第15話

 オペラ座の地下、知らなければ見過ごすような細い路地に、古びた木製の扉が一つ佇んでいる。

 この場所を知っているのはこの世でたった三人だけ。

 決して大きいとはいえないその向こうには質素な部屋があった。


 支配人としての仕事を終えたペトロニーユは、両手に紙袋を抱え、部屋の扉を叩く。

 古びた蝶番が音を立てて動くと、中からエステルが顔を出した。

 彼女は、差し出される袋を見て目を丸くする。


「まあ、どうしたのその荷物」


「君のために見繕ったドレスだ。

 来週の記念公演の時に来てもらうためのね」


 ペトロニーユは袋の中のドレスをテーブルに広げる。

 ゆうに十数着はあるだろう。流行を取り入れた煌びやかな造りで、使われる素材はどう見ても高級なものだ。


「ドレスなんて、一着あれば十分よ」


「滅多に自分で買い物をしないからね、加減を間違えたのかもしれない。

 さあ、そこに立って。 

 緑? 焦げ茶? 白も悪くない。

 あぁ、迷ってしまうな」


 手にしたドレスを代わる代わるエステルにかざしながら、ペトロニーユは鼻歌を歌う。


「どれでもいいわ、本当よ」


「君はファッションというものをわかっていない。

 悩むのも楽しみのうちなんだ」


「悩むべきなのは貴方じゃ無いと思うけど」


「もう、少しは黙っていて。

 うん、やはり君には黒が似合う」


 エステルに手渡されたのはシルク製の黒いロングドレスだった。

 他とは違う意匠の少ない簡素な形ではあるが、それがより一層、素材の良さを引き立てている。


「綺麗ね」


「これを纏った君は、もっと美しいだろう。

 ねえ、来て見せてくれないか」


 エステルは「わかったわ」と頷くと、鏡台の前へと向かう。


「本当、ペトロニーユは私に服を与えるのが好きね。

 お人形遊びが好きだったあの時から変わらない」


「何年も昔のことだ。

 あまり揶揄うのはよしてくれ」


「貴方にとっての昔は、私にとっての最近よ。

 私が何百年生きていると思っているの」


「ああ、君の悪い癖だ。

 そうやってすぐに年齢を盾に使う」


「だって本当のことよ。

 私が貴方くらいの年齢の時なんて文字を読むどころか、言葉らしい言葉も話せなかった」


 背中のボタンを閉めたエステルは、くるりと振り返る。

 照明を反射する闇色のスカートがたおやかに揺れた。


「着てみたけれど……大丈夫? どこかおかしなところはないかしら」


 舞うように、くるりくるりと身を翻して見せる。


「美しい。まるで黒蝶だ。

 お祖父様が地下の籠に閉じ込めたがるのも無理はないよ」


「こら、ペトロニーユ」


「ははは、冗談だよ。

 じゃあ最後に、此方を」


 ペトロニーユは荷物の中から、平たい木箱を取り出した。

 深いブラウンに金の仮面の紋章。

 エステルには見覚えがある。


「これは」


 丁寧に蓋が開けられると、中に入っていたのは一枚の仮面だった。

 装飾を控えた無駄のない白の仮面は、丁度エステルの右の顔にぴったりに重なる。


「今使っているものは古いだろう。これを機に新調しないか。

 私が最も信頼する職人に作らせたものだ。着け心地は保証するよ」


「まったく、いつの間に寸法をとったのやら」


 仮面を手渡されたエステルは、今身につけている仮面を外し、すぐさま新たな仮面を顔に添える。

 軽く首を回し、触感を確かめた。


「どう?」


「ひんやりとしている。心地いいし、顔にぴったりよ」


「それは良かった」


 ペトロニーユが満足そうな表情を浮かべると、背後の時計が鳴った。

 時刻は午前〇時を示している。


「見回りの時間だわ。

 行かないと。

 貴方も明日仕事なんだから早く寝ましょうね」


「はいはい。じゃあ、来週の記念公演楽しみにしているよ」


 ペトロニーユはエステルの手の甲にキスをすると、部屋をあとにした。


「どこであんなものを覚えてくるんだか」


 くすりと笑うと、普段着に着替え愛用の得物を手に取った。



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