がそろそろ出る」

 彼は尾章の裏の紋を指でなぞり、明日の段取りの欄に“名寄せ”と記した。

「今夜はここまで。——各組、抜け確認」


 解散の前、クロは自分の首に結んだ“封”の細帯を前足でちょいと触り、こちらを見上げた。

「おわり?」

「終わり。帰ろう」

 道すがら、彼はいつものように足元の石の隙間を一つずつ踏み分け、ひげで風の端を測る。時々ふり返って、尾で「ついてる?」と聞く。

「ついてる」

 答えると、彼は満足そうにまた前を見る。今夜の街は、静かだった。


 白樺亭まで戻ると、リナが戸を半分だけ開けて待っていた。

「遅かったね。——薄いスープ、温め直してあるよ。猫さんはお水」

 クロは椅子に前足をのせ、ひげを整えてから静かに飲む。椀の縁に水玉がつくと、いつものように自分で“ぽんぽん”。

 マルタが鍋を回しながら目だけ笑う。「その布帯、似合うじゃないか。隊長さん」

「にゃ」

 その一声に、今夜の張りつめがほどけた。


 明かりを落とす前、尾章を布にくるんで袋の底へ。蝋板の写しはギルド行きの束に重ねる。

 明日は“名寄せ”。狐の尾の根元に、手が届く。

 窓を指一本だけ開けると、川からの冷気が細く入ってきた。クロが胸の上に丸くなり、尾で自分の鼻先をそっと隠す。指先に、昼に覚えた“糸の風”の感覚がまだ残っている。

 眠る前に、一度だけ深く吐いて吸う。——静かな夜のまま、目を閉じた。



 北門の川風は、夜になると塩の匂いを運ぶ。倉庫街の並びに「狐」の焼印が三つ続き、その真ん中——三番庫の裏手だけ、板壁が一度貼り替えられている。木口が新しく、釘の頭に煤が薄く散っていた。


「正面は固い。裏から入るよ」サビーネが囁く。屋根の棟に身を伏せ、矢筒の金具を指で押さえて音を殺した。


 板壁と土台の隙に、古い排水溝が一本。幅は猫が通れるくらい。クロが鼻を近づけ、ひくひくと嗅ぐ。


「なか、しろいにおい。すこし、くさいのも」


 甘粉の残り香に、油と鉄の匂い。人の手が最近入った印だ。俺は膝をつき、溝の石を二つ外す。緩んでいた。狙って緩めてある——逃げ道か、抜け道か。


「ぼく、いく」クロが尾を立てた。


「待って。合図は二回爪——がり、がり」


「うん」


 黒い背中がするりと暗闇に溶けた。数呼吸。続けて——小さく「がり、がり」。二回。奥は空いている。


 俺とサビーネは、板の継ぎ目を短い刃で割る。音を出さないよう、刃先に薄布を巻き、木の繊維を押し分ける。隙間の向こう、灯は一つ。低く揺れて、物の影を大きくしたり小さくしたりしている。


 抜けて中へ。樽、麻袋、木箱。奥に、蓋を外した箱。内側に缶——粉と砂の束が半分。手前の作業台には、黒い蝋板が二枚と、帳面の切れ端。指で触れると、細い刻みが爪に当たる。


 ——《夜五/黒◦×二/合図:短笛上げ下げ/“狐主”立会》


 狐主。倉庫組の取りまとめ。末端じゃない。


 木箱の影から、短い息が漏れた。クロが箱の隙間に前足を差し入れ、小さく振り向く。「くる」


 足音が二つ。扉の閂が外れ、薄い灯が差し込む。外套の裾に灰の指——灰指の腕輪。もう一人は、腕輪の色が濃い。刻みが二重。指揮役だ。


「合図は夜五。今は準備だけだ」落ち着いた声が言う。「灯は——」


 そこでサビーネの矢が、扉脇の柱にどすりと刺さった。影が止まる。次の瞬間、俺は掌を返し、灯の炎を“風”で浅く絞る。視界が揺らぐ。指揮役の手が短剣へ走った。速い。躊躇がない。


 俺は木箱の角を踏み台にして一歩詰め、刃の付け根を棒で打つ。手首が返り、剣が転がる。相棒のほうが短弩に手をかけた——が、クロがすでにそこにいた。黒い影が弩の弦に前足をかけ、ちいさな火花がぱちり。雷が弦に走って、音だけを奪う。びくりと肩が跳ね、矢は床で空しく転がった。


