第8話 選択

「そらそらどうした、のろますぎて剣に蝿がたかっちまうぞ」

「ぐ……っ、この……!」

「今度は左がお留守だぜ、っと」

「あっ!」


 弾かれた長剣が宙を回り、ぬかるみを残した地面に刺さる。巻き上げるようにして武器を払われた衝撃が、肩で息をするノワの手に痛い余韻として染みた。振り仰いだ稽古相手は団で一番重い体躯をもちながら、軽く息をつくだけですっかり調子を戻している。彼の頬に残る裂傷の痕が、大きく開かれた口と動く。


「総員、そこまで! 気を散らしている奴がいたようだが、よっぽどおれに鍛え直されたいのかねえ」

「勘弁してくださぁい!」


 誰かの悲鳴で沸いた輪の中でも、ノワの顔は晴れなかった。彼女の様子を横目で見たオルール騎士団の頭領——男爵または子爵以上の家門で構成された第一騎士団の団長は、先ほどと同じよく通る声で部下に解散を告げる。泥で汚れた男たちは、ほとんど擦るような足取りで訓練場から散っていく。


「……クソ、情けない」


 彼女の自戒は乾いた風に攫われた。冬に移ろいつつある冷たさが、伝う汗と共に肌を舐める。地面に突き立てられた借り物の剣は、銀色に曇天を反射している。追って映りこんだノワの輪郭は曖昧で、鏡の代わりにはできそうもない。


『皆とはあまりに違うノワの道は、君自身にすら守られていないんだ!』


 思わず唇を噛めば、荒れた皮の合間から鉄の味が滲んだ。ノワを悩ませているシトロンは、領主一家の近衛でもある。今日は領主が彼を側に置く日だったため、団を跨ぐ合同訓練の途中で二人が顔を合わせることはなかった。


 ——不幸中の幸い、だな。恐らくは、お前にとっても。


 剣を引き抜き、袖で土を拭ってから鞘に収める。水気でたわんだ足音に視線を遣ったノワは、褪せたブーツの主へと細い片眉を吊り上げた。


「何かご用ですか。団長」

「敬語は無しでいいっつうのに、おまえはずっと頑なだなあ」

「たとえ当人の許可があったとしても、周りに難癖をつけられるのはこちらなので。ご自身の爵位をお忘れですか」

「そりゃ残念。おれにとっちゃ、団もでっかい家なんだが」


 無精髭を生やし、麻のシャツをはたいて風を取り込む団長が、辺境伯に次ぐ伯爵だとひと目で見抜く者はまずいない。襟ぐりで扇ぐたびにちらりと覗く首元には、年季の入った結婚指輪が通された革紐が巻かれている。細やかな銀の光沢は、持ち主がこまめに手入れしてきた証だ。彼の妻と娘の可愛がりようは、惚気話になった途端にテーブルから人が逃げ出す程度には有名である。


「ま、こっちの家名がおまえにつけば、やっかむ輩は散るだろうさ」

「……は?」


 貴族としては変わり者、騎士としては切れ者として名高い団長は、途端に神経を張りつめさせたノワに向かって肩をすくめた。公私共に重責を担っているとは思えない、砕けた振る舞いは彼の常だ。


「おまえをおれの養女にしてくれと、朝方に坊から頼まれてなあ。あの甥っ子に苦労させられてる同士、愚痴に花でも咲かそうや」


 辛うじて乾いていた木の根に腰を下ろした彼は、シトロンのそれよりも暗い瞳をもっている。日陰では黒に見える紺は、彼がオベール家の直系にあたることの証明であり、生来の地位を持たないノワが拒めるような相手ではない。


「まさか、既に頷かれたのですか」


 頬を強張らせる部下に、団長は首を横に振る。


「おまえの人となりを、多少は知っているつもりだからな。坊も相当思い詰めていた様子だったし、おおかた何かあったんだろう?」


 顔を顰めたノワを、団長は根気強く待った。謁見の間でシトロンが引き起こした騒動は、彼も現場を目撃している。口を開けては閉じ、何度目かのためらいを終えてようやく話し出した彼女の声はか細い。


