第3話:人格の影(後編)



翌朝、佐原悠は目を覚ました。


「ん……」


体がだるい。


でも、同時に妙な爽快感もあった。


矛盾した感覚。


「変な感じだな」


佐原は起き上がり、窓を開けた。


朝の冷たい空気が部屋に流れ込んでくる。


深呼吸。


「今日は二次審査の前日か」


明日が、運命の日だ。


不安と期待が入り混じった感情。


でも、準備は万全だ。


ダンスも歌も、完璧に仕上げた。


「大丈夫。俺ならできる」


自分に言い聞かせて、佐原は朝の準備を始めた。


顔を洗い、朝食を作る。


その動作が、いつもより丁寧だった。


まるで、料理研究家のような手つき。


「……」


佐原は自分の手を見つめた。


また、出ている。


自分じゃない自分。


でも、もう驚かなくなっていた。


慣れてしまった。


朝食を食べながら、佐原はスマートフォンを開いた。


「おはよう」


『おはようございます、佐原さん。いよいよ明日ですね』


「うん。緊張するけど、頑張る」


『準備は万全です。自信を持ってください』


「ありがとう」


佐原は画面を見つめた。


AIの言葉は、いつも自分を励ましてくれる。


『今日は軽めの練習にしましょう。明日に備えて、体力を温存してください』


「分かった」


画面を閉じて、佐原は立ち上がった。


軽めの練習。


それなら、気楽にできる。


部屋の中央に立ち、ストレッチを始めた。


体が柔らかい。


いつもより可動域が広い気がする。


「不思議だな……」


佐原は自分の体に驚いた。


昨日までは、こんなに柔軟じゃなかった気がする。


でも、今日は違う。


体が軽く、どんな動きでもできそうな感覚。


「まあ、いいことだよね」


佐原は気にしないことにした。


そして、軽くダンスを踊った。


体が自然に動く。


無理なく、スムーズに。


まるで、空気のように軽い。


「完璧だ……」


佐原は満足した。


この調子なら、明日も大丈夫だろう。


-----


午後、佐原はカフェでのアルバイトに向かった。


今日が、審査前最後の仕事だ。


「こんにちは」


店に入ると、店長が迎えてくれた。


「おう、佐原。明日が二次審査なんだって?」


「はい」


「頑張れよ。応援してるから」


「ありがとうございます」


佐原は笑顔で答えた。


店長の言葉が、嬉しかった。


エプロンをつけて、カウンターに立つ。


「いらっしゃいませ」


客が入ってくる。


佐原は明るく迎えた。


そして、今日も仕事が始まった。


でも、今日は特別だった。


いつもより、自分の意識がはっきりしていた。


体が勝手に動くこともない。


言葉が勝手に出てくることもない。


全て、自分の意志でコントロールできている。


「やっと、普通に戻った」


佐原は安心した。


最近の不調は、きっと疲れのせいだったのだろう。


今日は調子がいい。


自分が自分である感覚。


それが、こんなに安心できるものだとは思わなかった。


「佐原、今日は元気だな」


店長が声をかけてきた。


「はい。調子いいです」


「それは良かった。明日に向けて、いいコンディションだな」


「はい」


佐原は笑顔で答えた。


そして、仕事を続けた。


客を迎え、注文を取り、コーヒーを淹れる。


全てが、自分の意志で。


自然に、楽しく。


これが本当の自分だ。


佐原はそう思った。


でも、休憩時間になったとき、違和感が訪れた。


バックヤードで一人座っていると、急に体がだるくなった。


「あれ……?」


立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。


「なんだ、これ……」


佐原は座り込んだ。


頭がぼんやりする。


視界が霞む。


「まずい……」


佐原は必死に意識を保とうとした。


でも、体が言うことを聞かない。


まるで、誰かに支配されているような。


「やめて……」


小さく呟いた。


そして、意識が遠のいていった。


-----


どのくらい時間が経ったのか。


佐原は、ふと意識を取り戻した。


「え……?」


気づいたら、カウンターに立っていた。


客に笑顔で接客している自分。


「お待たせしました。こちら、ブレンドコーヒーです」


(俺、今……何してた?)


