第39話 氷上のトラウマと桜色の光
頭の中であの日の光景が、何度も何度もフラッシュバックする。
中学最後の全国大会。女子1000メートルの決勝。
私はあの時、人生で最高の滑りをしていた。
コーナーを抜けるたびに体が風になる感覚。
ゴールした瞬間、会場の電光掲示板に表示されたタイムは、今までの大会記録をコンマ数秒上回っていた。
「やったぞ、畑中!」
「大会新記録だ!」
監督やチームメイトたちが、自分のことのように喜んで私の背中を叩いてくれる。
頭が真っ白になった。
今までずっと、この瞬間のために歯を食いしばってきた。
努力が報われた。そう思った。
でも、その歓喜はほんの数分しか続かなかった。
最終滑走者、氷室澪がスタートラインに立った。
静寂。そして号砲。
彼女の滑りは、まるで氷の女王が舞うように優雅で、力強く、そして圧倒的に速かった。
私が叩き出した大会新記録を、彼女はさらにコンマ数秒塗り替えてしまった。
会場の空気が一変する。
さっきまで私を祝福してくれていた監督や仲間たちの声が、潮が引くように遠くなっていく。
代わりに聞こえてくるのは、「すげえ、氷室!」「やっぱり女王は違うな!」という、彼女を称賛する声、声、声。
悔しい。
悲しい。
なんで。
どうして。
どうしていつも、私の前にはこの人が立ちはだかるの。
頭の中がぐちゃぐちゃになって、叫び出しそうだった。みっともなく泣き崩れてしまいそうだった。
「――っ!」
その負の感情の渦から私を現実へと引き戻したのは、腕を強く掴まれる温かい感触だった。
ハッと我に返る。
そこに立っていたのは、あかりだった。
肩でぜえぜえと息を切らし、額には玉のような汗。丁寧に結んでいたはずの栗色の髪は乱れて頬に張り付いている。
それでも彼女は、私の腕を掴んだまま離そうとはしなかった。
「……はあ……はあ……。や、やっと……追いついた……」
「あかり……なんで……」
「静さんとの走り込みで少しは体力ついたかと思ったんだけど……まだまだだね……。やっぱり、みのりちゃんはすごいなあ……」
そう言って、あかりはニコっと笑った。
その、いつものおっとりとした優しい笑顔を見た瞬間、私の心の中で張り詰めていた糸がぷつんと切れた。
「……うわあああああああん!」
私は子供みたいに声を上げて泣きながら、目の前の小さな親友の体にぎゅっと抱きついていた。
***
近くのバス停のベンチに、私たちは並んで座っていた。
私はしゃくり上げながら、あかりに全部話した。
氷室澪のこと。一度も勝てたことがないこと。彼女の前に立つと、いつも体が縮こまってしまうこと。そしてもう一生、彼女には勝てないんじゃないかって怖くなってしまったこと。
あかりはただ黙って、私の話をうん、うんと聞いてくれていた。
全部話し終えると、少しだけ心が軽くなった気がした。
「……ごめんね、あかり。変な話、聞かせちゃって」
「ううん」
あかりは静かに首を横に振った。
そして少しだけ真剣な顔になって言った。
「……みのりちゃん。あの氷室さんって人、すごく怖かったよね」
「え……?」
「うん。私にもわかった。彼女の周りの空気が氷みたいにピリピリしてて……。でもね」
あかりは言葉を選びながら続けた。
「その氷みたいに冷たいオーラの中に、少しだけ揺らぎが見えたの。なんて言うか……不安や迷いみたいな色の」
「不安……迷い? あの人が?」
信じられなかった。いつも自信に満ちあふれて、女王みたいに振る舞っているあの氷室澪が?
「うん。たぶんね、彼女のあの態度は、みのりちゃんに対する不安の裏返しなんだと思う」
あかりはまっすぐな目で私を見た。
「彼女は、みのりちゃんのことが怖くて仕方ないんだよ。いつか自分を追い越していくんじゃないかって。だからああやって、わざと強い言葉でみのりちゃんを縛り付けようとしてる。自分の方が上なんだって、必死に自分自身に言い聞かせるために」
相手も私を怖がっている。
そのあかりの言葉は、まるで魔法みたいに私の心の中にすうっと染み込んでいった。
そうだ。そうかもしれない。
あんなふうに、わざわざ嫌味を言いに来るなんて、普通じゃない。
それは彼女が私のことを、それだけ強く意識している証拠なんだ。
「……そっか」
なんだか急に笑えてきた。
今まであんなに大きく、乗り越えられない壁のように見えていた氷室澪が、今はなんだか少しだけ小さく見える。
「私、馬鹿みたい。一人で勝手に怖がって」
「そんなことないよ」
「ううん。もう、大丈夫」
私は顔を上げて、あかりの手をぎゅっと握った。
「ありがとう、あかり。なんか吹っ切れた。明日からまた練習、頑張るよ。絶対に氷室に勝つために」
「うん。応援してる」
あかりは優しく握り返してくれた。
その小さな手の温かさが、私の心に勇気をくれる。
あかりがそばにいてくれて本当によかった。
こんなふうに、人の心の一番弱いところに、そっと寄り添ってくれる。
その時、遠くからバスがやってくるのが見えた。
「よーし、帰るか!」
私は立ち上がって、大きく伸びをした。
夕焼けの空が目にしみる。
明日からの練習は、きっと今までよりもずっと厳しくなるだろう。
でも、もう怖くない。
私の隣には、世界一の魔女がついているのだから。
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