「武器を置いて、手を見せて」俺は言う。声は静かに。


 指揮役は一瞬だけ目を細め——棚の奥へ身を引いた。逃げの手順。床に小さな板金。踏めば鳴る仕掛け。位置を知っていれば避けられる。


 サビーネの二本目が床板の手前に落ち、乾いた音だけで男の足を止める。「動けば騒ぎになる。損だよ」


 その隙に、俺は作業台の蝋板を懐に滑らせ、粉袋に押収の印を紙で挟む。手順は乱さない。情報と荷——どちらも逃がさない。


 沈黙。息が四つ分だけ重なり、切り分けられる。指揮役がわずかに顎を上げた。


「……誰の差し金だ」


「街の人たちの歩き方を戻したいだけ。路に砂糖を置くと、馬が怪我をする」


 子どもに言ってきた言葉をそのまま返す。嘘がないほうが、刺さることがある。指揮役の肩が僅かに抜け——代わりにあきらめの固さが背中に張りついた。


「腕輪を外して、床に」


 相棒のほうが先に手を上げ、帯の小刀を床へ置いた。指揮役も続く。腕輪が床でからりと転がる。灰の指が、ただの革になる瞬間。


 外から短い鉄の音。合図——ランベルトだ。サビーネが頷き、矢を下げる。俺は戸口を開け、静かに呼ぶ。


「中、二人」「了解」ランベルトが入ってくる。目が荷と蝋板を見て、すぐに表情を切り替えた。「押収する。……少年、猫、サビーネ。北門側はもう一隊回してある。残りの灯も落とせるはずだ」


「夜五の合図、『短笛の上げ下げ』」俺が蝋板を示す。


「受け取った。笛の持ち込みを絞る」


 拘束は衛兵に任せ、俺たちは裏口から抜けた。外の風はさっきより冷たい。クロが前足をとん、とんと石に当て、尻尾で「つぎ?」と書く。


「もう一本、黒灯があるはず」サビーネが空を見上げる。「西側の細路だ。刻は間に合う」


 走らない速度で、急ぐ。板橋を渡ると、川の音が近い。街の夜は浅い紺から黒に変わろうとしている。灯の立つ刻(とき)だ。


 路地の角を一つ折れるたび、甘さが薄くなる。灰指たちは動きを止めたのか。あるいは——。


「アキラ」サビーネが足を止め、指で前を示した。


 細い路の行き止まり、石壁に掛けられた黒い覆い。下に祭壇。白い束は一本だけ。けれど、火の番はいない。代わりに、壁板の隙に細い管が二本這っている。管の先は——地下の小樽。灯を落としても、匂いを続けられる仕掛けだ。