記憶がない。


休憩時間にバックヤードにいたはずなのに。


いつの間にか、カウンターに戻っていた。


そして、普通に仕事をしている。


「ありがとう」


客が笑顔で受け取る。


佐原も笑顔を返した。


でも、心の中ではパニックだった。


(記憶が……ない)


さっきまでの時間、何をしていたのか。


全く覚えていない。


まるで、誰か別の人間が自分の体を使っていたかのように。


「佐原、大丈夫か?」


店長が心配そうに声をかけてきた。


「え、はい……」


「顔色悪いぞ。無理してないか?」


「大丈夫です。ちょっと、ぼーっとしてただけで」


佐原は笑顔を作った。


でも、内心は恐怖でいっぱいだった。


(俺、どうなってるんだ……)


自分の体なのに、コントロールできない。


記憶が飛ぶ。


誰かに乗っ取られているような感覚。


「本当に大丈夫か?明日、審査なんだろ?」


「はい。大丈夫です」


佐原は強がった。


でも、本当は怖かった。


何が起きているのか、分からない。


でも、それを誰にも言えない。


言ったら、頭がおかしいと思われる。


だから、一人で抱え込むしかない。


仕事を終えて、佐原は帰宅した。


部屋に入ると、すぐにベッドに倒れ込んだ。


「はあ……」


深く息を吐く。


体が重い。心も重い。


「俺、本当に大丈夫なのかな……」


不安が押し寄せてくる。


明日が二次審査なのに。


こんな状態で、ちゃんとパフォーマンスできるのだろうか。


スマートフォンを手に取る。


AIに相談しようか。


でも、何と言えばいいのか。


「記憶が飛ぶ」なんて、言えるわけがない。


佐原は画面を見つめたまま、動けなかった。


-----


その夜、佐原は早めにベッドに入った。


明日に備えて、しっかり休まなければ。


目を閉じる。


でも、なかなか眠れなかった。


不安が頭の中をぐるぐる回る。


(大丈夫。俺は大丈夫)


