第7話 現実
紺碧の瞳に、炎の端が揺れている。シトロンの顔があまりに近く、ノワは彼の瞳のほかに焦点を合わせることができない。
「求婚者を私室へ、しかも夜に招くなんて迂闊だよ」
彼が愛用する香水は昼間の汗で流れたのか、肌のにおいが薄くノワへと降りていく。訓練中に嗅ぐむさ苦しさとはまた違うそれは、どこか熱っぽさを帯びている。
「……離せ、シトロン。私に軽蔑されたいのか」
「勝手に振り解いて、逃げればいい。もっとも、君にできるならの話だけど」
ノワが両腕にこめた力は、彼の片手を引き剥がすには至らなかった。かえって拘束は強まり、シーツの皺が深くなっただけの抵抗は、遅れた焦燥を彼女にもたらす。怒りに勝る戸惑いを隠せなくなったノワによって、シトロンは心臓を針で突かれる痛みを覚えた。
「君は女の子だ。どれだけノワが鍛錬に励んでも、俺たちとは根本から違う。今日、あの路地裏へ飛びこむ前に、少しでもその心配をしてくれた? 男たちに無体を強いられるかもしれないと、正しくためらうことはできた?」
彼の吐息が唇に触れ、声変わりを済ませた言葉が耳を這う。今すぐにでもノワの全てを奪えるシトロンは、しかし彼女の衣服へ手をかけない。身体の自由を損ないながら、ガゼボでの告白と同じ声色で詰められる歪さが、組み敷かれたノワの息を浅くする。青くなった顔を背けられても、彼は彼女から退かない。
「どれだけ上手にかわし続けたとしても、いつかは騎士を退く時が来る。そのいつかの日、名誉も使命も無くして、独りで老いたノワの手に何が残されているのか、一度でも考えたことは?」
「黙れ! 黙れ、うるさい!」
「現実を見てくれ! 皆とはあまりに違うノワの道は、君自身にすら守られていないんだ!」
ノワの肩が揺れた。見開かれた瞳は瞬きを忘れ、臓腑を切り裂かれた激痛を堪えるかのように険しいものへと移っていく。再びシトロンを睨み上げたノワの右目から、一粒の涙がこぼれた。
「……お前の口からだけは、そんな言葉を聞きたくなかった……!」
しばらくの沈黙に閉じこめられた二人に変化をもたらしたのは、ノワの両腕の解放だった。まとめて押さえこんでいた手を離したシトロンは、身体も彼女の上からずらし、手を差し伸べる。その掌を無視して自力で起き上がったノワは、目元を腕で乱暴に拭った。横へ並んで座っていても、もはや二人の目は合わない。シトロンの両手は膝の間で組まれ、ノワは左右それぞれに固く拳を握っている。
「……昔、他の子より三年も遅れて入団した俺は、笑っちゃうくらい弱くてさ。貴族で、しかも歳上のくせをして訓練についていけないなんて、あってはならないことなのに」
ぽつぽつと話しだしたシトロンを、ノワは止めようとはしなかった。蝋燭の炎はまだ消えず、詰所の外を覆う霧のような小雨が、部屋を静かに冷やしていく。
「夜中にこっそり抜け出して、詰所の裏で素振りをしていたら、ノワが話しかけてくれたね。君は、俺との出会いなんて忘れちゃったかもしれないけど」
「……忘れてなんか、ない。私にとっても、シトロンは初めての友だった」
青年は口端だけで笑った。母を知らず、父には愛されず、幼い頃から気を強くもたねば立っていられなかったノワにとって、べそをかきながらも訓練用の木刀を離さなかったシトロンはひときわ目を引く存在だった。
——手のかかる弟のようだとすら、思っていた。
共に昼夜の鍛錬に励み、他の誰よりもめざましい成果を挙げられるようになった彼らは、無二の親友として青春を生きた。
「負けず嫌いで、ひたむきで、誰よりも努力を厭わないノワのことを好きになって。もどかしいこともあったけど……俺の喜びは、いつも君との日々にある」
組んでいる指に力がこもり、シトロンの爪が白くなる。互いに引き合うように触れた彼の拳と額は、司祭や司教に懺悔をする敬虔な信仰者にも似ていた。
「でも、この想いが募るほどに、君のあり方が痛々しいと思えてしまう」
ノワが右隣を見ても、彼の表情は窺えなかった。上体を起こしたシトロンから注がれる視線は、もはや友人としてのものではなく、何年も恋焦がれた相手へ赦しを求めるものだった。
「誰かに手折られる姿も、独りで萎れる姿も見たくはない。ノワにとってはつまらない幸せかもしれないけど、俺の全てをかけて君を守るよ。そのためなら、一生憎まれたって構わない」
どうか分かってほしい、と乞うシトロンへ返す言葉は、ノワの喉奥で絡まって音になりはしなかった。掌に血が滲んだ拳で彼を殴れず、さりとて頷いてもやれず、自分がどうしたいのかこれほどまでに迷うのは、彼女にとって初めてのことだった。
「三ヶ月後、俺は君を娶る。貴族の婚約には爵位が必要だから、ノワには縁戚の養女になってもらうとして……その手続きに少し時間がかかるんだ。領主様にも、あらかじめ許可はもらってる」
立ち上がったシトロンは、自らが閉めた扉に手をかけた。蝶番の軋んだ音が、静まりかえった夜の空気に爪を立てる。
「それまでに、心の整理をつけておいて」
言い捨てた彼の足音が、廊下を遠ざかっていく。燭台の底には溶けた蝋が水面を作り、綿をより合わせた芯が今にも身を沈めようとしている。
「私の、心」
胸に手をあてても、鼓動しか伝わらない。煤が銀の受け皿に落ち、橙色の炎が喘ぐ。ついに暗闇に包まれた女騎士の部屋は、次の朝日が昇るまで物音ひとつ立たなかった。
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