2.ワオとシロ
――話は、昨日の夜に遡る。
「……寝たら負けだぞ、俺」
うとうとしかけたとき――廊下でコトンと音がした。次の瞬間、ドアがゆっくり開いて、灰色の猫が顔をのぞかせた。
「ヒョードル、おまえか。びっくりするじゃねえか」
ヒョードルという名の岩尾の愛猫が、口に何かを咥えている。白い……ぬいぐるみ? ずるずると部屋に引きずり込み、ベッドの上にぽとりと置いた。
「どっから持ってきたんだよ、それ」
拾い上げてみると、掌より少し大きい白い虎のぬいぐるみだった。毛並みが妙に上質で、縞模様が淡い金色に光っている。猫はそのぬいぐるみを前足で転がし、耳をかじろうとした。
「おいおい、やめろって。かわいそうだろ」
岩尾はぬいぐるみを助けるように手を伸ばした。ヒョードルが不満そうに「にゃー」と鳴いたその瞬間、ぬいぐるみが、かすかに動いた。
「……ん?」
もう一度目を凝らす。微妙に呼吸している。ぬいぐるみなのに。
「ぬいぐるみって、呼吸するか?……おまえ、生きてる?」
ほんの冗談みたいに、岩尾がつぶやく。
「そうか! ぬいぐるみ。おまえラウスだろ? なんだよ、驚きの白さだな」
返事の代わりに、ぬいぐるみの首が横に振られた。
「うわ、返事した! ラウスじゃないってこと? じゃあおまえ誰!?」
ヒョードルが毛を逆立て、ぬいぐるみに向かって「シャーッ」と威嚇した。
「おい落ち着け――」
そう言いかけたとき、足元の感触が変わった。床が、砂になっていく。
「ちょ、待て待て待て――!」
ヒョードルの鳴き声が遠ざかる。世界が反転した。
一面に続く砂の丘。暑くはないのに乾いた空気。耳の奥で鈴のような音が鳴る。
「夢……じゃねえな」
黄茶けた砂の向こうで、何かが立ち上がった。四つ足。長い尾。雪みたいな毛並み。ところどころに淡い金の縞が走り、動くたびに細かな砂を巻き上げる。耳は小さく、ヒゲは長く、氷色の薄いブルーの瞳がまっすぐこちらを見た。
「……でけえ」
巨大な虎が口を開いた。
「喰われるのか、おれ」
岩尾が覚悟を決めかけたとき、大きな口から声が出てきた。
『——你好!』
「ニーハオ? 中国語!? やっぱ虎は中国産なのか」
虎は首を傾げ、次は巻き舌気味に言った。
『¡Hola! ¿Dónde estás?』
「へえ、別の国の言葉もしゃべれるのか。バイリンガルな虎だな」
少し考えて――
『Hello? Friend?』
「お、英語!なんでもいけるんだな。じゃあ……ジャパニーズ、プリーズ!」
虎は目を閉じ、喉を鳴らし、試行錯誤してから言葉をつむいだ。
『コンニ・チ・ワ……』
「通じた! すげぇ!」
『に、ほん、ご? ……少ないのに。でもわかってうれしい! 』
極太の尾がぶんぶんと振られる。岩尾は笑って肩の力を抜いた。
「おまえ、思ってたよりフレンドリーだな」
『しらないにおいがする』
「そりゃ初対面だろ。おまえも知らないにおいがするぞ」
『はじめては、しらないにおい?』
「そうだよ。次に会ったら知ってるにおいだ」
巨大な虎の体がふわりと揺れ、ゆっくりと縮んでいく。体育館ほどあった体が、十秒ほどで岩尾の肩ぐらいまで。
「サイズ調整つき……? 高性能だな」
『ふんじゃいそうだから、ちっちゃく』
「気を遣ってくれてんのか。やさしいな」
手をのせると、毛並みが絹糸のように柔らかい。白い虎は目を細めて頬を寄せてきた。
「なあ。おまえは白虎なのか?聖獣の」
『うん。しってるの? 』
「やっぱそうなのか! 名前だけな。そうか、白虎か 」
岩尾はもふもふを堪能しながら聞く。
「名前といえば、おまえ自身に名前はあるのか?
『なまえ、ある。むかしのことばで……』
胸を張り、喉の奥から古い響きの音を紡ぐ。言葉というより、風のような律動。
「綺麗な名前なんだな。いい名前だ。でもわりい、俺には発音できなそう」
『にほんご、なら……“シロ”?』
「急に犬とか猫みたいだな」
『?』
「いや、いいよ。わかった、シロ」
『シロ! ワオとシロ、なかよし!』
「“ワオ”?」
『ィアオ、むずかしい。ワオ、でいい?』
「好きにしな」
『ワオ、すき!?』
「いや、好きにしな、っていうのはだな……ってまあいいか! そう。好き! 」
『すき! 』
シロの尻尾が大きく一度、ぱたんと揺れた。次の瞬間、白い塊が岩尾の胸めがけて突っ込んできた。
「うわっ!? ちょ、おまっ、重っ!」
もふもふが雪崩のように押し寄せる。柔らかい毛と、思いのほかずっしりした重み。
『ワオー! すきすきー!』
「おまえ、抱きつく文化どこで覚えた!?」
『いんたーねっと!』
「悪影響だろそれぇ!」
シロは岩尾の腕の中でごろりと転がり、足を天に向けてバタつかせた。岩尾が慌てて押しのけようとすると、シロが口を開ける。
『あそぶ! ワオ、あそぶ!』
「あー、はいはい。おまえ、もしかして子どもか?」
『こども! でも、つよい!』
「それは認める。……って噛むな! 服は食べもんじゃねえ!」
『ちがう、“ともだち”のにおい、すき』
「そうかよ。なら軽めで頼む」
毛だらけになったシャツを払いながら、岩尾は笑った。まったく予想外だったけれど――この白い虎を嫌いにはなれそうにない。
笑いながら、岩尾はスマホを取り出した。
「証拠写真、撮っとくか。あいつら信じないし」
『しゃしん! とる!』
シロは即座に姿勢を正し、前足をそろえて胸を張る。舌をちょこん、と。
「モデルかよ。さてはインスタも見てるな。はい、いくぞ。三、二、一」
『にっ!』
――カシャ。
砂がさらりと流れ、画面にはゴツい若者と白い虎。別世界の明るさの中で、ふたりとも笑っていた。
「送るわ」
岩尾はスマホを取り出し、文章を打ち始めた。
『おくる? だれに?』
「友だちに」
『ともだち? ワオの?』
「そう。熊の匂いがするやつ」
『くま! すき!』
「ついでに、たぶん人魚も一緒に見ると思う」
『ワオの友だち、くまとにんぎょ』
「そうだ、ほかにももう一人いる」
(もう一人は……人間なのか? いや、深く考えたら終わるやつ! )
岩尾は縦に長い瞳孔を思い出しながら、文章を打ち終えた。
『当たってたよ。次は白虎だった。いま一緒にいる』
写真を添えて、送信。送れた。
「電波、生きてんのか? 白虎回線ってやつか」
『ワオのともだち、ここにくる?』とシロ。
「来る。あいつら、絶対来る」
そう言うと、シロはうれしそうに跳ねた。その跳ね方は、でっかい子どもそのものだった。
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