第10話 想いの証

その夜、約束の時間。

街は春の夜風に包まれていた。

駅前のカフェの前で立っていると、藤堂が息を切らして駆け寄ってきた。


「ごめん、少し遅れた」

「ううん、私も今来たところ」


そう言いながらも、葵の声はどこか硬かった。

藤堂は気づいていた。

けれど、言葉を選ぶように沈黙を守る。


「最近、忙しかったんだ。いろんな準備で」

「・・・そうだね。昇進、おめでとう」

「ありがとう」


二人の間に、わずかな間。

コーヒーの香りも、遠くの喧噪も、やけに遠く感じた。


葵は迷っていた。

あの夜の光景を、言うべきか、飲み込むべきか。

だけど、胸の奥が痛くて、どうしても言葉がこぼれた。


「・・・あの日、あなたが女の人と歩いてるのを見たの」


藤堂の手が一瞬止まる。

視線が重なり、沈黙が落ちた。


「・・・そうか」

「何も聞かないの?」

「今は、言えない」


その一言が、すべてを拒むように響いた。

「“今は”って、いつ? ・・・私、何を信じればいいの?」


葵の声が震えた。

藤堂は答えず、ただ真っ直ぐに彼女を見ていた。

その目の奥に、何かを隠している。

でも、それを知るのが怖かった。


「・・・ごめんね」

葵は小さく微笑んだ。

「あなたの邪魔をしたくないの。

 忙しいのに、私なんかに気を遣わせたくないから」


「葵、違う、それは——」

「もういいの」


涙が頬を伝った。

「私、あなたのこと本当に好きだった。でも、これ以上信じるのが怖いの」


藤堂が何かを言おうとしたその瞬間、

葵は席を立ち、足早に店を出た。


外の風は冷たく、街の灯りが滲んで見えた。

心臓の音だけが耳の奥で響く。

——また、終わってしまうのかもしれない。


***


翌日。

藤堂は一人、デスクの引き出しを開けていた。

そこにある、小さな箱。

白いリボンで包まれたそれを、指先で撫でる。


“葵のためにデザインしてもらった。

彼女が笑顔で春を迎えられるように。”


あの日、一緒にいたのはジュエリーデザイナーの友人。

彼女に相談しながら、プロポーズの指輪を選んでいた。

まだ早いかもしれないと思いながらも、

“もう二度と彼女を不安にさせないため”に。


だが、結果は逆だった。

誤解を招き、彼女をまた傷つけてしまった。


「・・・俺のせいだな」

小さく呟いた声が、空気に溶けて消えた。


彼は箱を握りしめた。

「もう一度だけ、会って話そう。全部、伝えなきゃいけない」


そう決意したその夜。

葵のもとへ、一通のメッセージが届いた。


『明日の夜、桜並木に来てくれないか。最後に、伝えたいことがある。』


葵は画面を見つめ、息を止めた。

“最後に”という言葉が、胸を締めつける。


涙が滲む中で、指が震えながら返信を打つ。


『・・・わかりました。行きます』


窓の外では、まだ蕾だった桜が、

月明かりの下で静かに揺れていた。


——信じることを怖がった私に、

最後に何を伝えるのだろう。


葵は胸の奥で、

“終わり”と“始まり”のどちらかが待っている気がしていた。

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