「やり方を変えてきたね」俺は膝をつき、管に耳を寄せる。かすかな音。落差で粉を吸い上げる細工。誰かが考えた。


「切る?」サビーネが尋ねる。


「うん。でも一気にやると粉が飛ぶ。クロ、鼻を守って」


「まかせて」クロは前足で自分の鼻をそっと押さえ、目をきゅっと細めた。可愛い、と思う余裕が少しだけ生まれる。


 俺は手のひらを管の根元へかざし、そっと“風”を逆向きに流す。細い流れを戻してから、短刃で管を切る。空気が一度だけ吐息のように抜け、匂いがふっと途切れた。


 灯は覆いを外して芯を摘む。黒い指の印は——ない。代わりに、壁の継ぎ目に薄い紙。剥がすと、蝋板とは違う、染みを吸いにくい紙に墨でこうあった。


 ——《夜五/合図中止/“狐主”移動》


「逃げる気だ」サビーネの声が固くなる。


「移動先、当てを——」と言いかけたとき、路地の入り口で金属がこつんと鳴った。衛兵の鉄靴の音ではない。軽い。逃げる足音でもない。来る足音。


 影が二つ。外套のフードを深く被り、こちらを見たまま止まる。片方の背の高さ、歩幅、癖のない立ち方——どこかで見た。


「……ベンチに座りがちな商人風」サビーネが小さく呟く。


 俺の胸の奥で、冷たいものがひとつ落ちる。この形は、昼間の広場で見かけた「何でもない顔」で周囲を流す手合いに近い。真ん中の人間(ひと)だ。


「灯を消すのが上手いって噂は本当みたいだな、少年」


 笑っていない声だった。フードの奥の目が、暗闇に慣れている。狐主、か。その隣の影は、腰の位置が低い。体幹が強い立ち方。動いたら速い。


 サビーネがひと言。「上は取ってるよ」


 屋根の上、別の矢の気配が重なる。彼女の相棒——夜番の弓がもう一人ついてきていたのだ。狐主の肩が、ほんのわずかに沈む。


「荷は押収済み。腕輪は外す。次に同じことをしたら、関所通しになるよ」


 俺は短く言う。言葉を増やさない。増やせば、そこに嘘が混ざる余地が生まれる。


 沈黙。川の音だけが遠くで続く。やがて、狐主は肩で笑った。


「子どもの理屈だ。だが夜の動きは止めるよ。……今日はね」


 踵がわずかに返る。逃げの気配。サビーネの指が弦をなでる音。緊張が張る。


「追う?」彼女が問う。


 俺は一瞬だけクロを見る。猫は小さく首を傾げ、それから尻尾で床をとん、とんと叩いた。「いまは、ひと、たくさん」


 倉庫街の角々に、衛兵の影。騒ぎを大きくすれば、一般の人が飲み込まれる。ここで引くのは、次に繋げるためだ。


「——今夜は引く。代わりに、紙を残す」


 俺は押収印の紙に短く書き、壁に貼った。

《黒灯——押収。狐印三番庫・荷一式・関所搬送中。夜五の合図——中止済》


 狐主は何も言わなかった。ただ、踵の返し方だけとても静かだった。音が消え、路地に夜の湿り気だけが戻る。


 クロが前足を伸ばし、爪をちょいと出して大きく伸びをした。「おわり?」


「今夜は、ね」


 小さく夜風が抜けた。甘さはもうない。サビーネが矢を筒に戻し、肩の力を落とす。


「帰ろう。関所へ回して、ギルドに控え。——それから、少しだけ熱いスープ」


「のむ」クロが即答する。尻尾が、薄闇の中で小さく弾んだ。



 関所アルダの塔影は、夜が深いほど静かになる。門衛の槍先が並び、鉄靴の音が短く刻まれて消えた。押収袋を抱えたランベルトが先に詰所へ入り、俺とサビーネ、クロが続く。


 机の向こうでセルジオが帳面を繰った。赤い印泥の匂いがわずかに立つ。


「黒灯——二、消火。祭壇粉束と管の細工。蝋板は三。……受領した。狐印三番庫の封鎖は?」


「衛兵二組で囲い済み。北門側は『短笛の上げ下げ』を止める通達を回している」ランベルトが答え、袋から白い束と管の切れ端を出す。


 セルジオは薄手の手袋でそれらを受け取り、蝋板を光にかざして刻みを読み取った。眉が少し下がる。


「“狐主”に動き。夜五を見合わせたか。……一息で報告、補助」


「『乾燥塔と南脇で黒灯を落とし、白粉束と蝋板押収。狐印三番庫の裏から搬出の細工。管は切断。路上への粉流しは止めた。——狐主と接触。引いた』」


「十分」


 セルジオは赤印を三つ、蝋板受領の欄に押した。次に、薄い札を二枚、俺たちに滑らせる。


「夜の控え札。ギルドに副本、門に一枚。……少年、ひとつ聞く。『引いた』理由は?」


 視線がだけ、深い。責める色ではない。判断の筋を確かめに来ている。


「倉庫街の角に人が増え始めていました。衛兵の影も。ここで追えば、騒ぎで巻き込む人が出ます。荷と情報は押さえています。次に繋げます」


 セルジオの指が一度だけ机を叩いた。短い肯定の音だ。


「よい。夜五以降は門側の聞き込みを厚くする。“狐主”の外套の癖、歩幅、声の高さ——気づいたことがあればギルド控えに記せ」


「了解」


 ランベルトが副官に目配せし、押収品を倉庫へ運ばせる。帰り際、彼はクロの頭を指でこつんと触れた。クロはぴんと尾を立て、役目の終わった帽子みたいに前足を揃える。


「おつかれ、相棒」


「おわり」


 詰所を出ると、塔上の見張りが笛を一度だけ鳴らした。交代の合図。それに重ねて、北門方面から別の笛が応える。短い上げ下げはない。通達が行き渡ったのだ。


「戻ろう。控えを書いて、喉を温めよう」サビーネが矢筒を肩で押し上げる。


 クロは俺の足首に額をかすめてから、ちょこちょこ前を歩いた。石畳の継ぎ目を踏むとき、肉球がとん、と小さく丸い音を置いていく。夜でも、かわいい。


 ギルドは夜番の灯だけが点いている。掲示台の手前にミレイユが立ち、帳面とスタンプを用意していた。


「関所から来ると思ってた。——黒灯、二落とし?」


「二。祭壇粉束と管細工。蝋板三。『短笛の上げ下げ』中止が回った」


 ミレイユは一気に要点を板へ書き込み、赤い“済”印を欄外に押す。


「街側掲示は『甘粉は紙で』と『灯の覆い申告』を並べておく。夜明けに張り替え。……補助、控えお願い」


 薄紙に、一日の流れを短く落とす。乾燥塔→倉庫南脇→狐印三番庫→西の細路。出会いと判断。押収物。合図の形。狐主の気配の癖。


 書き終えると、ミレイユは一歩近づいて俺の横腹に目を落とした。


「さっき当てられてない? 動きが少し固い」


「大丈夫。皮の下で少し」


「医務。今」


 有無を言わせない口調で、俺の肩を軽く押した。クロは「いく」と短く答え、先に医務室の戸を鼻で押す。慣れた手つき——鼻つき?