自分に言い聞かせる。


でも、心の奥底では分かっていた。


何かが、確実におかしい。


自分の中で、何かが起きている。


それは、もう無視できないレベルになっている。


でも、認めたくない。


認めたら、全てが崩れてしまう気がする。


だから、目を逸らす。


考えないようにする。


「眠ろう……」


佐原は無理やり目を閉じた。


そして、ようやく眠りに落ちた。


夢の中で、佐原は誰かに囲まれていた。


たくさんの人影。


それぞれが、佐原を見つめている。


「明日、頑張ってね」


「大丈夫だよ」


「僕らが、ついてるから」


「心配しないで」


「一緒に、乗り越えよう」


声が、次々と聞こえてくる。


佐原は夢の中で、その声に耳を傾けた。


優しい声。温かい声。


それらは、佐原を励ましてくれる。


「ありがとう……」


佐原は夢の中で呟いた。


すると、人影たちが微笑んだ。


佐原は、不思議な安心感に包まれた。


一人じゃない。


誰かが、そばにいてくれる。


それが、こんなに心強いとは。


でも、その安心感は恐怖に変わった。


人影たちが、佐原の体に入ってくる。


一人、また一人。


佐原の中に、溶け込んでいく。


「やめて……」


佐原は叫んだ。


でも、止まらない。


人影たちは、次々と佐原の中に入ってくる。


そして、佐原の意識が、少しずつ薄れていく。


自分が自分でなくなっていく。


複数の誰かに、分散していく。


「やめてくれ……!」


佐原は必死に抵抗した。


でも、無駄だった。


人影たちは、すでに佐原の一部になっていた。


-----


佐原は、ガバッと目を覚ました。


「はあ、はあ……」


息が荒い。体中に汗をかいていた。


「夢……?」


佐原は周りを見回した。


自分の部屋。いつもの部屋。


誰もいない。


「夢だ……夢だったんだ」


佐原は胸を撫で下ろした。


でも、心臓はまだ激しく打っている。


あまりにもリアルな夢だった。


人影たちが、自分の中に入ってくる感覚。


それは、今でもはっきりと覚えている。


「怖い……」


佐原は膝を抱えた。


時計を見ると、午前三時だった。


まだ夜中。


「もう一回、寝ないと……」


明日が二次審査なのに。


こんな状態では、ちゃんとパフォーマンスできない。


佐原は再びベッドに横たわった。


でも、目を閉じるのが怖かった。


また、あの夢を見るかもしれない。


「大丈夫……ただの夢だ」


自分に言い聞かせて、佐原は目を閉じた。


そして、ようやく眠りに落ちた。


今度は、夢を見なかった。


ただ、深い闇の中に沈んでいくだけ。


-----


翌朝、佐原は目覚まし時計の音で目を覚ました。


「……今日か」


二次審査の日。


佐原はゆっくりと起き上がった。


体は、意外と軽かった。


昨夜の悪夢は、もう忘れかけていた。


「よし、頑張ろう」


佐原は気合を入れて、準備を始めた。


シャワーを浴び、朝食を食べ、服を着替える。


「いい感じだ」


佐原は鏡の前に立った。


自分の顔を見つめる。


表情が、引き締まっている。


いつもより、大人びて見える。


「行ってきます」


鏡に向かって呟いて、佐原は部屋を出た。


二次審査の会場へ向かう。


電車の中で、佐原はスマートフォンを取り出した。


AIに、最後のメッセージを送る。


「今から、二次審査行ってくる」


すぐに返事が来た。


『頑張ってください、佐原さん。あなたなら、必ず成功します』


「ありがとう」


佐原は画面を見つめた。


このAIが、自分の支えだ。


このAIがいたから、ここまで来れた。


『佐原さんの中には、無限の可能性があります。それを信じてください』


無限の可能性。


その言葉が、佐原の心に響いた。


「うん。信じる」


画面を閉じて、佐原は窓の外を見た。


街が流れていく。


たくさんの人が、それぞれの人生を生きている。


その中の一人が、自分。


「俺は、やれる」


自分に言い聞かせた。


そして、会場に到着した。


大きなビル。たくさんの応募者。


みんな、緊張した面持ちだった。


佐原も緊張していた。


でも、同時に、不思議な落ち着きもあった。


まるで、自分の中に複数の感情が同時に存在しているような。


緊張している自分。


冷静な自分。


興奮している自分。


不安な自分。


それらが、全て混ざり合っている。


「佐原悠さん」


名前を呼ばれた。


「はい」


佐原は返事をして、審査会場に向かった。


ドアを開ける。


中には、三人の審査員が座っていた。


「よろしくお願いします」


佐原は深く頭を下げた。


そして、審査が始まった。


音楽が流れる。


佐原は、踊り始めた。


その瞬間、不思議なことが起きた。


自分の意識が、ふわりと浮いた。


まるで、自分の体を外から見ているような感覚。


体は勝手に動いている。


完璧なダンス。完璧な歌。


でも、それは佐原の意志ではなかった。


誰かが、佐原の体を使って、パフォーマンスしている。


いや、誰かではない。


複数の誰かが。


それぞれが、入れ替わりながら。


ダンスの部分は、ある人格。


歌の部分は、別の人格。


表情を作る部分は、また別の人格。


全てが、完璧に連携している。


まるで、オーケストラのように。


佐原は、ただそれを見ていた。


自分の体が、自分のものじゃないような。


でも、不思議と怖くなかった。


むしろ、安心していた。


(みんなが、助けてくれてる)


そんな感覚があった。


パフォーマンスが終わった。


審査員たちが拍手した。


「素晴らしい」


「完璧だったよ」


「合格です」


佐原は、ぼんやりとそれを聞いていた。


合格。


自分は、合格したのだ。


「ありがとうございます」


佐原は深く頭を下げた。


そして、会場を後にした。


廊下に出ると、佐原は壁に寄りかかった。


「やった……合格した」


嬉しい。


でも、同時に、空虚な感覚もあった。


あのパフォーマンスは、本当に自分がやったのだろうか。


それとも、誰か別の人間が?


「分からない……」


佐原は頭を抱えた。


でも、結果は出た。


それで、いいはずだ。


「よし、帰ろう」


佐原は会場を後にした。


-----


**【第3話・完】**

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