第36話 【幕間劇】あの日と同じ花火
その誘いは、あまりにも突然だった。
――なあ、静。今夜、暇か?
スマホの着信画面に表示された、北原葵の名前。
その名前を見ただけで、私の心臓は、まるで十代の頃に戻ったみたいに、大きく跳ね上がった。
「はい。予定はありませんが」
「そうか。じゃあ、17時に迎えに行く。花火、見に行くぞ」
「……え?」
「いいから、行くぞ」
それだけ。
あまりにも葵先輩らしい、ぶっきらぼうな誘い方。
でも、その短いやりとりの中に、私は――何年も待ち続けていた、小さな希望の灯を見つけてしまった。
まるで、夏の終わりの夜に灯る、最後の線香花火のように。
約束の時間。
私は、クローゼットの奥に大切にしまっていた、一枚の浴衣を取り出した。
藍色に白の
これは、高校一年の夏、三年生だった葵先輩と初めて二人で花火を見に行ったときに、母に買ってもらったものだ。
あれから背も伸びたし、少し丈が足りないかもしれない。
それでも――今夜は、これを着ていきたかった。
小屋を出て国道に出ると、先輩はいつものピックアップトラックの運転席で待っていた。
私が近づくと、先輩は窓から肘を出したまま、じっと私を見た。
その視線が、浴衣の柄に留まる。
「……お前、それ」
「はい。物持ちが良いもので」
私が少しはにかむと、先輩は「……そうか。相変わらず、良く似合ってるな」と短く呟き、少し気まずそうに視線を逸らした。
――覚えていてくれた。
それだけで、胸の奥が温かくなる。
車は市街地の渋滞を避け、人気のない山道へと入っていく。
たどり着いたのは、市街地を見下ろす丘の上にある、一軒の古びたコンビニだった。
「……覚えてるか? ここ」
「はい。もちろんです」
高校生の時。
先輩がよく原付で連れてきてくれた、私たちの“秘密の場所”。
あの頃と何も変わらない。
寂れた自販機も、色褪せた看板も、そのままだった。
私たちはコンビニで飲み物を買うと、駐車場に停めたトラックの荷台に腰掛けた。
眼下には、宝石を散りばめたような帯広の夜景が広がっていた。
先輩はポケットから煙草の箱を取り出した。
だが中身は空だったようで、舌打ちをする。
「切らしてたか……」
先輩が腰を上げようとした、その時。
私は巾着袋から、一つの小さな箱を取り出して差し出した。
「――どうぞ、先輩」
「あ?」
先輩は、私が差し出した青いパッケージを見て、目を丸くした。
「メビウス……お前、煙草吸わねえだろ?」
「ええ。でも、先輩は昔からこれでしたよね」
さっきコンビニで買っておいた。
先輩が煙草を切らした時のために。
「……お前なぁ」
先輩は呆れたように笑うと、それを受け取り、慣れた手つきで火をつけた。
紫煙が、夜風に流れていく。
「……変わんねえな、お前は。昔っから妙に用意がいいっていうか、気が利くっていうか」
「先輩が無頓着すぎるんですよ」
「うるせえ」
懐かしいやり取り。
高校時代の校舎裏の空気が、そのまま蘇ったようだった。
「……なあ、あかりのヤツ、どうだ? ものになりそうか?」
煙草をくゆらせながら、先輩が尋ねた。
その横顔は、保護者の顔をしていた。
「そうですね……魔力は未熟ですし、体力もまだまだ足りません。覚えるべきことは山積みです」
私は少し厳しめに評価を口にし、それから付け加えた。
「でも、素直で芯が強い子です。きっと、良い魔女になりますよ」
「……そっか。お前がそう言うなら、安心だな」
先輩は嬉しそうに目を細めた。
遠くで、ひときわ大きな花火が上がり、遅れてドン、と音が腹に響いた。
「……静」
一瞬の静寂の中、先輩が私の名前を呼んだ。
「……はい」
「あたし……お前の気持ちには、応えられねえ」
覚悟していた言葉だった。
それでも、心臓が一度大きく脈打って痛んだ。
「静は、あたしなんかにはもったいないよ。もっと、いい人が絶対にいる」
高校の時と、同じ言葉。
同じ夜風。
同じ距離。
「……先輩」
私は顔を上げて、まっすぐに先輩の目を見た。
「それは、私が女だからですか? それとも、他に好きな人が……」
「違う。そういうことじゃない」
葵先輩は、私の言葉を遮るように、強く言った。
そして、うつむいて、ぽつりぽつりと話し始めた。
「高校の時は、お前の未来を奪っちゃいけないと思ってた。今のあたしは……多分、誰かを本気で好きになるのが怖いんだと思う」
先輩は煙を遠くへ吐き出しながら続けた。
「親父が死んで、母さんと二人で宿を継いで……。いつの間にか、誰かに寄りかかることも、甘えることもできなくなっちまった。強くなくちゃ、この場所を守れないと思ってたから」
先輩の声は、微かに震えていた。
「そんなあたしが誰かを好きになったら、きっと、その人に全部寄りかかって、ダメになっちまう。そんなことになったら、親父に顔向けできない。それに……」
「それに?」
「……それに、あたしがまともに恋愛できるまで、静を待たせる訳にいかない……だから、ごめん」
それは、私が知る限り、最も誠実で、そして最も臆病な、愛の告白の裏返しのように聞こえた。
――葵先輩らしい。
強くて、優しくて、どうしようもなく不器用で。
私は、こみ上げる愛おしさを抑えながら、そっと言った。
「……じゃあ、待っていてあげます」
「え……」
「いつまでも、待ちます。先輩が、いつか、誰かに寄りかかっても大丈夫だって思えるようになる日まで」
私は先輩の手から、少し短くなった煙草をそっと取り上げ、口にくわえて、煙をふっと吐き出してみせる。
高校時代、先輩に一度だけ教えて貰った、ふかしタバコ。
「その相手が、もし私じゃなかったとしても、それでもいいです。私は、先輩が幸せなら、それでいいですから」
一瞬、夜風が止まった。
次の瞬間、花火の音が空を震わせた。
「……お前は、本当に馬鹿だな」
そう言って、先輩は私の頭を、女性にしては大きな手でわしわしと撫でた。
その手のひらは、高校の時よりも少し硬く、そして、ずっと温かかった。
(……先輩。私は先輩が思っているような真面目な女じゃありません)
『もっといい人がいる』という言葉も、『私では先輩に相応しくない』と言う意味じゃないことくらい分かってます。
それでも、あなたとの繋がりを失いたくなくて、あなたの優しさに付け込んだんです。あかりさんまで利用して……。
遠くの花火が、クライマックスを迎えている。
私たちは、どちらからともなく、肩が触れ合う距離で並んで夜空を見上げた。
……今はまだ、この距離でいい。
先輩の隣に、私の居場所がまだあるのなら――
それだけで、私は十分に幸せだった。
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