 白い瓶と布の匂い。セレナが手を洗い、灯の高さを俺の目線に合わせて下げた。


「横腹、見せて」


 衣を少し上げると、赤い擦り傷。服の縁と棒の柄が当たったところが少し焼けるように痛む。セレナは息を小さく吐いて、冷たい薬を指で伸ばした。


「浅い。今日は温→冷は不要。洗って、塗って、包む。——猫さん、弦に稲妻をふっと流した?」


 クロが胸を張って小さく「うん」と鳴く。


「あれは便利だけど、使うとひげが少しばちばちするから、今は水を舐めておいて」


「のむ」


 ミレイユが持ってきた薄いスープが脇の台に置かれた。湯気が小さく揺れている。セレナは包帯を一周巻き、結び目を外へ出してから、俺の喉を一瞬だけ見て頷いた。


「声は出てる。今日は短い言葉で終わってるね。——よくやった」


 誉められると、熱が少し上がる。短い言葉で返す。


「続けます」


「続けて」


 クロは小皿の水を真面目な顔で舐め、舌の先に水珠を一つ乗せた。落ちる直前に、くしゅんとくしゃみ。水が鼻に入ったらしい。ミレイユが笑いを飲み込んで肩を震わせる。セレナは真面目な顔のまま、布でそっと鼻先を拭いた。


「かわいい」


「かわいい」と俺とミレイユが同時に言って、三人で少しだけ笑った。


 鍛冶通りは火が落ちている。フーゴの店の前を通ると、戸の隙から声がした。


「もう閉めだ。けど——アキラ、その棒、いま見せろ」


 戸を開けると、フーゴが灯を上げて手招きした。棒の柄の端を撫で、革巻きの緩みを指で押さえる。


「夜の動きで汗を吸ってる。今のうちにここで一度締め直せ。二分だ」


「お願いします」


 フーゴは手早く革を外し、乾いた布で柄を拭う。薄い粉が布に移るのを確かめ、手のひらで木目の向きを整えながら巻き直す。


「よし。——猫、弦に触ったろ。ひげが立ってる」


「たってる?」


「うん。あとで舐めて寝るといい」


「なめる」


 会話が自然に続く。こういう夜は、緊張の余韻を柔らかくしてくれる。


 白樺亭に戻ると、マルタがまだ帳場にいた。灯りを一つ落とし、湯気の立つ小鍋を台に移す。


「帰ったね。——薄粥、猫さんは塩なし。冷めないうちに」


「いただきます」


 リナがクロの皿に粥をよそい、小さな匙で表面をなでて冷ます。クロはきれいに前足を揃えて待ち、目の前に皿が置かれた瞬間、鼻を寄せて一口だけ舐めた。舌がちょっとだけのぞき、満足げに目を細める。尻尾が椅子の背で小さく左右に揺れた。


「おいしい」


「よかった」


 食べながら、短く今日を話す。黒灯のこと、粉の管、狐主の影。マルタは相槌を打ち、最後に一言だけ添えた。


「路を守るのは、声と手と、ちょっとの知恵だよ。剣は最後でいい」


 その言い方には飾りがない。厨房の手つきと同じだ。胸の奥で、少しだけ固くなっていたものがほどけた。


 部屋に戻る。インベントリを整える。押収控えの副本は革袋に、蝋板の写しは薄紙束の一番上に。棒は壁に立て、革巻きの端をもう一度だけ指で押さえる。クロは窓辺に飛び乗り、外の匂いを一つ吸ってから、ベッドに戻ってきて俺の胸に丸くなった。


「アキラ。きょう、つぎ、までいった?」


「うん。『次に繋げる』ところまで」


「つなげる」


 左前足の黒い点が、いつものように俺の腕にちょんと触れた。小さな合図。眠っていい、の合図でもある。


 灯りを落とす。外は静かだ。北門の笛は鳴らない。壁に貼ってきた紙の一枚一枚が、夜の間じゅう、人の目に入る。明日の朝には、また別の手がそれを読み、必要な人に伝える。


 狐主は引いた。終わりではない。だけど、今夜は路が保たれた。甘い粉の線は消え、黒い覆いはただのガラスに戻った。


 目を閉じる。呼吸が落ち着く。クロの喉が、胸の上で小さく鳴った。


 ——明日は、捜査の札を貼る場所を変えよう。北門の聞き込みを一段厚く。狐印の帳面に空白が出ていないか、ミレイユと照らす。セレナに包帯の巻き替え。フーゴには革の端が浮いてないか見てもらう。


 やることは多い。でも、ひとつずつでいい。


 クロの尾が俺の肘にふわりと触れ、そこから眠りが降りてきた。

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