「……三ヶ月後に、婚約をすると。それまでに心の整理をつけてほしいと、昨夜言われました」

「なるほどねえ。そりゃあ集中も途切れるわけだ」


 彼の隣にノワが座り、長剣の鞘が地面につく。雲の分だけ低いはずの曇天も、今の彼女にとっては高すぎる。揺れる視線は地面の近くをさまよった。


「騎士としていられる今を、私は気に入っているんです。身体を鍛えて、多少は誰かを救えるようになった。それは、かつて理不尽を被っていた私にとって大きな意味があることで、一つの幸福でもあります」


 無二の友人にまで恵まれた、と続けてノワは瞼を閉じた。二人が椅子にしている木の枝先で、そよ風にくすぐられた葉がざわめく。湿った訓練場に残るのは、既に彼と彼女だけとなっている。


「あいつも同じように思ってくれているはずだと、勝手に信じこんでいました」

「裏切られた、と思ったか?」

「いいえ!」


 目をみはった彼女は、自分の声の鋭さに驚いた。上げられた顔の強張りは、怒りを覚えた時にも近い。聞き役に徹する団長は、変わらず凪いだ表情で続く言葉を待っている。小さく息をつき、片膝を抱えたノワは肩の力を緩く抜いた。


「……いいえ、決して。シトロンは、本気で私を好いてくれています。身分を与え、財を分け、庇護下へ置きたがるくらいには。ひたむきな彼の気持ちには、私も向き合ってやりたい」

「こう言っちゃあなんだが、そこんところが伝わってるのは驚きだねえ。おれはてっきり、おまえは色恋沙汰を嫌っているとばかり思ってたぜ」

「憧れないことと、厭うことは違います。……正直に言って、このままシトロンに流された方が、この先の要らぬ苦労は避けられるのでしょう。だからこそ、奥様はあれほどまでに喜ばれた」


 シトロンと街へ出かけた日、化粧鏡に映った涼やかな令嬢を、ノワは他人事のように見ていた。頬のそばかすを白く埋め、花弁のように唇を染めた。下着はくすぐったいほど薄く、広がるスカートの扱いに難儀したことも覚えている。


『男の幸せは、女と子どもを守ること。女の幸せは、誠実な結婚をして、元気な子どもを産み育てることですからね』


 辺境伯夫人にかけられた餞の言葉も、彼女の脳裏に染みついている。


「けれど、それらを享受してしまえば、今の私は消えるでしょう。どれだけ不格好でも、どんなに険しい道であろうとも、私は自分で道を選んで自分の足で歩きたい」


 ——だから、彼の求婚は受けられない。


 膝を崩し、空を見上げる。雲の合間から落ちる陽が、ノワの目を細めさせる。


「シトロンが愛してくれたのも、変わった後の『ノワ』ではないはずなのにな……と。そんなことをずっと考えていたせいで、訓練にも身が入っていなかったのだと思います」

「難儀してるなあ、おまえたち」

「断ることすら出来なくなった今、悩んでも意味がないのかもしれませんが」

「すべはあるだろ。おれたちに打ってつけのやつが」

「えっ?」


 目を瞬いたノワに、団長は歯を見せて笑う。彼に告げられた短い策は、ノワの瞳に光を戻す。


「どうして、それを私に? シトロンは団長の血族でしょう。彼の肩をもつとばかり」

「騎士団の奴らは全員、おれの家族だ。ノワも坊も、お互いが納得できるところに収まってほしいっつうお節介とでも思ってくれ」


 両膝に手をあて、団長は頑強な身体を立たせる。手を振りながら去る背中は、ノワやシトロンのものより広く厚い。一人になった木陰で、ノワは求婚者がいるのだろう屋敷の窓を見遣った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る