学習塾【杉の森校】の日常風景。

詰替ボトル

算数に殺される

「先生、これ、答えは2個だよね?」


 俺がデスクで本部に送る売上報告書と格闘していると、ひょこっと顔を出したのは小学五年生の佐藤心春(さとうこはる)だった。


 国語の偏差値は常にトップクラス。その代わり、算数には壊滅的に弱い。


「お、心春か。どれどれ」


 俺は彼女が差し出した問題用紙を受け取った。そこに印刷されていたのは、こんな問題だ。


【問題】姉は42個、妹は10個のおはじきを持っている。姉が妹にいくつかあげたところ、姉の持っているおはじきの個数が妹の3倍より4個少なくなった。姉は何個、妹にあげましたか?


「うーん、惜しいな。答えは2個じゃないんだ、これが」


「えー、うそー。なんでー」


 心春は頬をぷくっと膨らませた。その解答用紙の隅には、彼女なりに立てたであろう式が、か細い字で書かれては消されている。

私が図を書いて説明しようと、メモ用紙を取り出した時、心春が語りだした。


「でもさ、先生」


「ん?」


 解き直しに入るかと思いきや、心春は心底不思議そうな顔で、小さな首をこてんと傾けた。


「私、おはじきなんか持ってないよ」


「……まあ、そうだよな」


 俺は苦笑いするしかなかった。確かに、令和の小学生がおはじきで遊んでいる姿は、俺も見たことがない。


「それにおはじきなんて要らないから、私なら妹に全部あげちゃうな。友達の家でも、おはじきなんて見たことないよ」


「たしかに。おはじきってどうやって遊ぶのか、そういえば先生も知らないや」


「でしょ? そういえば、こっちも気になったんだけど」


 心春は、今度は別の問題を指さした。


【問題】家から1200m離れた公園に行くのに、姉と妹は同時に家を出発して、姉は分速75m、妹は分速50mで歩きます。姉が公園に着いてから何分後に妹は公園に着きますか?


「このお姉ちゃんひどすぎない?」


「ひどい?」


「うん。けんかしてんのかな? でも、妹かわいそうじゃない? お姉ちゃんどんどん行っちゃったら、泣くよ、たぶん」


 心春の大きな瞳が、心配そうに潤んでいる。確か心春の妹は、まだ一年生だったはずだ。問題文の登場人物に、ここまで感情移入できるのが、彼女の国語力の源泉なのかもしれない。


「たしかに。妹、泣かないくらい大きいんだよ、きっと」


「でもそんなに大きかったら、自転車で行くな。私なら。だって1200メートルでしょ?」


 鋭い。ぐうの音も出ない。


 もしかして、これは俺たちが知らないだけで、高齢姉妹の話なのか? 姉82歳、妹79歳。二人ともシニアカーに乗っていて、その性能差が速度の違いを生んでいる、みたいな……。

 道端でシニアカーに乗ったお婆さんが、次々と現れる光景を想像して、吹き出しそうになる。ダメだ、シュールすぎる。


「それにね、先生。このお父さんさ、なんで忘れ物するかな……」


 心春が指さしたのは、父親が忘れ物をして、子供が自転車で追いかける問題だった。


「ほんとだよな。前の日にちゃんと準備しとけよって話だよな」


「うん。うちのお父さんだったら、お母さんにめっちゃ怒られるやつ」


「うちもだ」


 俺たちは顔を見合わせて、ふふっと笑った。

まあ、心春のこの疑問は、問題を丁寧によく読んでいる証拠だ。読まないやつよりずっといい。


 俺が解き直しを促そうとすると、心春は「あ、わかったかも!」と声を上げた。


「4個でしょ!」


「お、正解。なんでわかった?」


「わかんない。私の勘」


 それはそれで別の問題だ。俺は頭を抱えながら、もう一度、式の立て方から説明する羽目になった。


 ようやく解放されたデスクで、俺は再び手元の報告書に視線を落とす。


新規問い合わせ件数、季節講習の申込率……。数字、数字、数字。なんで、こんな無駄な報告書類があるんだろう? これを見て、本部の連中は何がわかるっていうんだ?


 心春が問題文のお姉ちゃんを心配したみたいに、この数字の羅列から、生徒一人ひとりの顔を想像してくれる人なんて、きっといないんだろうな。


ああ、くそ。本部って暇なのかな。

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