第10話 白銀
ひばりが梢で鳴いている。高い囀りで瞼を押し上げたノワは、自分の匂いが馴染んだベッドから身を起こした。まだ朝と言うには早すぎる外は、靄でかすんで見通せない。かといって再び毛布を被っていられるほど、呑気に過ごせる今日でもない。窓を開け放って迎え入れた、冷たく透き通った風がまどろむ瞼に心地いい。シトロンとの決闘を目と鼻の先とする日の出は、オルールの険しい山々に未だ姿を隠している。
——騎士として迎える夜明けは、これで最後になるのかもしれないな。
窓枠に掌をつき、終わりかけている夜に向かって目を閉じる。深く息を吐けば、白い雲が口の中から逃げていく。彼女がたてる物音の他には何もない、瑠璃色の世界が果ての先まで広がっていた。
トン、トントン。
きんと澄んだ空気が流れる最中、不意に部屋の戸が続けて三回叩かれた。ノワが瞼を開いても、外の景色に変わりはない。約束のない来訪者に片眉を上げ、鼠か猫のいたずらを疑っていると、また同じ回数だけ戸が揺れる。どうやら、人の仕業であるらしい。
——シトロンか? 散々私を避けておいて、調子のいい奴め。
いぶかしみながらノワが扉を開けてやると、間もなく臨月を迎える女がそこにいた。布で包まれた荷物を抱え、伴もなしに廊下へぽつりと佇んでいる夫人は、至って簡素な寝間着である。
「ごめんなさいね、こんな時間に」
「奥様? どうして詰所の外れまで……いえ、その前に、立ち話はお身体に障ります」
寝具にしている毛布を畳み、ベッドの上へクッション代わりに敷いてみる。夫人の腹は大きく膨らんでおり、即席のソファもあまり甲斐なく上半身が重そうだ。詰所へ来るまでの道中で転んでいたらと内心ノワはぞっとして、女主人の傍へ膝をつく。幸い外傷は見当たらないが、歳上の彼女の笑みは、どこか儚い。
「どうかされたのですか。私が力になれることであれば、なんなりとお申し付けください」
「ありがとう。でも、少し話をしたいだけなのよ」
緩く首を振った彼女は、昼間に見る威厳が少しく削がれている。従者や家族、民草などの衆目が一切ない場所で彼女とノワが相対するのは、これが初めてのことだった。
「シトロンへ決闘を申し込んだと、昨夜に報告を受けました。求婚の取り下げを賭けているとか」
「事実です。日が昇ったら、彼と剣を交わします」
そう、と呟いた夫人は、膝の上へ橋を渡すようにして置いた細長い包みに視線を落とした。ノワからはその中身が窺えないが、外側に巻きつけてあるのは柔らかいショールだと分かる。本来であれば、夫人の肩を温めているべき布だ。
「……わたくしね、貴女に言われたことを、ずっと考えていたのです。人の心が様々であるように、幸福の型も一つではないという、あの言葉を」
「三ヶ月も前から、ずっと?」
頷かれて、ノワは驚愕に目を見開いた。辺境伯夫人という立場からすれば、騎士団の団員は対等では決してない。特に第二騎士団は平民で構成された組織であるため、気に入らない態度を理由に首をはねられても文句を言えない程度には、身分も立場も違っている。
『男も女も関係なく、みな、それぞれに違った心があります。心が様々であるのに、幸福が一つの型に当てはめられるなど、どうしても私には信じがたいのです』
そうした相手がこちらの意見を切って捨てず、あまつさえ考えこんでいたと言うのだから、ノワはただ驚くほかない。ショールの表面を撫でた夫人は、ノワの顔を見て、一度優しげに微笑んだ。
「貴女にとっての幸福は、わたくしの幸福とは本当に違っているのでしょう。『女として』ではなく、『ノワとして』の幸福を追い求めるのであれば、もはやわたくしや周囲が諭すべきではありません。無遠慮に立ち入って、申し訳なかったと思っています」
「か、顔をお上げください!」
腹の膨らみのため、顎を引く程度ではあったものの、彼女はノワに頭を下げた。膝を浮かせたノワは、目を白黒させて意味のない手振りをし、眉根まで下げ慌ただしい。
「どうか、その……ああ、困ってしまいます。ただ信じるものが違った、それだけのことがどうして罪になるのです?」
「……ふふ、そうね、信じるものが違っただけ。そう言ってどちらの心も守ろうとするような貴女だからこそ、彼も焦がれているのでしょう」
体勢を戻した夫人の顔色は明るく、ノワは安堵の息をついた。たちこめていた靄が薄れ始め、山脈の裾野には淡い黄色が混ざりだす。その明かりは、決闘が近づく足音にも等しい。眉を寄せた夫人は、荷物に添えている両手を僅かに握りこんでノワを見た。
「分が悪い賭けです。シトロンは、あの若さで第一騎士団の副団長を任されている身。相応の実力があるからこそ、わたくしたちは彼を選んでいます」
今度はノワが頷く番で、夫人は唇を引き結ぶことしかできなかった。分かっているのならばなぜ、と言外に問いかける雇い主に向かって、ノワは口の端を上げる。
「それでも、全力を尽くした結果であるならば、私は私を納得させることができます。一割に満たない可能性であろうとも、最初から諦めるよりはずっといい」
差しこむ朝日が、窓に背を向けたノワの輪郭を辿る。彼女は勝利を確信しているわけでも、ましてや自嘲しているわけでもない。迷いを捨てた魂から湧く意志こそがノワをまばゆく見せるのだと、夫人は目を細めて認めた。
「分かりました。では、これを受け取ってくれるかしら」
「これは?」
「結婚祝いとして渡そうと、わたくしが作らせていたものです」
包みを差し出されたノワは、恐る恐るそれに触れた。天井に向けた掌に乗る布越しの硬さは、とある予測を騎士にもたらす。深く一礼したノワは全ての重みを預かって、一息にショールを剥ぎ取り——ようやく姿を現したのは、白銀に輝く長剣だった。鞘にはオルール騎士団の印が刻印されており、グリップはノワの掌でも十分に握りこめる細さである。
「団の規格よりも薄く軽い、女性の体躯に合わせた剣です。うまく使えば、きっと貴女を助けてくれる」
抜き放った剣身のシルエットは、団の備品よりも華奢だ。濡れるように滑らかな刃が光を弾き、壁をちらちら照らしている。幅と厚みを抑え、幾重にも刃先を叩くことで切れ味を増した剣は、吸い付くようにノワの両手へ馴染んでいた。
「謹んで、拝領します。明日も私が騎士であれたなら、きっと御恩に報いましょう」
「その時には、今お腹にいる子の護衛をノワに任せます。もし負けたら、わたくしにドレスを選ばせて」
「後者は……何卒、お手柔らかに」
ノワを縁取る光が増し、朝の訪れを地に告げる。再び高く鳴いたひばりは、太陽の方角へと飛び立ち、二度と戻ることはなかった。
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