*IT企業、インテリアと勘違いされがち

志乃原七海

第1話「揺れる月曜日」

## プロジェクト:ペガサス


### 第1話「揺れる月曜日」


月曜の朝。システムエンジニアの新田誠は、自席に着く前に必ず行う儀式があった。給湯室で淹れた熱いコーヒーを片手に、愛用のオフィスチェアに深く腰掛け、背もたれを限界まで倒して「ぐでぇ」と息を吐く。この5秒間の弛緩が、週末モードの脳を仕事モードへと切り替えるための重要なスイッチだった。


だが、その日の月曜、新田のスイッチが押されることはなかった。


「……は?」


オフィスのドアを開けた瞬間、空気がガラスのように張り詰めていることに気づいた。キーボードを叩く音も、サーバーのファンが唸る音も、週明けの気だるい挨拶もない。フロアにいる全員が、まるで集団で見えない何かにおびえる小動物のように、それぞれのデスクの前で固まっていた。


その視線の意味を理解したのは、自分のデスクにたどり着いた時だった。


そこにあるはずのものが、なかった。

10段階のリクライニング機能と、絶妙な硬さのランバーサポートで新田の腰を守り続けてくれた、相棒とも言うべきオフィスチェアが。


代わりに鎮座していたのは、滑らかな曲線を描く、一体の木馬だった。


「……椅子、どこいったんですか?」


呆然と呟くと、隣の席の先輩、佐藤さんが生気の無い目でゆっくりとこちらを向いた。

「新田……おはよう。どうやら、これが……俺たちの新しい椅子、らしい」


木馬。それは子供部屋にあるべき遊具ではなかったか。しかし、目の前のそれは、北欧の高級家具のような洗練されたデザインだった。素材は美しい木目のアッシュ材。たてがみや尻尾は削ぎ落され、ミニマルなフォルムを追求している。異様にお洒落なのが、逆に現実感を奪っていた。


すると、フロア全体に一斉にメールの着信音が響き渡った。皆、おそるおるディスプレイを覗き込む。新田もそれに倣った。


**件名:【新生】企業改革プロジェクト『ペガサス』始動のお知らせ**


差出人は、先週就任したばかりの新CEO、一条院麗華。親会社の会長の孫娘で、経営経験はゼロ。海外のライフスタイル誌を愛読していることだけが、彼女に関する唯一の情報だった。


本文には、宝石を散りばめたような美辞麗句が踊っていた。


『親愛なるサイバー・フロンティアの皆様へ

現代のオフィスワーカーに最も欠けているもの、それは“揺らぎ”です。固定化された椅子は思考を停滞させ、創造性の翼を奪います。本日より、我々は固定観念という名の椅子を捨て、常に揺れ動く木馬にまたがることで、ダイナミックな発想と遊び心を同時に手に入れるのです。

さあ、皆さん。働き方にイノベーションを。我々はペガサスのように、既成概念の空を駆け巡るのです!』


フロアに、誰のものとも知れない乾いた笑いが響いた。

イノベーション。その魔法の言葉で、全ての理不尽が正当化されていく。


観念した新田は、ジャケットの前を開け、おそるおそる木馬にまたがった。思ったより座面が高く、足が少し浮く。シート部分は申し訳程度の薄いクッションがあるだけで、スーツの生地越しに木の硬さが尾てい骨を直撃した。


試しに、体を前後に揺らしてみる。


ギシッ……ギシッ……。


木馬は、子供の頃の記憶を呼び覚ますような、どこか懐かしい音を立てて揺れ始めた。

この状態で、どうやって精密なコーディングを?

キーボードに手を伸ばすと、揺れで視線が上下し、モニターのソースコードが波のように踊って見える。これでは30分で乗り物酔いだ。


ふと周りを見渡すと、そこには現代アートのようなシュールな光景が広がっていた。

スーツやオフィスカジュアルに身を包んだ大人たちが、真顔で木馬にまたがり、ゆらゆらと揺れている。営業部の鈴木課長に至っては、電話の受話器を片手に「ええ!ええ!今、非常にダイナミックな気分でして!思考がスイングしております!」と、なぜかノリノリで体を揺らしていた。


その時、フロアの奥から、山田部長が満足げな笑みを浮かべて現れた。彼はCEOの忠実なイエスマンだ。

「素晴らしい!皆さん、実にクリエイティブだ!イノベーションの揺りかごに揺られているようだ!」


山田部長は仁王立ちになり、フロア全体を見渡して高らかに宣言した。

「CEOは仰っている!『この揺らぎこそが、我が社の新しい鼓動なのだ』と!さあ、もっと魂を揺さぶるのだ!」


ギシッ……ギシッ……ギシッ……。


誰かの木馬が立てる単調な音が、新しいオフィスのBGMだった。

新田は深いため息をつき、揺れる視界の中で、どうにか開発ツールを起動した。

まだ、午前9時15分。

地獄のように長い一週間が、今、始まった。

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