本当に算数に殺される
「先生、ちょっといいすか」
個別指導ブースの巡回中、俺の袖をくいっと引っ張ったのは、小学六年生の岸田大和(きしだやまと)だった。
メガネの奥の瞳は、いつも探偵みたいにキラリと光っている。
彼が俺を呼び止める時は、たいてい面倒くさい、いや、本質的な質問が飛んでくる時だ。
いや、…正直めんどくさい。
「どうした、大和。また問題文と喧嘩でもしたか?」
「喧嘩っていうか、ディベートです。こいつ、いろいろと脇が甘いんで」
大和はシャーペンの先で、問題用紙をとんとんと叩いた。
【問題】原価300円の商品を500個仕入れ、原価の4割の利益を見込んで定価をつけた。1週間で180個売れ、2週目は定価の2割引きで残り個数の4割、3週目は320円で全て売り切った。このときの全体の利益はいくらか?
「ああ、損益算か。どこで詰まった?」
「詰まってはないです。答えは出た。けど、この店の経営戦略、ヤバくないすか?」
「……経営戦略?」
また始まった。俺は内心でため息をつきながら、彼の話に耳を傾ける姿勢を取った。
「まず、こんなにコロコロ値段変えたらクレーム来ないすか? 3週間売ってるってことは、別に生鮮食料品とかじゃないでしょ。なのに、一週間ごとに値段が違うって、初めに定価で買った客、絶対怒りますよ」
「……まあ、たしかに。セールだったんだろ、きっと」
「セールだとしても、1週間で値段変えるってことは、最初の値付けをミスってるんですよ、たぶん。市場リサーチが甘い。この店長、商才ないんじゃないかな」
鋭い。というか、的確すぎる。こいつ、将来コンサルにでもなる気か?
「それに、消費税のことがどこにも書いてない。これじゃ正確な利益なんて出ないですよ。無いなら無い、あるならあるとちゃんと書くべきじゃない?」
「……それは、まあ、消費税がない国の話なんだよ、きっと」
「日本円の『円』を使ってるのに?」
「ぐっ……」
俺は言葉に詰まった。
完全に論破されている。
27歳の塾講師が、12歳の小学生に。
「それに、この手の問題も」
大和は待ってましたとばかりに、隣の速さの問題を指さした。
【問題】
500kmの道のりを時速100kmの車で走ると、何時間で到着しますか?
「答えは5時間。そんなの暗算で出ます。でも、現実的に考えてみてください」
「……現実的に?」
「500キロも走るのに、このドライバー、一度も休憩しないんすか? サービスエリアとか寄らないのかな。トイレに書いてありますよね、『適度な休憩を心がけましょう』って」
「……安全運転の鑑だな、大和は」
「あと、加速と減速。時速100キロに達するまでにも時間かかるし、目的地に着く前にはスピード落としますよね? その分のロスは考えなくていいんですか? もし考えなくていいなら、『ただし、加速・減速や休憩時間は考慮しないものとする』って、一文入れるべきじゃないですか? 問題として、不親切です」
正論だ。
一分の隙もない、完璧な正論。
こいつに比べたら、本部が出してくる理不尽な指示書なんて、穴だらけのザルみたいなもんだ。
「……大和、お前の言うことは、全部正しい」
「でしょ?」
「正しい。正しいんだが、算数の問題っていうのはな、一種の『お約束』なんだよ」
「お約束?」
「そう。問題文に書いてあることだけが、この世界のルール。消費税はない。ドライバーは鋼の膀胱を持つサイボーグ。車はスイッチを入れた瞬間に時速100キロに達する、未来の乗り物。そういうことにしておかないと、話が進まないんだ」
俺の苦しい言い訳に、大和はしばらく黙って、メガネの位置を指でクイっと直した。そして、静かに、だがはっきりと、こう言った。
「死にますよ、乗ってる人」
「……え?」
「急加速と急減速で、Gがすごすぎて。たぶん、内臓とかぐちゃぐちゃになります」
俺は返す言葉を失った。
脳裏に、無表情でスイッチを押すサイボーグと、その隣でぐちゃぐちゃになっていく同乗者の姿が浮かんで消えた。
ホラーだ。
算数の問題が、一瞬でホラーになった。
「……わかった。わかったから。もういい。お前は正しい。全面的に先生が間違ってた」
「いえ、先生は間違ってないです。問題文が、不親切なんです」
大和はどこか満足げに頷くと、シャーペンを握り直した。
「じゃあ、次の問題やってみろ」
「はい。あ、先生」
「ん?」
「さっきの店の利益、26,720円で合ってますよね?」
「……おう。合ってる」
俺は自分の計算メモをこっそりポケットに隠しながら、何でもない顔で頷いた。こいつの相手は、神経がすり減る。だが、まあ、悪くない。
少なくとも、死んだ魚の目で計算ドリルをこなすよりは、よっぽど。
俺は少しだけよろめく足取りで、次のブースへと向かった。こいつが将来、どんな大人になるのか。そして、算数の問題でこれ以上死人が出ないことを、心から願った。
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